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I県H市日喜側町。そこは太平洋側に位置する田舎町。広大な畑が見渡す限り広がっている。
かつて葉奈と過ごした、あの小屋の敷地の持ち主である葛重市朗の相続人は、あの小屋から車で二時間半ほどの距離に位置するこの町に住んでいるらしかった。
数日後の日曜日の午後。二賀斗は相続人である三男、葛重實の自宅を訪問してみた。
御影石の塀の前に車を置き、正面から屋敷の敷地に入る。
広い敷地の中には、南向きに和風の二階建ての家があり、西側にはトラクターやコンバインが置かれてある大きな車庫が見えた。一見しても農家ということがわかる佇まいだった。
二賀斗は玄関の外壁に付けられてあるインターホンを押した。呼鈴が家の中に響く。
「……はーいッ」
しばらくすると家の中から応答する声が聞こえてきた。
「はーい、どうぞォ。開いてますよ」
二賀斗は玄関の引き戸を左手で開けた。
「あの、こんにちは。突然失礼します」
「はぁ。……どちらさんで」
ほこりの被ったキャップを頭の乗せて無精ひげを生やした中年の男性が、不思議そうな顔つきで二賀斗を見つめた。
「私、行政書士の二賀斗と申します」
二賀斗は会員証を男性に提示すると、深くお辞儀をした。
「……はあ」
「葛重實様のお宅でよろしかったでしょうか」
「ああ、そうですよ。何か……」
男性は首を傾げてそう答えた。
「ご本人様は御在宅でしょうか」
「親父は今、入院中なんですよ。俺もいま出かけて帰って来たばっかりだから、……何か用ですか?」
男性はキャップを脱ぐと、荒れた右手で頭を掻いた。
「そう、ですか。……あの、ご本人様のご様子は?」
「ん、ええ。……脳卒中でぇ」
その男性は渋い顔をして答えた。
「ご入院は長くなりそうですか」
二賀斗は目を細めて尋ねた。
「そんな、……長くなるも何も、もうかれこれ入院して二カ月位経ちましたよ。意識が無いんだから。……ふぅ」
男性は眉間にしわを寄せて、とても疲れたような表情で語った。
〈マジか、ついてる!〉
二賀斗は心の中で叫んだ。そして、静かに呼吸を整えた。
「……あの、今日はお父様と少し込み入った話をさせて頂きにこちらに伺わせて頂きましたが、お父様のご家族様でいらっしゃいますか」
二賀斗は冷めた眼差しで男性を見つめた。
「え、ええ。息子ですよ」
その視線に、實の息子は少し吃った返答をした。
「……そうですか。少し、お話させていただいてもよろしいでしょうか」
二賀斗は息子にプレッシャーをかけるように、ゆっくり目な口調で話をした。
「あ、はあ。……どうぞ」
息子はそう言うと、スリッパを二賀斗に差し出した。
「では、お邪魔します」
二賀斗はスリッパを履くと、長男の後について行った。
「まぁ、どうぞォ」
息子は二賀斗を居間に通した。タタミ十畳ほどの広さのその居間には、中央に長方形のコタツと、脇に小さなストーブが置かれてあり、上にはヤカンが掛けられていた。和風の屋敷らしく真壁の造りで、壁は漆喰で仕上げてある。
「よかったら、座布団敷いてください」
息子が座布団を差し出した。
「これは、ありがとうございます」
二賀斗は座布団を置いて、その上に腰を下ろした。
「いま、母ちゃんも出払っちゃってて……お茶っぱどこだっけか」
息子は辺りを見回した。
〈余計な奴がいない今のうちにカタをつけないと……〉
二賀斗は息子に向かってその動きを制止するかのように少し大きな声で話しかけた。
「いえ、どうかお構いなく。……それよりも早速、話に入らせていただきたいのですが」
「……あ、そうですか」
そう言うと息子は、二賀斗の正面に腰を下ろした。
息子が座るのを見計らって、二賀斗は上目遣いで正面の息子の顔を見つめ、話し始めた。
「……実は、T県K市にあります山の中に、木造の小屋が建っているのですが、その敷地所有者というのがお父様のお父様、つまりはお宅様のおじい様のご名義となっております」
「……はあ、そうですか。……そんな話、初めて聞いたなぁ」
息子は、要領を得ない風な顔をしながら答えた。
「その後、おじい様がお亡くなりになられた後に、おばあ様がその権利を相続なされましたが、おばあ様は私のご依頼主様の母親と賃貸借契約を結び、その小屋を貸し出されました」
