最後の山羊

春野 サクラ

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 店の外に出ると、雨は先ほどよりも少し強く降っていた。舗装された道路には空から落ちてくる雨粒がはじけ飛んでいる。
 明日夏は傘を広げると、雨の降る街を歩き出した。
 傘の上をはぜる雨の音とともにトラックのクラクションが街に響く。
 落ちてくる雨粒たちを踏みながら二人は当てもなく街中を歩き続ける。……というより、当てもなく彷徨う明日夏の背中を二賀斗がついて行く、そんな感じだった。
 〈……今日は一体、何の用事で呼び出したんだか〉
 二賀斗は歩きながら、ふと思った。……濡れた街を行く人も、今はごくわずか。
 突然、傘地を叩く雨粒の音が大きくなった。
 〈うわっ。ひでえ降りになってきたぞ〉
 二賀斗は足元に目をやった。
 「……ねえ、少し座ろうよ」
 明日夏は小さな声でそう言うと、視線の先にある小さな公園に入っていった。当然、二賀斗も黙って明日夏の後について行き、公園に入って行く。

 騒々しい通りから程よく離れたところにあるその公園は、ベンチが数個置いてあるだけの簡単な公園だった。二人は庇のかかっているベンチに並んで座った。
 雨のカーテンが降ろされたその公園には、この二人以外に今は誰もいない。朝から降り続くこの雨ですでに公園のいたる所に大きな水たまりができていた。
 明日夏は座ったまま、ぼんやりとうつろな目をしている。
 二賀斗は沈黙し続ける明日夏を横目に、なぜか学生時代のことを思い出していた。
 〈……こいつとの付き合いは大学のときからだけど、そのときからまるで変わってない。ホントにおとなしいヤツだよ。実際、こいつと出会ってからもう七、八年は経つけど、もしかしたらこいつの怒った顔って、一回も見たことがないんじゃないかな〉
 「……あ!」
 二賀斗が声を出す。
 〈そーいえば収が言ってたよ。こいつが黙ってうつむいているときって、大抵怒っているときなんだって〉
 以前、収がそんなことを言っていたのを二賀斗は思い出した。
 二賀斗は明日夏が何をそんなに考え込んでいるのかとあれこれ想像してみたものの、やはり“収が一人でアフリカに行ってしまったことに腹を立てている”ぐらいのことしか思い浮かばなかった。
 「…………」
 「…………」
 降りしきる雨の中、時が止まったかのように二人の沈黙が続く。
 〈……しょうがねェ、聞いてみるか〉
 二賀斗がしびれを切らして口を開く。
 「あーちゃんどうした。なんか話したいことがあるんじゃないのか? ……もしかして、収のところに行きたいとか考えてるんかい?」
 二賀斗は明日夏の方を向いて尋ねてみた。
 明日夏はジッと前を向いたまま何か言いたそうに口を開けたが、その口からは何も言葉が出てこない。彼女の薄い桜色の唇が小刻みに震えている。そして、明日夏の目から一粒、涙が頬を伝って流れていった。
 「あーちゃん……」
 二賀斗は明日夏のその姿を目の当たりにすると、思わず言葉を失った。
 雨が一段と激しく降り出す。ベンチの庇がけたたましい音を立て、大きな雨粒が荒々しく地面を叩きつける。打ちつけられた雨粒が勢いよく飛び跳ね、二人の足元はすでに泥だらけになっていた。
 「ううっ……。収に、逢いたい? ……逢いたい、逢いたいよ。でも、もう……ううっ、逢えないよ」
 「えっ?」
 二賀斗は眉をひそめた。
 明日夏は両手で顔を覆うと、震える声で叫んだ。
 「収、殺されちゃったよ! 車で移動中に、武装した密猟者に襲われて。……こ、殺されちゃったのよッ!」
 二賀斗の表情が固まる。
 明日夏は泣きじゃくりながらも必死に声を出す。
 「うえ、え……。ひ、ひと月前に、収の……お母さんから、電話もらった。……あ、ありがとう、今までありがとうって……言われたァ」
 そこまで言うと、明日夏は倒れこむように、二賀斗の肩に頭を押し当てた。
 「ゔえええええええええええーーーーーーっ!」
 明日夏はそのまま激しく泣き崩れた。
 「……う、ウソだろ?」
 二賀斗の視界が真っ白に染まる。すぐそばで聞こえる明日夏の激しい泣き声も、降り続く雨の音もまるで耳に入ってこなかった。今は、混乱する頭の中を何とか保つのに精一杯で、とても明日夏の気持ちや、周りの音など受け止める心の余裕を持つことができなかった。

