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そして、山羊は白銀の毛をなびかせ荒野におもむく、
自らの血と肉と、わずかばかりの希望をもちて……。
プロローグ
その日の夜空は、暗雲が漂う荒涼とした空模様だった。
鉄色の重苦しい雲海は重なり合うように空を漂い、時折雲の切れ間から白色の月明かりを漏らす。……予兆、月明かりに照らされた異形の暗雲が暗い未来を指し示す。
時刻は亥ノ刻、午後十時を過ぎた頃。辺りに漂うのは、サラサラと淀みなく流れゆく川の音だけ……。
そこは山々に囲まれた静かな温泉街。その温泉街から少しだけ離れた場所にひっそりと建てられた、とある小さな一軒の旅館にも、昼間の賑やかさとは反対に静寂とした時間が訪れようとしていた。
静かに流れる雲がそのうち僅かな月の光をも覆い隠す。……そして、辺りが闇に沈む。
街灯もなく、月の光もなく、虫の音も聞こえない。静かな小夜が始まる。
嵐の前の静けさにも似た、森閑な闇……。
その暗闇に突としてオレンジ色の小さな灯りがともった。
小さな灯りは徐々に大きく、明るくなっていく。そしてその灯りから黒い煙が吹き出すと、風に絡まれながら空に向かって伸びて行く。
オレンジ色の灯りが薄気味悪くも周囲を妖しく照らし出す。
突如、灯りが勢いよく炎へと形を変えると、獰猛な野獣の唸り声にも似た音を立て猛烈な勢いでその小さな旅館を内側から侵していった。
漆喰の壁も、杉の柱も、日に焼けた畳も、何もかもが瞬く間にその炎に憑りつかれていく。まるで命があるかのように、炎は大きな口を開けてその木造の旅館を飲み込んでいく。
「火事だッ!」
「火事だあぁー!」
宿泊客の悲鳴が、夜の静寂を引き裂いた。
浴衣着の客がふすまを蹴破り、ドアを蹴飛ばし、四方八方へと逃げ惑う。
「きゃあああ―――」
「逃げろォォ―――」
「こっちだッ!」
杉板の廊下が、けたたましく波打ちながらきしむ音を立てる。
幾重にも折り重なった悲鳴と共に宿泊客や従業員が窓という窓から、ドアというドアから外に向かって我先にと飛び出して行く。
「どけぇ!」
「きゃああ―――」
二階の窓からそのまま地上へ飛び降りる客や、一階の屋根を伝って地上に逃げる客の姿。数にして二、三十人が玄関やら窓やら外へと繋がるところから一気に飛び出してくるその光景は、まさに“地獄”のようだった。
小さな旅館を征服した火炎は大きくその手を広げる。
その広げた手から飛び散る火の粉がまるでホタルのように空中を漂う。
咆哮しながら風になびき暗闇に屹立する巨大な火柱。
その光景を呆然と見つめる男性。お互いの無事を確認し、抱き合う夫婦。地面に腰を落とす老人……。
難を逃れた人々の姿は皆、衣服がはだけ、あちこちに擦り傷を負っていた。そして誰も彼もがみなオレンジ色に染まっていた。
呆然とする人々の群れの中に透き通るような白い肌をした若い女性が一人、燃えさかる旅館の前でやはり皆と同じく立ち尽くしていた。……彼女もまたオレンジ色に染まりながら茫然と炎を見つめている。
「離せええ――――ッ!」
彼女の近くで若い男が歯をむき出しにして大声を張り上げていた。そして二人の男達が暴れるその若い男を必死の形相で取り押さえている。若い男のすぐそばでは髪を振り乱した若い女性がひざまずいて何かを叫んでいる。
「……します! お願いします!」
しきりに叫んでいるその若い女性が突然、白い肌の彼女の手首を掴んだ。不意に手首を掴まれた彼女は思わずその若い女性の方に視線を向けた。
「お願いします! お願いします! どうかああッ!」
その若い女性は必死の形相で彼女に迫った。女性の目が強く、強く訴えている。握られた手首が粉々に砕かれてしまうと彼女が感じるほど、その女性は彼女の手首を強く握り絞めていた。
「痛っ!」
彼女は痛みに耐えきれず、女性の手を解こうとした。……が、その若い女性の眼から放たれた凄まじい気迫に彼女は思わず息を飲んだ。
そして次の瞬間、彼女は見た。若い女性の目から絶え間なく流れ出る涙が炎に照らされて、まるで血涙のように映し出されているのを……。
「あっ……」
白い肌の彼女はそう言葉を漏らすと、そのまま意識を失った……。