「はあー」
息子は目をパチクリさせながら懐疑的な顔で話を聞いていた。
「……その後、私のご依頼主様の母親が亡くなりましたが、それに伴い、借地権が私のご依頼主様に相続されました。私の方で調査いたしましたところ、おばあ様もお亡くなりになり、その相続人様はお宅様のお父様である實様のみとなっていることが確認できましたので、今回その報告に参った次第です」
二賀斗は、息子に話の内容を理解されないよう、敢えて専門用語を交えて早口で話してみた。
「……は、あぁ」
案の定、息子は全く状況が飲み込めない様子だった。二賀斗はその様子を見るや、すかさず話を続けた。
「借地権は相続の対象となりますので、特に貸主様である葛重様から承諾をいただく必要はございませんが、ご依頼主様は大変律儀な性格をお持ちのため、改めて契約を結びたいとお話しされております。……私の方では、特に改めての契約は必要ないと説明いたしましたが、なにぶん律儀な方でして」
そう言うと、二賀斗は黒い手提げカバンを開け、中から契約書を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
「ご依頼主様は現在、国外に留学しておりますが、帰国後はあの小屋をアトリエとして使用したいとお話しされております」
息子は目をパチパチさせながら不思議そうな顔で話を聞いていた。
「……はあ。行政書士さんて、書類書くだけが仕事じゃなかったんですね」
「契約書の作成は書士として、交渉は個人的な代理人として行っております」
二賀斗は目を細めて静かな口調で語った。
「賃貸借の期間はとりあえず二年間といたします。賃借料につきましては、当該地区の山林相場、幹線道路からの距離、場所が山頂ということを考慮すると平米二千円にもなりませんが、ご依頼主様のお母さまと葛重様のお母様が大変昵懇だったこともあり、ご依頼主様は年間百二十万円を提示しております」
「えっ! ひゃ、百二十万!」
息子は目を見開いて大声を上げた。
「……はい。二年で二百四十万円のお支払いとなります」
二賀斗は静かに答えた。
「……親父がそんなとこ相続してたなんて、初めて聞いたし。……どうすりゃいいんだかぁ」
息子は被っていたキャップを手に取り、目を躍らせていた。
二賀斗は睨みつけるように息子を見つめた。
「……すでに借地権はご依頼主様に相続されています。本来であれば契約などもする必要はありません。それをわざわざ契約書まで作り、しかもこのような破格の賃料を受け取れる。期間もとりあえず二年間。……いままでその存在さえ知らなかった辺鄙な土地に。……掛値なしで私はいい話だと思いますが」
「……ええ。でもそんな話、親父から聞いてねえし、どうしたらいいんか」
息子はうつむいて首を左右に振っている。
「いままでは、一年間の賃料はまとめて年に一回、直接實様にお渡ししていたそうです」
「え? そうなの? でもぉ……親父は入院中だし、俺じゃだめでしょ?」
息子は眉を下げて尋ねた。
「お父様の代理人としてなら契約できますよ」
二賀斗は、ささやくように話した。
「え? できんの?」
息子は前のめりになって二賀斗を見た。
「賃料もこの場でお渡しいたします。受領証は書いて頂きますが」
そう言うと二賀斗は手提げカバンから厚みのある茶封筒を取り出し、テーブルに雑に置いた。
万札が数枚、封筒からその姿を現した。
「ぉお!」
息子はその茶封筒を食い入って見た。
「二年分の二百四十万円です」
二賀斗はテーブルに置かれた契約書の最後のページを開き、胸に差して置いたボールペンを掴むと、契約書の脇に置いた。
「誠に申し訳ありませんが、私もこのあと他の用事があるものですから」
「……あ、ああ。はい」
息子は、震える手でボールペンを持つと、二賀斗を見つめ、念を押すように話した。
「……俺が書いても大丈夫なんですよねぇ」
「……」
二賀斗は胸ポケットを触ると、黙ってうなずいた。
息子はボールペンを掴むと、契約書に署名をしようとした。二賀斗は息子に向かって言った。
「そこはお父様のお名前をお書きください」
「あ、ああ。はい」
息子は賃貸人名の欄に父親の名前を記載した。
「ハンコもお願いします」
「あ、はい」
息子は近くのタンスの引き出しを開けると、印鑑を取り出した。
「名前の脇に押してください」
