暁の山羊

春野 サクラ

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 葛重實の息子に大金を渡したあの日以降、二賀斗は必ず土・日のどちらかを使って小屋に通った。そして小屋に着くと、決まって山桜の木のそばに車を停め、車から降りると山桜の太い幹に手のひらを押し当てた。そうして大きく空に向かって枝を拡げた山桜を見上げて、葉奈の姿を思い出していた。その後には決まってこうつぶやく。
 「葉奈。また会おうな」
 二賀斗はそのまま腰を落として山桜の幹にもたれ掛かったまま、ぼんやりと南側に広がる風景を見つめていた。

 二月のある日。いつものように週末を迎え、二賀斗は車で山道を上り、小屋に向かう。そしていつものように山桜の木のそばに車を停めておもむろに運転席の扉を開いて外に出る。
 山の上から吹き降りる冷たい風が容赦なく辺りの裸木を揺らす。そして二賀斗の身体にも風はまとわり付く。
 「うおォ、寒ゥ!」
 身を縮こまらせながらも、二賀斗はいつものように山桜の幹に手を当てて静かに心の中で葉奈に挨拶をした。そしてそのまま腰を落として幹にもたれ掛かった。
 空も、辺りの木々も寂しい表情をしている。鳥の声も聞こえない。暖かい命の脈動がまったく感じられない風景だった。
 「……」
 二賀斗は、ふと小屋の方に視線を向けた。葉奈を失ったあの日から半年も経っていないのに、その時はなぜだか随分と古びたように見えた。
 「……」
 二賀斗は急に立ち上がると、何かに憑りつかれたかのように小屋に向かって歩き出した。
 そしてズボンのポケットからキーホルダーを取り出すと、小屋の玄関に取り付けられている南京錠のカギを選んで、そのカギで錠を開けた。
 二賀斗は玄関の戸を引き開けると、靴を脱いで中に入った。
 〈ここに入るのは、明日夏と一緒に山を下りた日以来だな……〉
 二賀斗は、薄暗く寒々しい居間を見回した。
 〈……ほんのちょっと前までは、あんなにあったかい場所だったのに〉
 そう思うと、うつむいて唇を噛みしめた。
 二賀斗は、居間の隅に置かれたプラスチック製の小さな二段式の引き出しを見つめた。
 〈葉奈が使っていた物入れ……〉
 おもむろに近寄ると、膝を落として下の段の引き出しを開けた。
 「あっ!」
 思わず引き出しを閉めた。彼女の下着類が見えた。
 「はーっ。……葉奈、ごめん」
 二賀斗は、上の段の引き出しを恥ずかしそうに見つめた。引き出しを開けようかどうしようかしばらくの間考えていたが、我慢できずにとうとう手を伸ばして引き出しを開けた。
 滑るような音を立てて引き出しが開く。中にはブルーのデニムジーンズが一本と、Tシャツやトレーナーが数着、そして上下の体操着が入っていた。
 「これが十八歳の女の子の持ち物か……」
 二賀斗は、ぼんやりと引き出しの中の体操着を見つめた。
 「そういやアイツ、いっつも体操着を着てたなぁ」
 いつの間にか二賀斗の頬が緩んでいた。手を伸ばして体操着を手に取る。
 「半そでか。……アイツ、妙に体操着姿が似合ってたよなあ」
 二賀斗は懐かしさのあまり思わずその半そでの体操着を抱きしめた。
 「ンッ!」
 体操着を抱きしめたその時、二賀斗は感じた。……大好きだった、あの葉奈の香りを。確かに彼女はここにいた。……ここに存在した!
 「うっ……うううッ。……ああ、あああ。……は、葉奈。葉奈アアア!」
 二賀斗の目から思わず涙があふれ出した。
 「葉奈! ごめんよ! 本当にごめん! ……君を、大切にできなかった。……守ってやれなかった!」
 二賀斗はうつむいたまま、体操着を持つ手を強く握り締めていた。

