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1.陽翔
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陽翔こと、ハルにとって、あの日の朝はいつもと同じ、何の変哲もない日常のひとこまだった。
だから、いつものように慌ただしく出勤準備をする母親に、予定の確認をしあう程度の会話をし、朝食を食べながら見送った。あれが母一人子一人の家庭環境の中でも、良好な関係を築いてきた母親との最期だなんて誰も思わない。当然、ハルも母親の顔や表情なんて見ていないし、それよりも食パンの上の目玉焼きが指につかないかを気にして、今日の朝食も美味しくできたなと自画自賛しながらパンをかじっていた。
だから、中学校の授業の途中で呼び出されて病院に向かうことになるなんて、夢にも思っていなかったし、目を閉じて横たわる母親に対し、元気な母を思い出そうにも、「行ってきます。」と出勤していく後ろ姿しか思い出せず、これからしてあげたいと思っていたあれこれが、もうできなくなってしまったと言う事実だけが心に突き刺さった。
それからのことを、ハルはよく覚えていない。
涙ながらに駆けつけた伯母が葬儀を済ませてくれて、ハルはそのまま伯母夫婦の家に引き取られることになった。
あれから一年、中学を卒業したハルは伯母に頼みこみ、母と暮らしたアパートにそのまま一人で暮らしていた。高校生活との両立は大変ではあるが、もともと母を助けながら、この小さなアパートで自炊生活をしていたから、さほど苦にはならなかった。
今日は伯母の家に近況報告がてら食事に誘われていて、一人暮らしにも、高校生活にも慣れてきたハルは、これを機に、バイトをしたいことを相談するつもりでいた。以前もバイトしたいと伝えたところ、まだ早いと許可が下りなかったのだ。伯母夫婦はハルを可愛がってくれていて、食事のあとは泊まっていけと引き留められるのが分かっているので、そのつもりでリュックに荷物を詰めた。
6歳と3歳の年の離れた従兄弟たちと遊ぶのもハルの楽しみで、今日は何して遊ぼうかと思いながら、アパートのドアに鍵をかけて一歩踏み出した。
「え。」
一歩踏み出したそこにあるべき景色がなくなっているなんて、誰が想定するだろうか。代わりにそこにあるのは、膝丈くらいの草が生い茂る草むらだった。
近くに森や林らしきものも見える。
家に戻ろうと振り返ると、そこにはドアはなく、代わりにハルの背丈と同じくらいの高さの岩が、風化した記念碑のように一つ、立っていた。
自分になにが起きたのか、突然すぎて理解が追いつかなかったが、ドキドキと脈打つ胸を押さえ、かつて誕生祝いに母が買ってくれたアナログ表示の腕時計を見る。針は午後の2時を少し回っていて、自分が部屋を出たばかりであることを確信する。
肺も活発に動きを増し、浅く呼吸を繰り返しながら、震える手を動かしてズボンのポケットに突っ込んでいたスマホを取り出して起動しても、表示は圏外。どのアプリも、通信ができなくて使い物にならないようだ。
「ここ、どこ?」
カラカラに乾いた喉からは掠れた声が出たが、当然、誰も答えてくれない。
混乱で熱くなる頭と体に、草を揺らしながら通り抜ける風が触れる。その風が、匂いが、これは夢ではないとハルに伝えてくる。
「グォグォグォッ!」
突然の咆哮に、ハルの体は恐怖に震えあがる。とっさに記念碑のような岩に抱きついてしまったが、岩に隠れて物音がする方を見ると、林の奥から黒い大きな動物が飛び出してきたのが見えた。
「うわ、でかいな。」
結構な距離があるにも関わらず、軽自動車くらいあるように見える。あれはバイソンとかバッファローとか呼ばれる動物ではないだろうか。その黒い巨体を揺らしながら、猛スピードでハルの方に突進してくる。
「ひっ。」