「はい」
息子は父親の名前の脇に印を付いた。
「こちらにもお願いします」
「あ、はい」
息子は正本、副本二通の契約書に署名と押印をした。二賀斗は正本を息子に渡し、副本を手提げカバンにしまい込んだ。
「一つアドバイスがあります」
茶封筒を手にして興奮している息子に向かって二賀斗が話しかける。
「な、何ですか」
「それ、税金がかかりますよ」
「え? そうなんですか?」
息子は口を大きく開いた。
「ただし、この契約について誰にも話さなければわかりませんから、そうすれば税金は徴収されません。それと、そのお金は銀行あたりに預金せずにタンス預金にしておいたほうがいいですよ。預金すると後が付きますから。契約書も含めてだれにも見つからないように。……そうすればその現金は全部、お宅様のものになります。……きちんと隠しておければですが」
二賀斗は少し口角を上げて話した。
「……では、これで失礼します」
二賀斗は手提げカバンを持つと、立ち上がった。
「あ、あの……これサギじゃないですよね」
息子は怯えたような顔をしていた。
二賀斗はその言葉を聞くと思わず微笑んだ。
「……詐欺はお金を騙し取る行為です。お金を渡す詐欺って聞いたことないですよ」
そう言うと二賀斗は部屋を出た。
葛重實の屋敷を出て自車に乗り込むと、二賀斗はエンジンをかけて静かに車を発進させた。
そしてしばらくそのまま車を運転していたが、急に脇道に入り、路肩に車を停めた。
「ハ――ッ、ハ――ッ。……ハア、ハア、……ハァ」
心臓の高鳴りが続く。緊張と震えでハンドルから手が離れない。
「よ、よし……。これでとりあえず、あの小屋は確保できた。……よ、よかった。よかったよ。どんなに金を使ってもあの小屋だけは確保したかった。……あそこは俺と葉奈のただ一つの接点なんだ。これで堂々とあの小屋に行ける。でも、本人が意識不明ってのはほんとにラッキーだったよ。ハァ、ハァ。……もしあの息子が何か言ってきたら、表見代理を主張してやる。それと、このレコーダーで逆に脅してやる」
そう言うと胸ポケットに仕込んでおいたレコーダーを取り出し、音声のチェックをした。
“俺が書いても大丈夫ですよね”
二賀斗は、目を細めて嫌らしく笑った。その歪んだ表情は、心なしか薄黒く染まっていた。
かつて葉奈と過ごした、あの小屋の敷地の持ち主である葛重市朗の相続人は、あの小屋から車で二時間半ほどの距離に位置するこの町に住んでいるらしかった。
数日後の日曜日の午後。二賀斗は相続人である三男、葛重實の自宅を訪問してみた。
御影石の塀の前に車を置き、正面から屋敷の敷地に入る。
広い敷地の中には、南向きに和風の二階建ての家があり、西側にはトラクターやコンバインが置かれてある大きな車庫が見えた。一見しても農家ということがわかる佇まいだった。
二賀斗は玄関の外壁に付けられてあるインターホンを押した。呼鈴が家の中に響く。
「……はーいッ」
しばらくすると家の中から応答する声が聞こえてきた。
「はーい、どうぞォ。開いてますよ」
二賀斗は玄関の引き戸を左手で開けた。
「あの、こんにちは。突然失礼します」
「はぁ。……どちらさんで」
ほこりの被ったキャップを頭の乗せて無精ひげを生やした中年の男性が、不思議そうな顔つきで二賀斗を見つめた。
「私、行政書士の二賀斗と申します」
二賀斗は会員証を男性に提示すると、深くお辞儀をした。
「……はあ」
「葛重實様のお宅でよろしかったでしょうか」
「ああ、そうですよ。何か……」
男性は首を傾げてそう答えた。
「ご本人様は御在宅でしょうか」
「親父は今、入院中なんですよ。俺もいま出かけて帰って来たばっかりだから、……何か用ですか?」
男性はキャップを脱ぐと、荒れた右手で頭を掻いた。
「そう、ですか。……あの、ご本人様のご様子は?」
「ん、ええ。……脳卒中でぇ」
その男性は渋い顔をして答えた。
「ご入院は長くなりそうですか」
二賀斗は目を細めて尋ねた。
「そんな、……長くなるも何も、もうかれこれ入院して二カ月位経ちましたよ。意識が無いんだから。……ふぅ」
男性は眉間にしわを寄せて、とても疲れたような表情で語った。
〈マジか、ついてる!〉
二賀斗は心の中で叫んだ。そして、静かに呼吸を整えた。
「……あの、今日はお父様と少し込み入った話をさせて頂きにこちらに伺わせて頂きましたが、お父様のご家族様でいらっしゃいますか」