「……ふう」
恨めしそうに空を見上げる。
頭上には雲一つない快晴の空が広がっている。濃い青色の空はどこまでも続く。そして太陽の光がまぶしく地上に降り注ぐ。
「はあ……。ったく、今日は随分と暑ちーなぁ」
そう言って二賀斗は着ている白いワイシャツの襟を掴み、四、五回あおって見せた。
十月もすでに後半に入っていたが、今日は全国的にも季節外れの陽気となっていた。気が付くと二賀斗の額にはじんわりと汗が滲んでいた。
「あちちち……」
少しでも涼しい場所をと、二賀斗は日陰を追い求めながらその街を足早に歩き回る。
彼の名前は二賀斗陽生。今年の九月で三十歳になった。
都内にある総合大学の法学部を卒業して現在は行政書士、俗にいう代書屋という仕事をしている。この仕事は、平たく言えば役所に提出する書類の他、契約書、内容証明書などを作成することを主な業務としている。まさに書類を作る職人。
社会のIT化が進み、立派な事務所を構えなくてもパソコン一つあれば仕事ができる時代。彼はこの仕事を学生時代から住んでいる安アパートを事務所として使いながら、精力的に取り組んでいた。……とは言うものの同業者のみならず他業種との競争も激しく、未だに亡き父親が遺してくれた賃貸不動産の家賃収入に甘えるところもあった。
彼自身、大学に入って授業を受けるうちに段々と法律的なものの考え方や文章の構成に興味を持ち始めた。今までそんな理屈を持ち出すようなタイプではなかった彼だが、もしかしたらこの分野と馬が合ったのかもしれない。しかし、飛び抜けて優秀な頭脳があったわけでもなく、協調性にも自信が持てなかった彼は、この代書屋という職業に将来の道を見出した。そんな、日々書類作りで机に噛りつき書類の提出に走り回っている彼が、今“ある人”を探し出すためにこの街を右往左往している。
今から一ヵ月ほど前の或る日、二賀斗は、ある女性から呼び出しを受けた。
その日は朝から弱い雨が降っていた。空は白く濁り、道行く人々はみな色とりどりの傘を差して行き交う。天気予報では午後から本降りの雨になるとのことだが、こんな雨の日に外に出ると思うと正直、行くなどと約束しなければよかった、と二賀斗は思っていた。
午後二時過ぎ。二賀斗は車やバイクが止めどなく往来する幹線道路に面したその待ち合わせの店に到着すると、店先で傘に付いた雨粒を振り落とし、入口のドアを開けて店の中に入っていった。
ドアに取り付けられたべルの乾いた音が店の中に響く。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
若い女性の店員が明るく二賀斗を出迎える。
「えーっと。……連れが来ているんで」
そう言いながら二賀斗は店内をぐるりと見渡した。
店の中では多くの客が食事をしたり、歓談をしている。そんな中、二賀斗は一番奥の窓際の席に“連れ”が座っているのを見つけた。
「ああ、連れがいました」
二賀斗は店員に一言いうと、一番奥の窓際の席に歩み寄っていった。
“連れ”は近づいてくる足音に気づくと、うつむいていた顔をおもむろに上げた。
「よーお。ひっさしぶりだね、あーちゃん。いやー、何か今日はムシムシするなァ」
二賀斗は彼女の正面の席に勢いよく座った。
「……うん」
彼女は二賀斗を一瞥すると、力なく返事をして再びうつむいた。
二賀斗は彼女の顔色などお構いなしに一人、話を続けた。
「あーちゃんも相っ変わらずの髪型だねェ。ずっとショートでしょう。全然変わってないから遠くからでも一発で分かったよ。いい顔してんだからさ、もう少しオシャレすればいいのに。……例えば、少し髪を明るくするとか」
「……ん」
彼女は少し口角を上げたものの、黙ったままでいた。
彼女の名前は如月明日夏。二賀斗と同じ大学出身で、二賀斗の後輩に当たる。二賀斗は、その大学に入るために一年浪人をしており、その後、彼が四年生のときに一年生の明日夏と大学で知り合った。
彼女は今、街の動物病院で獣医師として働いている。三月を誕生月とする早生まれの彼女は、現在二十五歳、獣医学部は六年制のため獣医師としてはまだ駆け出したばかりの新人だが、臨床では先輩獣医にも引けを取らないほどの技術を持ち合わせていた。