ハルはなす術もなく、岩の後ろにしゃがみこむことしかできなかった。
大きな黒い獣の、いよいよその息づかいまでもが生々しく聞こえた時、空から何かが落ちてきて地面に刺さる音が無数にした。その範囲は広く、岩かげに身を伏せたハルのそばの地面がえぐれ、岩も削れて破片が降り注ぐ。と、同時にその何かが獣にも命中しているのだろう、獣の唸り声が響いた。
「ガァァァァ!。」
獣が唸りながら無惨に削れた岩に激突し、その衝撃でうずくまっていたハルの体が吹き飛び、ハルはゴロゴロと転がって止まった。
獣に襲われる恐怖から顔をあげると、獣は血を滴らせながら、ハルのすぐそばにいて、一歩、また一歩と近づいて来る。遠目に軽自動車くらいと思っていたが、目の当たりにしたそれは、トラックより大きいのではないだろうか。
「あっ。あっ。」
あまりの恐怖に身がすくみ、逃げることができない。
「✕✕✕。」
誰かの声が聞こえた瞬間、獣の周囲にまた何かが落ちて刺さった。それはハルの近くにも落ちてきたが、先程の時より的が絞られていて、獣の上に降り注ぐ。
「ギガガガガッ。」
とても獣とは思えない断末魔と共に獣がハルのすぐそばで、ドウッと倒れ、動かなくなった。
獣の向こうからガシャガシャ音がして、それは、人の歩く気配に感じられた。
助けが来てくれた。ハルがそう思ったとき、獣の首からどす黒い液体が吹き出し、近くにいるハルにも降り注ぎ、衣服を黒く染めた。そして、その頭がゴロリと転がった。
「え?。」
思わず声を出してしまったが、それは言葉になっていたか、気にする余裕がない。
再びの恐怖で腰が抜け、後退りしてその場を離れようとしても、うまく体が動いてくれず、自分が叫んでいるのか、逃げているのかわからなくなってしまった。
「✕✕✕。」
「✕✕、✕✕✕。」
誰かが何か話しているけれどうまく聞き取れない。
自分の目の前に、誰かが近付いてきたけれど、それが人と認識できない。
「あーっ、あーっ。」
ハルは恐怖から声をあげ、無意識に手と足を曲げて顔とお腹を守る姿勢をとると、そこでぶつりと意識を手放してしまった。
* * *
「おい、小僧、だいじょうぶかって聞いてるだろう?。」
動かなくなったハルに声をかけているのは、辺境警備隊の第三隊長ライアスだった。
日頃から鍛えている体はたくましく引き締まり、体格もそれなりに大きい。金色に輝く綺麗な髪の毛は無造作に一括りに縛られていて、ややつり上がった目と眉毛が、若くても隊長になり得る才覚を持った人物であることを印象付けていた。
「たく、助けてやったのに、逃げるとかどういうつもりだ。おいっ。返事くらいしろよ。」
助けたと、言うよりも、討伐対象の魔物の頭を切り落としたら、その先に子どもがいたことに気づいただけだったのだが、そこは棚上げをし、剣についた魔物の血を振り払って鞘に納め、溜め息をつく。
「あーあ、一般人のそばで広範囲魔法はいけませんよ。かわいそうに、その子、気を失ってるんじゃないですか?。」
「うるせ、俺は広範囲のつもりはなかった。」
「威張って言うことじゃないでしょう。その子が怪我をしていたら、どう責任とるんですか。ちゃんとみてあげてくださいね?。」
ライアスに追い付いてきた副隊長のオスカーは、その温厚な性格で若い隊長の陰日向となり、隊長を支えているだけあって、苦言もきちんと伝える。
「みろったって、魔物の返り血まみれで、どれが怪我だかわかんねえじゃないか。」
「まぁ、そうですねぇ。しかし、隊長、その子、一見男の子に見えますが、それにしちゃあ細すぎじゃないですかね。ちゃんと服を着ているから、奴隷や貧困の類いではなさそうですけど。髪の毛が短いから貴族の線も薄そうですしね。とりあえず、ご迷惑かけた分はきちんとお世話をしてさしあげてくださいね。我々第三隊の評判がこれ以上悪くならないように、お願いしますよ。」