 静まり返った部屋で独り、床に腰を落として二賀斗はうずくまっていた。そして何かを見ているわけでもなく、ただぼんやりと目を開けていた。
 ふと、身体が震えた。
 二賀斗は掃き出し窓の方に目をやった。いつの間にか日が陰り、空には雲が棚引いていた。
 「……ふぅ」
 息を吐くと、二賀斗は腰を上げた。
 「……葉奈。形見って訳じゃないけどさ、これ俺の部屋に飾っておいていいかな? 何でもいいから形が欲しいんだ。君が確かにこの世界にいたってゆう形が」
 二賀斗は、引き出しに向かって話した。
 「……だからさ、借りてくね。葉奈」
 そう言うと、半そでの体操着の上着を手にして小屋を後にした。
 小屋を出ると、二賀斗は空を見上げた。東の方にはうっすらと白い月が浮かんでいる。いつの間にか冷たい風が止んでいた。太陽はとうの昔に山に隠れてしまっていた。
 二賀斗は停めてある車に向かって歩き出した。葉奈と一緒に設置した太陽光パネルの前を通り過ぎ、一緒に耕した棚田を通り過ぎ、車の運転席のドアを開ける。
 二賀斗は、ふと小屋の方を見た。……薄暗く、冷たい色をしている。以前はあれほどまでに暖かい色に包まれていたのに。
 二賀斗は下を向くと、そのまま車に乗り込み、静かに山を下って行った。
 


 それから数日が経ったある日の休日。澄み渡った青空の下、二賀斗は自宅アパートのベランダに立ってぼんやりと外の風景を眺めていた。この日は例年になく暖かな日差しに恵まれていた。
 二賀斗はベランダの柵に腕を置き、遠くの高層ビル群を見ていたが、ゆっくりと振り返り、室内に目を向けた。丁度、ハンガーに掛けられた葉奈の体操着が目に入った。
 〈……調子づいて、得意げになって、根掘り葉掘り調べ上げて、そういった俺の執念深さがこんな結果を招いたんだ。……どこかで、ほんのちょっと、どこかで頓挫していれば葉奈を死なせることは回避できたんだ〉
 葉奈の服を遠目に眺めながら、二賀斗は後悔の念を抱いていた。
 “……ここでの生活も、もう限界だったの”
 不意に以前、葉奈が漏らした言葉が二賀斗の脳裏を過ぎった。
 「……結局、俺が葉奈と会おうと会うまいと、アイツは死ぬ運命にあったって言うのか」
 そう呟くと、再び振り向いて高層ビル群を見つめた。
 〈去年の今ごろは温泉街に行ってたんだっけなあ……〉
 二賀斗の頭の中に、フッと尾村のばあさんの顔が浮かんだ。
 「あのばあさんとの出会いはホント、偶然だったよなぁ」
 その時、二賀斗は何かに気づいたかのように目を見開いた。
 「そうだ、あのばあさんと約束してたんだった」
 二賀斗は部屋に戻ると、柱に掛けてあるカレンダーを見た。
 「……予定はないか。……よし、明日ばあさんのところに行ってみるか」