「どした? 元気、ないね。……まぁ、元気があるほうがおかしいか。収が行っちまったんだもんな」
明日夏には付き合っている彼氏がいる。彼の名前は伊槻収。収と二賀斗は同じ大学出身で、やはり彼も一年浪人して二賀斗と同じ大学の獣医学部に入学した。二賀斗が明日夏と知り合いになったのも、収に紹介されたことがきっかけだった。収は大学を卒業した後、動物病院で獣医をしていたが、半年ほど前に突然、アフリカのケニアに野生のゾウの保護活動をするため単身旅立って行った。
「野心家ってゆうか、功名心の固まりみたいなあいつが、まさかあんな泥臭いところに行っちまうなんて、……何だかちょっと、未だに信じらんないよ」
二賀斗は立て肘を付くと、懐かしむようにそう呟いた。
この店に来る前の、あの面倒くさい気持ちはどこに行ってしまったのか、二賀斗は楽しそうに明日夏に話しかける。
「そういやちょっと前にさ、収から手紙が届いてたよ。獣医の仕事以外にも結構いろんな手伝いをやらされてんだね。先生として行ったのに話が違うって言ってそうだよな。はははっ」
二賀斗は声を上げて笑った。
「いらっしゃいませ」
店員がメニューを持ってきた。
「えーっと。ああ、彼女と同じもので」
二賀斗は笑みを浮かべながら、明日夏が何を飲んでいるのかも確認せず、すかさず店員に注文をした。
「かしこまりました」
女性の店員は笑顔で注文を受け付けると、そのままメニューを持ち帰った。
店員の後ろ姿を確認すると、二賀斗はまた明日夏に視線を戻した。
「いやいや。そんなことよりさ、あーちゃんが黒い服着てるなんて珍しいな。いっつもジャージみたいな服かジーンズ着ている印象だから、なんか新鮮に見えるよ。うん、似合ってる。……そうだ、写真撮って収に送るか」
二賀斗はズボンのポケットからスマホを取り出そうとした。
「ねェ、外出よっか」
そう言うと、明日夏は口を真一文字に結んだまま立ち上がり、そのままレジに向かって歩いて行った。
「……な、なんだ? 怒っちゃったの?」
二賀斗は振り返ると、片眉を上げて明日夏の背中をじっと見つめた。
自らの血と肉と、わずかばかりの希望をもちて……。
プロローグ
その日の夜空は、暗雲が漂う荒涼とした空模様だった。
鉄色の重苦しい雲海は重なり合うように空を漂い、時折雲の切れ間から白色の月明かりを漏らす。……予兆、月明かりに照らされた異形の暗雲が暗い未来を指し示す。
時刻は亥ノ刻、午後十時を過ぎた頃。辺りに漂うのは、サラサラと淀みなく流れゆく川の音だけ……。
そこは山々に囲まれた静かな温泉街。その温泉街から少しだけ離れた場所にひっそりと建てられた、とある小さな一軒の旅館にも、昼間の賑やかさとは反対に静寂とした時間が訪れようとしていた。
静かに流れる雲がそのうち僅かな月の光をも覆い隠す。……そして、辺りが闇に沈む。
街灯もなく、月の光もなく、虫の音も聞こえない。静かな小夜が始まる。
嵐の前の静けさにも似た、森閑な闇……。
その暗闇に突としてオレンジ色の小さな灯りがともった。
小さな灯りは徐々に大きく、明るくなっていく。そしてその灯りから黒い煙が吹き出すと、風に絡まれながら空に向かって伸びて行く。
オレンジ色の灯りが薄気味悪くも周囲を妖しく照らし出す。
突如、灯りが勢いよく炎へと形を変えると、獰猛な野獣の唸り声にも似た音を立て猛烈な勢いでその小さな旅館を内側から侵していった。
漆喰の壁も、杉の柱も、日に焼けた畳も、何もかもが瞬く間にその炎に憑りつかれていく。まるで命があるかのように、炎は大きな口を開けてその木造の旅館を飲み込んでいく。
「火事だッ!」
「火事だあぁー!」
宿泊客の悲鳴が、夜の静寂を引き裂いた。
浴衣着の客がふすまを蹴破り、ドアを蹴飛ばし、四方八方へと逃げ惑う。
「きゃあああ―――」
「逃げろォォ―――」
「こっちだッ!」
杉板の廊下が、けたたましく波打ちながらきしむ音を立てる。
幾重にも折り重なった悲鳴と共に宿泊客や従業員が窓という窓から、ドアというドアから外に向かって我先にと飛び出して行く。
「どけぇ!」
「きゃああ―――」