オスカーはそう言うと、さっさと後続の部下達のところへ戻って行ってしまうし、この動かない子どもを見捨てるわけにもいかないしで、ライアスは溜め息をつくしかなかった。
だから、いつものように慌ただしく出勤準備をする母親に、予定の確認をしあう程度の会話をし、朝食を食べながら見送った。あれが母一人子一人の家庭環境の中でも、良好な関係を築いてきた母親との最期だなんて誰も思わない。当然、ハルも母親の顔や表情なんて見ていないし、それよりも食パンの上の目玉焼きが指につかないかを気にして、今日の朝食も美味しくできたなと自画自賛しながらパンをかじっていた。
だから、中学校の授業の途中で呼び出されて病院に向かうことになるなんて、夢にも思っていなかったし、目を閉じて横たわる母親に対し、元気な母を思い出そうにも、「行ってきます。」と出勤していく後ろ姿しか思い出せず、これからしてあげたいと思っていたあれこれが、もうできなくなってしまったと言う事実だけが心に突き刺さった。
それからのことを、ハルはよく覚えていない。
涙ながらに駆けつけた伯母が葬儀を済ませてくれて、ハルはそのまま伯母夫婦の家に引き取られることになった。
あれから一年、中学を卒業したハルは伯母に頼みこみ、母と暮らしたアパートにそのまま一人で暮らしていた。高校生活との両立は大変ではあるが、もともと母を助けながら、この小さなアパートで自炊生活をしていたから、さほど苦にはならなかった。
今日は伯母の家に近況報告がてら食事に誘われていて、一人暮らしにも、高校生活にも慣れてきたハルは、これを機に、バイトをしたいことを相談するつもりでいた。以前もバイトしたいと伝えたところ、まだ早いと許可が下りなかったのだ。伯母夫婦はハルを可愛がってくれていて、食事のあとは泊まっていけと引き留められるのが分かっているので、そのつもりでリュックに荷物を詰めた。
6歳と3歳の年の離れた従兄弟たちと遊ぶのもハルの楽しみで、今日は何して遊ぼうかと思いながら、アパートのドアに鍵をかけて一歩踏み出した。
「え。」
一歩踏み出したそこにあるべき景色がなくなっているなんて、誰が想定するだろうか。代わりにそこにあるのは、膝丈くらいの草が生い茂る草むらだった。
近くに森や林らしきものも見える。
家に戻ろうと振り返ると、そこにはドアはなく、代わりにハルの背丈と同じくらいの高さの岩が、風化した記念碑のように一つ、立っていた。
自分になにが起きたのか、突然すぎて理解が追いつかなかったが、ドキドキと脈打つ胸を押さえ、かつて誕生祝いに母が買ってくれたアナログ表示の腕時計を見る。針は午後の2時を少し回っていて、自分が部屋を出たばかりであることを確信する。
肺も活発に動きを増し、浅く呼吸を繰り返しながら、震える手を動かしてズボンのポケットに突っ込んでいたスマホを取り出して起動しても、表示は圏外。どのアプリも、通信ができなくて使い物にならないようだ。
「ここ、どこ?」
カラカラに乾いた喉からは掠れた声が出たが、当然、誰も答えてくれない。
混乱で熱くなる頭と体に、草を揺らしながら通り抜ける風が触れる。その風が、匂いが、これは夢ではないとハルに伝えてくる。
「グォグォグォッ!」
突然の咆哮に、ハルの体は恐怖に震えあがる。とっさに記念碑のような岩に抱きついてしまったが、岩に隠れて物音がする方を見ると、林の奥から黒い大きな動物が飛び出してきたのが見えた。
「うわ、でかいな。」
結構な距離があるにも関わらず、軽自動車くらいあるように見える。あれはバイソンとかバッファローとか呼ばれる動物ではないだろうか。その黒い巨体を揺らしながら、猛スピードでハルの方に突進してくる。
「ひっ。」
ハルはなす術もなく、岩の後ろにしゃがみこむことしかできなかった。
大きな黒い獣の、いよいよその息づかいまでもが生々しく聞こえた時、空から何かが落ちてきて地面に刺さる音が無数にした。その範囲は広く、岩かげに身を伏せたハルのそばの地面がえぐれ、岩も削れて破片が降り注ぐ。と、同時にその何かが獣にも命中しているのだろう、獣の唸り声が響いた。