 先ほどまで激しく降っていた雨が、いつの間にか小降りになっていた。
 二人はベンチに閉じこもったまま、お互い唇を閉ざし、下を向いている。
 二賀斗はうつむいた顔を両手で覆うと、震えた声が出ないようにゆっくりと、慎重に明日夏に話しかけた。
 「……わざわざ、ありがとな。教えてくれて」
 鼻を赤く腫らした明日夏が黙ってうなずく。
 「……フゥ」
 二賀斗は両手で顔を隠したまま深く息を吐き出すと、明日夏の視線を避けるように顔を背けて立ち上がった。
 「……そ、そろそろ帰ろうぜ。こんな雨の日に外なんか出るから……はは、ずぶ濡れになっちまったよ。は、はは。……まいったな」
 たどたどしい声でそう言うと、そのままその場を離れようとした。
 「ニーさん待って」
 明日夏が咄嗟に二賀斗の左手を掴むと、二賀斗は反射的に明日夏の方を向いた。明日夏は二賀斗の目が赤く濡れているのを目にすると、安心したかのように握った手を放した。
 「……ニーさんと収、ほんとに仲良かったもんね。収はさ、よく言ってたよ。“あいつが女だったらなぁ、俺あいつと結婚できるのに”って。……わたしと付き合ってるのにさっ。バカ収!」
 明日夏は寂しそうに、でも何処か懐かしむようにそんな言葉を漏らした。……だが、明日夏のその何気ない言葉に触れた瞬間、二賀斗の抑えていた感情が一気に口から吐き出た。
 「ふざけんな――ッ! あンの野郎、……勝手に、勝手に死にやがって!」
 声を震わせながら、こぶしを強く握りしめて二賀斗は叫んだ。