二階の窓からそのまま地上へ飛び降りる客や、一階の屋根を伝って地上に逃げる客の姿。数にして二、三十人が玄関やら窓やら外へと繋がるところから一気に飛び出してくるその光景は、まさに“地獄”のようだった。
小さな旅館を征服した火炎は大きくその手を広げる。
その広げた手から飛び散る火の粉がまるでホタルのように空中を漂う。
咆哮しながら風になびき暗闇に屹立する巨大な火柱。
その光景を呆然と見つめる男性。お互いの無事を確認し、抱き合う夫婦。地面に腰を落とす老人……。
難を逃れた人々の姿は皆、衣服がはだけ、あちこちに擦り傷を負っていた。そして誰も彼もがみなオレンジ色に染まっていた。
呆然とする人々の群れの中に透き通るような白い肌をした若い女性が一人、燃えさかる旅館の前でやはり皆と同じく立ち尽くしていた。……彼女もまたオレンジ色に染まりながら茫然と炎を見つめている。
「離せええ――――ッ!」
彼女の近くで若い男が歯をむき出しにして大声を張り上げていた。そして二人の男達が暴れるその若い男を必死の形相で取り押さえている。若い男のすぐそばでは髪を振り乱した若い女性がひざまずいて何かを叫んでいる。
「……します! お願いします!」
しきりに叫んでいるその若い女性が突然、白い肌の彼女の手首を掴んだ。不意に手首を掴まれた彼女は思わずその若い女性の方に視線を向けた。
「お願いします! お願いします! どうかああッ!」
その若い女性は必死の形相で彼女に迫った。女性の目が強く、強く訴えている。握られた手首が粉々に砕かれてしまうと彼女が感じるほど、その女性は彼女の手首を強く握り絞めていた。
「痛っ!」
彼女は痛みに耐えきれず、女性の手を解こうとした。……が、その若い女性の眼から放たれた凄まじい気迫に彼女は思わず息を飲んだ。
そして次の瞬間、彼女は見た。若い女性の目から絶え間なく流れ出る涙が炎に照らされて、まるで血涙のように映し出されているのを……。
「あっ……」
白い肌の彼女はそう言葉を漏らすと、そのまま意識を失った……。
「……ふう」
恨めしそうに空を見上げる。
頭上には雲一つない快晴の空が広がっている。濃い青色の空はどこまでも続く。そして太陽の光がまぶしく地上に降り注ぐ。
「はあ……。ったく、今日は随分と暑ちーなぁ」
そう言って二賀斗は着ている白いワイシャツの襟を掴み、四、五回あおって見せた。
十月もすでに後半に入っていたが、今日は全国的にも季節外れの陽気となっていた。気が付くと二賀斗の額にはじんわりと汗が滲んでいた。
「あちちち……」
少しでも涼しい場所をと、二賀斗は日陰を追い求めながらその街を足早に歩き回る。
彼の名前は二賀斗陽生。今年の九月で三十歳になった。
都内にある総合大学の法学部を卒業して現在は行政書士、俗にいう代書屋という仕事をしている。この仕事は、平たく言えば役所に提出する書類の他、契約書、内容証明書などを作成することを主な業務としている。まさに書類を作る職人。
社会のIT化が進み、立派な事務所を構えなくてもパソコン一つあれば仕事ができる時代。彼はこの仕事を学生時代から住んでいる安アパートを事務所として使いながら、精力的に取り組んでいた。……とは言うものの同業者のみならず他業種との競争も激しく、未だに亡き父親が遺してくれた賃貸不動産の家賃収入に甘えるところもあった。
彼自身、大学に入って授業を受けるうちに段々と法律的なものの考え方や文章の構成に興味を持ち始めた。今までそんな理屈を持ち出すようなタイプではなかった彼だが、もしかしたらこの分野と馬が合ったのかもしれない。しかし、飛び抜けて優秀な頭脳があったわけでもなく、協調性にも自信が持てなかった彼は、この代書屋という職業に将来の道を見出した。そんな、日々書類作りで机に噛りつき書類の提出に走り回っている彼が、今“ある人”を探し出すためにこの街を右往左往している。
今から一ヵ月ほど前の或る日、二賀斗は、ある女性から呼び出しを受けた。
その日は朝から弱い雨が降っていた。空は白く濁り、道行く人々はみな色とりどりの傘を差して行き交う。天気予報では午後から本降りの雨になるとのことだが、こんな雨の日に外に出ると思うと正直、行くなどと約束しなければよかった、と二賀斗は思っていた。