「ガァァァァ!。」
獣が唸りながら無惨に削れた岩に激突し、その衝撃でうずくまっていたハルの体が吹き飛び、ハルはゴロゴロと転がって止まった。
獣に襲われる恐怖から顔をあげると、獣は血を滴らせながら、ハルのすぐそばにいて、一歩、また一歩と近づいて来る。遠目に軽自動車くらいと思っていたが、目の当たりにしたそれは、トラックより大きいのではないだろうか。
「あっ。あっ。」
あまりの恐怖に身がすくみ、逃げることができない。
「✕✕✕。」
誰かの声が聞こえた瞬間、獣の周囲にまた何かが落ちて刺さった。それはハルの近くにも落ちてきたが、先程の時より的が絞られていて、獣の上に降り注ぐ。
「ギガガガガッ。」
とても獣とは思えない断末魔と共に獣がハルのすぐそばで、ドウッと倒れ、動かなくなった。
獣の向こうからガシャガシャ音がして、それは、人の歩く気配に感じられた。
助けが来てくれた。ハルがそう思ったとき、獣の首からどす黒い液体が吹き出し、近くにいるハルにも降り注ぎ、衣服を黒く染めた。そして、その頭がゴロリと転がった。
「え?。」
思わず声を出してしまったが、それは言葉になっていたか、気にする余裕がない。
再びの恐怖で腰が抜け、後退りしてその場を離れようとしても、うまく体が動いてくれず、自分が叫んでいるのか、逃げているのかわからなくなってしまった。
「✕✕✕。」
「✕✕、✕✕✕。」
誰かが何か話しているけれどうまく聞き取れない。
自分の目の前に、誰かが近付いてきたけれど、それが人と認識できない。
「あーっ、あーっ。」
ハルは恐怖から声をあげ、無意識に手と足を曲げて顔とお腹を守る姿勢をとると、そこでぶつりと意識を手放してしまった。
* * *
「おい、小僧、だいじょうぶかって聞いてるだろう?。」
動かなくなったハルに声をかけているのは、辺境警備隊の第三隊長ライアスだった。
日頃から鍛えている体はたくましく引き締まり、体格もそれなりに大きい。金色に輝く綺麗な髪の毛は無造作に一括りに縛られていて、ややつり上がった目と眉毛が、若くても隊長になり得る才覚を持った人物であることを印象付けていた。
「たく、助けてやったのに、逃げるとかどういうつもりだ。おいっ。返事くらいしろよ。」
助けたと、言うよりも、討伐対象の魔物の頭を切り落としたら、その先に子どもがいたことに気づいただけだったのだが、そこは棚上げをし、剣についた魔物の血を振り払って鞘に納め、溜め息をつく。
「あーあ、一般人のそばで広範囲魔法はいけませんよ。かわいそうに、その子、気を失ってるんじゃないですか?。」
「うるせ、俺は広範囲のつもりはなかった。」
「威張って言うことじゃないでしょう。その子が怪我をしていたら、どう責任とるんですか。ちゃんとみてあげてくださいね?。」
ライアスに追い付いてきた副隊長のオスカーは、その温厚な性格で若い隊長の陰日向となり、隊長を支えているだけあって、苦言もきちんと伝える。
「みろったって、魔物の返り血まみれで、どれが怪我だかわかんねえじゃないか。」
「まぁ、そうですねぇ。しかし、隊長、その子、一見男の子に見えますが、それにしちゃあ細すぎじゃないですかね。ちゃんと服を着ているから、奴隷や貧困の類いではなさそうですけど。髪の毛が短いから貴族の線も薄そうですしね。とりあえず、ご迷惑かけた分はきちんとお世話をしてさしあげてくださいね。我々第三隊の評判がこれ以上悪くならないように、お願いしますよ。」
オスカーはそう言うと、さっさと後続の部下達のところへ戻って行ってしまうし、この動かない子どもを見捨てるわけにもいかないしで、ライアスは溜め息をつくしかなかった。
応援ありがとうございます!
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