 翌日。G県の山間にある小さな温泉街に、二賀斗は高速道路を経由しながら数時間かけてたどり着いた。
 時刻はもうすぐ正午。二賀斗は車を町営の無料駐車場に停めると、そのまま尾村のばあさんの店まで歩き出した。
 澄みきった雲一つない青い空がこの冬の季節によく似合っていた。
 「相変わらず寒いなぁ、ここは」
 二賀斗は、腕を組んでそうつぶやいた。
 尾村のばあさんの店は、温泉街の中心地より少し郊外にあるため、観光客もほとんど歩いておらず、通りは静かだった。
 しばらく歩いていると、そのうちにばあさんの店が見えてきた。
 「ん?」
 二賀斗は目を凝らした。
 店の前に置かれてあるスチール製のベンチに独り老人が座って、うつらうつら眠っていたのが見えた。
 〈……尾村のばあさんじゃないか? 平和そうに寝てるなぁ〉
 二賀斗は、寝ているばあさんのそばに近寄ると、そのまま起きるのを待った。
 風も無く、日差しの温もりが心地よい正午。……ただ、それもあとほんの少しで終わる。午後になると急に風が吹き始め、気温も下がる。尾村のばあさんも、今は心地よい眠りに就いているが、もうしばらくすると寂しい想いを味わうことになる。そう思うと、二賀斗はこの場に居ることを少しためらった。
 〈……どっちがいいんだろう。知ってツラい思いをするのと、知らずに思い悩むのと〉
 二賀斗は尾村のばあさんを見下ろしながら、そう思った。
 「……う、うーん。……あーあ、寝ちゃったよ」
 尾村のばあさんは目を開けると、大きな口を開けてあくびをした。
 「よく寝れましたか」
 二賀斗はばあさんに声をかけた。その声に、尾村のばあさんはふいに顔を上げた。
 「……あ、ありゃ! お兄ちゃんじゃないかい! あれまあ」
 尾村のばあさんは、恥ずかしそうに手で口を隠した。
 「どうも、ご無沙汰してます」
 「あれまあ、恥ずかしいねえ。寝てるとこ見られちゃってぇ。中入ってお茶でも飲むかい?」
 ばあさんは、照れ笑いをすると立ち上がろうとした。
 「ああ、いえいえ。まだ正午ですし、外のほうが暖かいですよ」
 そう言うと、二賀斗は尾村のばあさんの隣に腰を下ろした。
 「今日はどうしたの? ……また観光かい?」
 「……いえ」
 二賀斗は両手を膝に置き、静かな口調で話した。
 「観光じゃなくて、他になんか用でもあったんかい?」
 ばあさんは心配そうな面持ちで二賀斗の方を見ていた。
 「ええ、まあ」
 二賀斗はうつむくと、口をつぐんだ。
 「どうしたん? 心配事でもあったかい?」
 ばあさんは眉をひそめて心配そうに二賀斗を見つめた。
 「……実は、あの。……珠子さんのことで来ました」
 二賀斗は眉間に皺を寄せた。
 「ええっ! 珠ちゃんのことわかったんかい!」
 尾村のばあさんは目を見開いて、声を上げた。
 「ま、まあまあ。な、中にお入んなさいよ」
 ばあさんは忙しそうに立ち上がろうとした。
 「尾村さん、ここでいいですよ。そんな長い話でもないですから」
 二賀斗は、立ち上がろうとするばあさんの肩を押さえ、機先を制した。
 「え、ええ? そうかい?」
 尾村のばあさんは仕方なしにベンチに腰を下ろし直した。
 「でぇ、珠ちゃんはどうしてるかねえ」
 真剣なまなざしで、ばあさんは二賀斗を見つめた。ギョロッとした目玉が、より威圧的に二賀斗に向けられた。
 二賀斗は、うつむいたまま口を真一文字に結んでいたが、意を決して口を開いた。
 「……珠子さん、亡くなってました」
 二賀斗は尾村のばあさんの方を見ず、下を向いたままそう答えた。
 「……」
 尾村のばあさんは、口を開けて呆然としていた。
 「……ご期待に沿えませんでした」
 二賀斗が発したその言葉に、ばあさんはガクッと肩を落とし、静かにうつむいた。
 「……そうかい。……やっぱり、思い立ったが吉日だったねぇ。行こうと思った時に行ってれば、珠ちゃんに会えたかもしれなかった。……残念だねえ。」
 そう言って、ばあさんは、両方の手のひらの根元を目頭に押し当てた。
 尾村のばあさんは、その小さな背中を丸くして必死に悲しみを堪えている感じだった。二賀斗自身、尾村のばあさんのその姿を見なくても、その悲しみがどれほどかくらいは十分過ぎるほど理解ができた。
 しばらくすると、ばあさんは顔を上げて二賀斗の方を向き、お礼の言葉を言った。
 「お兄ちゃん、どうもありがとね。これで心置きなく何時でもあの世に行けますよ」
 尾村のばあさんは優しく微笑んだ。
 二賀斗は、その言葉を横目で聞いていたが、顔を上げてばあさんの方を向いた。
 「……珠子さんには娘さんが一人いらっしゃったのですが、その娘さんも……既に亡くなっていました」
 二賀斗のその言葉を聞くなり、ばあさんは両手で顔を覆い、うつむいて背中を丸くした。
 「……な、なんてことだい! そんな、……うう、どこまで不幸を背負わなきゃならなかったんだい、あの子は! ううう……」
 ばあさんは、そう言うと肩を震わせた。
 二賀斗はもう、それ以上は何も言わなかった。
 正午を回ると、日差しも徐々に傾き始めた。これから冷たい風が吹いてくるのだろう。
 「……尾村さん、尾村さんがいろいろと私に話していただけたお陰で珠子さんのことも、その娘さんのことも知ることができました。本当にありがとうございました」
 二賀斗は、背を丸めたばあさんに感謝の言葉を贈った。
 「……」
 ばあさんは背を丸めたまま、黙っていた。
 二賀斗は腰を上げると、丸まった背に向かって一言、声を掛けた。
 「……お身体、大切になさってください」
 尾村のばあさんは背を丸めたままで二賀斗の言葉に答えた。
 「……ありがとね」
 二賀斗は一礼すると、その場を後にした。
 人通りのない通りを駐車場に向けて黙って歩く。空を覆う冬の青空。雲一つない、その青色が余りにも美しすぎて、かえって自分自身の薄汚い部分がさらけ出ているようで、二賀斗はいたたまれなかった。
 風が少し出てきた。あの日差しも、あともう少しで山に隠れてしまうだろう。二賀斗は、もはや二度と踏み入らないこの地を静かに去って行った。