二賀斗は冷めた眼差しで男性を見つめた。
「え、ええ。息子ですよ」
その視線に、實の息子は少し吃った返答をした。
「……そうですか。少し、お話させていただいてもよろしいでしょうか」
二賀斗は息子にプレッシャーをかけるように、ゆっくり目な口調で話をした。
「あ、はあ。……どうぞ」
息子はそう言うと、スリッパを二賀斗に差し出した。
「では、お邪魔します」
二賀斗はスリッパを履くと、長男の後について行った。
「まぁ、どうぞォ」
息子は二賀斗を居間に通した。タタミ十畳ほどの広さのその居間には、中央に長方形のコタツと、脇に小さなストーブが置かれてあり、上にはヤカンが掛けられていた。和風の屋敷らしく真壁の造りで、壁は漆喰で仕上げてある。
「よかったら、座布団敷いてください」
息子が座布団を差し出した。
「これは、ありがとうございます」
二賀斗は座布団を置いて、その上に腰を下ろした。
「いま、母ちゃんも出払っちゃってて……お茶っぱどこだっけか」
息子は辺りを見回した。
〈余計な奴がいない今のうちにカタをつけないと……〉
二賀斗は息子に向かってその動きを制止するかのように少し大きな声で話しかけた。
「いえ、どうかお構いなく。……それよりも早速、話に入らせていただきたいのですが」
「……あ、そうですか」
そう言うと息子は、二賀斗の正面に腰を下ろした。
息子が座るのを見計らって、二賀斗は上目遣いで正面の息子の顔を見つめ、話し始めた。
「……実は、T県K市にあります山の中に、木造の小屋が建っているのですが、その敷地所有者というのがお父様のお父様、つまりはお宅様のおじい様のご名義となっております」
「……はあ、そうですか。……そんな話、初めて聞いたなぁ」
息子は、要領を得ない風な顔をしながら答えた。
「その後、おじい様がお亡くなりになられた後に、おばあ様がその権利を相続なされましたが、おばあ様は私のご依頼主様の母親と賃貸借契約を結び、その小屋を貸し出されました」
「はあー」
息子は目をパチクリさせながら懐疑的な顔で話を聞いていた。
「……その後、私のご依頼主様の母親が亡くなりましたが、それに伴い、借地権が私のご依頼主様に相続されました。私の方で調査いたしましたところ、おばあ様もお亡くなりになり、その相続人様はお宅様のお父様である實様のみとなっていることが確認できましたので、今回その報告に参った次第です」
二賀斗は、息子に話の内容を理解されないよう、敢えて専門用語を交えて早口で話してみた。
「……は、あぁ」
案の定、息子は全く状況が飲み込めない様子だった。二賀斗はその様子を見るや、すかさず話を続けた。
「借地権は相続の対象となりますので、特に貸主様である葛重様から承諾をいただく必要はございませんが、ご依頼主様は大変律儀な性格をお持ちのため、改めて契約を結びたいとお話しされております。……私の方では、特に改めての契約は必要ないと説明いたしましたが、なにぶん律儀な方でして」
そう言うと、二賀斗は黒い手提げカバンを開け、中から契約書を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
「ご依頼主様は現在、国外に留学しておりますが、帰国後はあの小屋をアトリエとして使用したいとお話しされております」
息子は目をパチパチさせながら不思議そうな顔で話を聞いていた。
「……はあ。行政書士さんて、書類書くだけが仕事じゃなかったんですね」
「契約書の作成は書士として、交渉は個人的な代理人として行っております」
二賀斗は目を細めて静かな口調で語った。
「賃貸借の期間はとりあえず二年間といたします。賃借料につきましては、当該地区の山林相場、幹線道路からの距離、場所が山頂ということを考慮すると平米二千円にもなりませんが、ご依頼主様のお母さまと葛重様のお母様が大変昵懇だったこともあり、ご依頼主様は年間百二十万円を提示しております」
「えっ! ひゃ、百二十万!」
息子は目を見開いて大声を上げた。
「……はい。二年で二百四十万円のお支払いとなります」
二賀斗は静かに答えた。
「……親父がそんなとこ相続してたなんて、初めて聞いたし。……どうすりゃいいんだかぁ」
息子は被っていたキャップを手に取り、目を躍らせていた。