午後二時過ぎ。二賀斗は車やバイクが止めどなく往来する幹線道路に面したその待ち合わせの店に到着すると、店先で傘に付いた雨粒を振り落とし、入口のドアを開けて店の中に入っていった。
ドアに取り付けられたべルの乾いた音が店の中に響く。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
若い女性の店員が明るく二賀斗を出迎える。
「えーっと。……連れが来ているんで」
そう言いながら二賀斗は店内をぐるりと見渡した。
店の中では多くの客が食事をしたり、歓談をしている。そんな中、二賀斗は一番奥の窓際の席に“連れ”が座っているのを見つけた。
「ああ、連れがいました」
二賀斗は店員に一言いうと、一番奥の窓際の席に歩み寄っていった。
“連れ”は近づいてくる足音に気づくと、うつむいていた顔をおもむろに上げた。
「よーお。ひっさしぶりだね、あーちゃん。いやー、何か今日はムシムシするなァ」
二賀斗は彼女の正面の席に勢いよく座った。
「……うん」
彼女は二賀斗を一瞥すると、力なく返事をして再びうつむいた。
二賀斗は彼女の顔色などお構いなしに一人、話を続けた。
「あーちゃんも相っ変わらずの髪型だねェ。ずっとショートでしょう。全然変わってないから遠くからでも一発で分かったよ。いい顔してんだからさ、もう少しオシャレすればいいのに。……例えば、少し髪を明るくするとか」
「……ん」
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彼女の名前は如月明日夏。二賀斗と同じ大学出身で、二賀斗の後輩に当たる。二賀斗は、その大学に入るために一年浪人をしており、その後、彼が四年生のときに一年生の明日夏と大学で知り合った。
彼女は今、街の動物病院で獣医師として働いている。三月を誕生月とする早生まれの彼女は、現在二十五歳、獣医学部は六年制のため獣医師としてはまだ駆け出したばかりの新人だが、臨床では先輩獣医にも引けを取らないほどの技術を持ち合わせていた。
「どした? 元気、ないね。……まぁ、元気があるほうがおかしいか。収が行っちまったんだもんな」
明日夏には付き合っている彼氏がいる。彼の名前は伊槻収。収と二賀斗は同じ大学出身で、やはり彼も一年浪人して二賀斗と同じ大学の獣医学部に入学した。二賀斗が明日夏と知り合いになったのも、収に紹介されたことがきっかけだった。収は大学を卒業した後、動物病院で獣医をしていたが、半年ほど前に突然、アフリカのケニアに野生のゾウの保護活動をするため単身旅立って行った。
「野心家ってゆうか、功名心の固まりみたいなあいつが、まさかあんな泥臭いところに行っちまうなんて、……何だかちょっと、未だに信じらんないよ」
二賀斗は立て肘を付くと、懐かしむようにそう呟いた。
この店に来る前の、あの面倒くさい気持ちはどこに行ってしまったのか、二賀斗は楽しそうに明日夏に話しかける。
「そういやちょっと前にさ、収から手紙が届いてたよ。獣医の仕事以外にも結構いろんな手伝いをやらされてんだね。先生として行ったのに話が違うって言ってそうだよな。はははっ」
二賀斗は声を上げて笑った。
「いらっしゃいませ」
店員がメニューを持ってきた。
「えーっと。ああ、彼女と同じもので」
二賀斗は笑みを浮かべながら、明日夏が何を飲んでいるのかも確認せず、すかさず店員に注文をした。
「かしこまりました」
女性の店員は笑顔で注文を受け付けると、そのままメニューを持ち帰った。
店員の後ろ姿を確認すると、二賀斗はまた明日夏に視線を戻した。
「いやいや。そんなことよりさ、あーちゃんが黒い服着てるなんて珍しいな。いっつもジャージみたいな服かジーンズ着ている印象だから、なんか新鮮に見えるよ。うん、似合ってる。……そうだ、写真撮って収に送るか」
二賀斗はズボンのポケットからスマホを取り出そうとした。
「ねェ、外出よっか」
そう言うと、明日夏は口を真一文字に結んだまま立ち上がり、そのままレジに向かって歩いて行った。
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