 その後、二賀斗の車は一路、東に向かっていた。
 「……」
 二賀斗は、無心に高速道路を走破する。時刻は午後二時。あと三時間も走れば次の目的地に到着する。

 途中に休憩を挟み、目的地に到着したのは、夕方も五時を過ぎた時間帯だった。見慣れたそのマンションのそばに車を停めると、座席に座ったまましばらく目を閉じた。
 「……ふぅ、大した休みも取らなかったからな、ちょっと疲れた」
 二賀斗は、そうつぶやくと目を開き、運転席のドアを開けて外に出た。
 陽が沈んだ空は、薄暗く、ちょうど夜に向けてゆっくりと舵を切った様子だった。西の空には一番星が輝いている。人通りのない通りに街灯の灯がともり始める。
 二賀斗は南側に回り込むと、顔を上げて三階の窓に明かりが点いているかを確認した。
 「点いてない。……相変わらず遅いんだなぁ、磐木さんは」
 二賀斗は左手の腕時計を見た。
 「……。この分だと、また九時くらいにならないと帰ってこないかもな。……まぁ、俺の都合で急に来たからなぁ。しょうがない、またあのモールで時間を潰すか」
 二賀斗は車に戻ると、エンジンを始動させ、モールに向けて車を発進させた。

 時刻は午後九時。モールで時間を潰した二賀斗が磐木のマンションに戻って来た。
 車を降りた二賀斗は、再び南側に回り、磐木が帰宅したかを確認する。
 「あっ、点いてる。帰って来たんだ」
 二賀斗は外階段を上り、三階の磐木の部屋に向かった。静まり返った通路に二賀斗の足音が響く。
 磐木の部屋の前に到着すると、二賀斗は壁に掛けられた呼鈴を鳴らした。
 「……」
 部屋からの応答はない。
 「……いるんだよな」
 二賀斗がもう一度呼鈴を押そうと手を伸ばしたその時、インターホン越しに磐木の声が聞こえた。
 「はいー?」
 相変わらずの不愛想で、低い声。
 「お久しぶりです。二賀斗です」
 二賀斗はインターホン越しに話しかけた。
 「おおー! 兄ちゃんか! 久しぶりだなー。ちょっと待ってな、今開けるから」
 そう言うと通話が切れた。
 ドアの向こうからけたたましい足音が聞こえたと思ったら、勢いよく玄関ドアが開いた。
 「いよーっ。久しぶりだな。どうした」
 以前と同じく白いワイシャツに黒のスラックス姿の磐木が、今度は笑顔で出迎えた。
 「すいません。またこんな夜分遅くに来てしまって」
 二賀斗は会釈をした。
 「なんの。まあ、こんなところじゃあれだ、中入れよ」
 磐木はそう言って、右手で手招きしてみせた。
 「では、少しだけお邪魔します」
 二賀斗は靴を脱ぐと、短い廊下を通って居間に入った。居間の隅には、以前と同じように洗濯物がハンガーごと無造作に置かれていた。
 「そこに座んなよ」
 磐木は、前と同じようにキッチンそばのテーブルイスを指さした。
 「はい」
 二賀斗は、以前座ったイスに腰をかけた。
 「兄ちゃん、飲むかい?」
 磐木は、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、二賀斗に向けてビール缶を見せつけた。
 「すいません。今日は車なので」
 二賀斗は、申し訳なさそうに磐木の心配りを辞退した。
 「……そうか」
 磐木は、残念そうな声を出した。
 「ビールの代わりって言っても、こんなもんしかねえや。悪いな、ははは」
 磐木は、笑いながらテーブルに栄養ドリンクを置くと、そのまま二賀斗の正面に座った。
 「いえ、……ありがとうございます」
 二賀斗は、一礼した。
 「今日はどうした。なんか元気なさそうだけど、……まだ何か聞き足りないことでもあったんかい」
 磐木は、イスにもたれ掛かると、栄養ドリンクのキャップをひねり開け、一気に口に含んだ。
 二賀斗は、少しうつむいた。眉をひそめ、ためらいの表情を浮かべながら。……そして、うつむいたままの状態で口を開いた。
 「……あの時は、磐木さんに大変お世話になりました。……今日は、一つ報告するために伺いました」
 「ふーん。何の報告? 旅館のことかい?」
 磐木はイスにもたれ掛かったまま、飲み干した空き瓶を静かにテーブルに置いた。
 二賀斗は顔を上げると、磐木の方を向いた。
 「……実は、……珠子さんのことです」
 二賀斗のその言葉に、さっきまで緩んでいた磐木の顔が一瞬で強張った。
 「え? ……そ、そうだ! そうだよ! 珠子さん! 珠子さんだよ!」