二賀斗は睨みつけるように息子を見つめた。
「……すでに借地権はご依頼主様に相続されています。本来であれば契約などもする必要はありません。それをわざわざ契約書まで作り、しかもこのような破格の賃料を受け取れる。期間もとりあえず二年間。……いままでその存在さえ知らなかった辺鄙な土地に。……掛値なしで私はいい話だと思いますが」
「……ええ。でもそんな話、親父から聞いてねえし、どうしたらいいんか」
息子はうつむいて首を左右に振っている。
「いままでは、一年間の賃料はまとめて年に一回、直接實様にお渡ししていたそうです」
「え? そうなの? でもぉ……親父は入院中だし、俺じゃだめでしょ?」
息子は眉を下げて尋ねた。
「お父様の代理人としてなら契約できますよ」
二賀斗は、ささやくように話した。
「え? できんの?」
息子は前のめりになって二賀斗を見た。
「賃料もこの場でお渡しいたします。受領証は書いて頂きますが」
そう言うと二賀斗は手提げカバンから厚みのある茶封筒を取り出し、テーブルに雑に置いた。
万札が数枚、封筒からその姿を現した。
「ぉお!」
息子はその茶封筒を食い入って見た。
「二年分の二百四十万円です」
二賀斗はテーブルに置かれた契約書の最後のページを開き、胸に差して置いたボールペンを掴むと、契約書の脇に置いた。
「誠に申し訳ありませんが、私もこのあと他の用事があるものですから」
「……あ、ああ。はい」
息子は、震える手でボールペンを持つと、二賀斗を見つめ、念を押すように話した。
「……俺が書いても大丈夫なんですよねぇ」
「……」
二賀斗は胸ポケットを触ると、黙ってうなずいた。
息子はボールペンを掴むと、契約書に署名をしようとした。二賀斗は息子に向かって言った。
「そこはお父様のお名前をお書きください」
「あ、ああ。はい」
息子は賃貸人名の欄に父親の名前を記載した。
「ハンコもお願いします」
「あ、はい」
息子は近くのタンスの引き出しを開けると、印鑑を取り出した。
「名前の脇に押してください」
「はい」
息子は父親の名前の脇に印を付いた。
「こちらにもお願いします」
「あ、はい」
息子は正本、副本二通の契約書に署名と押印をした。二賀斗は正本を息子に渡し、副本を手提げカバンにしまい込んだ。
「一つアドバイスがあります」
茶封筒を手にして興奮している息子に向かって二賀斗が話しかける。
「な、何ですか」
「それ、税金がかかりますよ」
「え? そうなんですか?」
息子は口を大きく開いた。
「ただし、この契約について誰にも話さなければわかりませんから、そうすれば税金は徴収されません。それと、そのお金は銀行あたりに預金せずにタンス預金にしておいたほうがいいですよ。預金すると後が付きますから。契約書も含めてだれにも見つからないように。……そうすればその現金は全部、お宅様のものになります。……きちんと隠しておければですが」
二賀斗は少し口角を上げて話した。
「……では、これで失礼します」
二賀斗は手提げカバンを持つと、立ち上がった。
「あ、あの……これサギじゃないですよね」
息子は怯えたような顔をしていた。
二賀斗はその言葉を聞くと思わず微笑んだ。
「……詐欺はお金を騙し取る行為です。お金を渡す詐欺って聞いたことないですよ」
そう言うと二賀斗は部屋を出た。
葛重實の屋敷を出て自車に乗り込むと、二賀斗はエンジンをかけて静かに車を発進させた。
そしてしばらくそのまま車を運転していたが、急に脇道に入り、路肩に車を停めた。
「ハ――ッ、ハ――ッ。……ハア、ハア、……ハァ」
心臓の高鳴りが続く。緊張と震えでハンドルから手が離れない。
「よ、よし……。これでとりあえず、あの小屋は確保できた。……よ、よかった。よかったよ。どんなに金を使ってもあの小屋だけは確保したかった。……あそこは俺と葉奈のただ一つの接点なんだ。これで堂々とあの小屋に行ける。でも、本人が意識不明ってのはほんとにラッキーだったよ。ハァ、ハァ。……もしあの息子が何か言ってきたら、表見代理を主張してやる。それと、このレコーダーで逆に脅してやる」
そう言うと胸ポケットに仕込んでおいたレコーダーを取り出し、音声のチェックをした。
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