 磐木は立ち上がると、テーブルに手を付き、前のめりになって二賀斗に叫んだ。
 「に、兄ちゃん! よく調べたな! そこまで調べ上げたなんて、ホントすげーやつだあ! あははは!」
 歯を見せて笑う磐木をよそに、二賀斗はためらいながらも話を続けた。
 「……珠子さん、お亡くなりになっていました」
 「はは……」
 磐木は口を開けたまま固まった。そして、空気が抜ける風船のように開いた口を静かに閉じると、うつむいて力なくイスに腰掛けた。そのまま下を向いて黙り込む。肩を落とし、両手をだらしなく垂れ下げた。
 部屋の中に静寂が漂う。テーブルを挟んで二人は、うつむいたままでいた。
 「……死んじゃってたのか、珠子さん。……美人薄命って、ホントだな」
 か細い声で磐木はつぶやいた。そして、力なく立ち上がるとキッチンの方に向かって歩き出した。
 磐木は冷蔵庫の扉を開けるとビール缶を一本取り出し、その場で飲みだした。
 「ング、ング、ング…………ハア――ッ」
 磐木は飲みかけのビール缶を持ちながら席に戻って来た。
 磐木はテーブルにビール缶を静かに置いた。
 「……話ってのは、そのことだったんか。……正直、聞きたくなかったなぁ」
 磐木はイスにもたれ掛かり、顔をうつむかせたまま吐露した。
 「……正直、どうしようか迷いました。話すべきかどうなのか。……間違ってましたか?」
 二賀斗もうつむいたまま、磐木に尋ねた。
 「……どうなんだろうな。知らないままの方が良かったのか、知ったほうが良かったのか。……まあ、正直ショックって言えばショックだわ。……でも教えてくれてありがたかったよ」
 磐木は、引きつった笑顔を見せた。
 「……あの人、一体いくつで死んじまったんだい?」
 寂しそうな声で磐木は尋ねた。
 「……確か、五十代半ば頃……だったと思います」
 二賀斗は下を向いたまま、そう答えた。
 「……早いなぁ。……ほんとに、ほんとに早いよ。いつの間にか俺はあの人の歳を越しちまったんかぁ」
 そう言うと磐木は左手で顔を覆った。
 「……ずっと独り身だったんかい、あの人は」
 「……いえ。お子さんが一人、娘さんがいましたが、その方もすでに亡くなっていました」
 眉間に皺を寄せながら二賀斗は答えた。
 「うっ。……うう」
 磐木は、顔を手で覆ったまま下を向いた。必死で我慢しているが、小さな嗚咽が漏れる。
 二賀斗は唇を堅く結んだまま、ジッとその声を聞いていた。
 「……うう。ひ、ひでえよ。……そりゃ、あんまりにもひでえよぉ。……珠子さん、あんなに頑張ってたのに、みんな死んじまうなんて。……うっうう」
 磐木の背中は、静かに震えていた。
 二賀斗は目を閉じると、顔を上げた。
 〈愛した人は違うけど、いま俺もこの人と同じ気持ちだ。切ない、……切ない! 俺たちはあの家族と関わったことでどうしょうもなく深い闇の中に沈んじまった。……今までに味わったことのない暗い闇。……深い愛情に溺れた罰なのか〉
 二賀斗は軽く頭を振った。
 〈……そんなこと、どうでもいいか〉
 二賀斗は目を開けると、背中を丸めた磐木に話しかけた。
 「磐木さん、夜分に押しかけてすみませんでした」
 磐木は下を向いたまま無言で、二、三度頭を縦に振った。
 「……失礼します」
 二賀斗は一礼すると静かに席を立った。
 〈この人は、……今の自分だ。俺の分身だ。何を考えているか手に取る様にわかる〉
 そう思いながら、二賀斗はうつむいたままの磐木に背を向けた。
 「兄ちゃん。……俺のために、わざわざこんなとこまで来てくれて。……あんがとな」
 二賀斗は振り向かなかった。
 「……いえ。磐木さんには、感謝してます」
 二賀斗は背を向けたままそう答えた。……振り返ったら、涙を流している自分の姿を見られてしまうから。
 二賀斗は居間のドアをゆっくりと閉めた。
 もう磐木にも、尾村のばあさんにも会うことはないだろう。マンションの外階段を静かに下りてゆく。
 二賀斗は顔を上げた。寒々とした夜空に冬の星座が鮮やかに映し出されていた。澄みきった漆黒の空に満天の星々。葉奈がよく星空を見上げていたことを思い出すと、しばらくその場に立ち止まってその星空をぼんやりと眺めていた。
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