 天気予報どおり今も雨は降り続いている。明日夏は、着ている服の袖口で涙を拭うと二賀斗の方を向いた。
 「……ニーさん、収のこと以外にも話があるの。少しだけ、私の話を聞いてもらえる?」
 「……ああ」
 二賀斗はベンチに座り直すと、うつむいたまま答えた。
 「私ね。今、山に住む動物達の保護活動をしているの。毎日……毎日、色々な野生動物たちが罠で捕獲されては殺されているわ。……私はね、そんなの間違っていると思う。だからね、行政に捕獲の方針を変更するよう掛け合ったり、街頭活動をしたり、そんなことを仲間の人たちとやってるの」
 「……うん」
 二賀斗は下を向いたまま、ぼんやりと気のない返事をした。
 「ほんとに。……ほんとに大変。行政は一度決めたことは絶対変えないし、とにかく動物が姿を現わすだけで駆除の方向にもっていくの。大量の罠を山のあちこちに置いて、無理矢理にでも捕獲をするの。まだ生まれて間もない子グマさえ捕まえて殺していくのよ。……こんなこと、ほんとに異常よ!」
 二賀斗は下を向きながらも大学時代には聞いたこともない明日夏の強い口調に、少し戸惑いの表情を見せた。
 「みんなを助けたいの、みんなを。……でもね、でも、何だか自分の力のなさを最近とっても感じるの」
 明日夏はうつむいて寂しくため息をついた。
 「……そういや、大学んときはよく三人でボランティア活動したっけな。俺はちょっとの間しかやらなかったけど。捨て犬とか、捨て猫の譲渡会とかやったなァ。……俺は収に無理矢理手伝わされてたクチだけど、元々はあーちゃんが収を誘って始めてたんだろ? ……あーちゃん、やることがどんどんデカくなっていくみたいだけどさ、がんばりすぎンなよ」
 二賀斗は明日夏に気遣いの言葉をかけたものの、その視線は足元に落ちたままだった。
 「いやッ!」
 明日夏が大声を上げた。
 「いやよッ! みんな助けたいの! 私がしないとみんな殺されるのよッ! 罠にかかったクマの、あの悲しそうな目を見たら、あの目を見たら……。人の心があるなら、あんなこと絶対しないわ!……ハァ、ハァ、ハァ。……ニーさん。私、力がほしい!」
 明日夏は両手のこぶしを硬く握りしめたまま荒ぶれた声を上げた。
 二賀斗は思わす明日夏の顔を見入った。
 〈……コイツ、ほんとに明日夏か? こいつのこんな感情的な言葉、初めて聞いたぞ〉
 二賀斗は戸惑いながらも、感情的になっている明日夏をなだめようとした。
 「それじゃ、……議員先生にでもなるしかないか」
 明日夏は寂しそうに二賀斗を見つめた。
 「冗談、やめて」
 「ん……。ごめん」
 明日夏はうつむくと、静かに話し出した。
 「……聞いて、ニーさん。ほんと真剣に聞いてほしいの。……あのね、もう亡くなっちゃったんだけど、私のおじいちゃんが昔、一度だけ私に話してくれた話をね、最近になって突然思い出したの」
 「……うん」
 二賀斗もうつむいて静かに耳を傾ける。辺りには雨の降る音と遠くから微かに聞こえる喧騒の音だけが漂う。
 明日夏は話を続けた。
 「昔、おじいちゃんが新婚旅行で、とある温泉地に行った時のことなんだけど、おじいちゃんて若い時から物静かな人だったらしくて、だから旅行先もみんなが行くような観光地じゃなくって、ほんと、静かな温泉地に行ったんだって。……それで、そこの宿で三泊するはずだったんだけど、二日目の夜に宿泊していたその旅館が火事になっちゃったんだって……」
 二賀斗は、下を向いたまま明日夏の話を黙って聞いていた。
 「火はあっと言う間に二階建ての旅館を飲み込んだらしいんだけど、幸い泊まっていたお客さんのほとんどは外に逃げ出せたらしいんだって。……でも、外に逃げ出したおじいちゃんとおばあちゃんのすぐそばに、おじいちゃんと同じくらいの歳の夫婦とその子どもがいたんだけど、……でも、その夫婦がすごい取り乱していたんだって。“上の子がいないっ! もしかしたら、まだ旅館の中のいるんじゃないか”って。それで、その若いお父さんが火事になっている旅館の中に入ろうとしたんで、私のおじいちゃんとか、他の宿泊していたお客さんとかが必死になってその人を止めたんだって。“自分まで死ぬ気か! 家族どうすんだ!”って言って。……その人の奥さんは奥さんで、もう狂ったように泣き叫んで周りにいる人たちに助けを求めたんだって。辺りかまわず土下座して、助けを求めたんだって……」
 話をしている明日夏の横顔を、二賀斗は上目遣いで見つめる。
 「……それで、その奥さんがたまたますぐそばにいた旅館の仲居さんの手を掴んで、“お願いします! お願いします!”って泣きながら懇願してたんだけど、……おじいちゃん、その若いお父さんを押さえつけながらそのすぐそばでその人の奥さんの懇願している姿を見せられて、ひどく自分が残酷な、どうしようもないことをしてるって感じちゃったんだって」
 瞬きもせず、一点だけを見つめながら明日夏は話を続ける。二賀斗は、いつの間にか明日夏の方を向いてその話に聞き入っていた。
 「そしたら、急にその仲居さんが何かに憑りつかれたような、なんかおぼつかない足取りでその燃えている旅館の中にフラフラァって入って行っちゃたんだって」
 二賀斗はその言葉を聞くと、急に不審な顔になり、また視線を地面に落とした。
 明日夏は没頭するかのように、話を続ける。
 「……で、その仲居さんが燃えている旅館に入っていった途端に、なんか、ものすごい音が“ドン!”って鳴って、その旅館の窓という窓から外に向かって風が飛び出してきて、瞬時に火事が消えたんだって……。あんな、大きな火事が……一瞬で消えたんだって……」
 二賀斗は下を向いたまま、目を閉じた。
 「おじいちゃんの話だと、その仲居さんは建物に入ってすぐの所で気を失ってうつぶせに倒れていたんだって。……それと、若い夫婦の子どもさんは浴場の中で見つかって、無事だったんだって」
 「……そうか」
 二賀斗は、うつむいたまま小声で相槌を打った。
 「おじいちゃんがさ、そのことを話し終った後、私にこう言ったの。“あのとき何が起こったのかは全くわからないけれど、あの夜の出来事については、むやみやたらと言いふらしちゃいけない。そっとしておくべきなんだ”って。“騒ぐと必ずヤブ蛇になる”って。……だからおじいちゃんもおばあちゃんも、そのことを今まで誰にも話さなかったんだって」
 二賀斗は、明日夏の話が切れるのを見計らって、明日夏に問いかけた。
 「おじいさん、何でそんな秘密の話をあーちゃんに話したんだろ」
 明日夏は、当時を懐かしむように不意に笑みを浮かべた。
 「……なんでだろうね。わかんないけど、もしかしたら世の中にはこんな不思議なこともあるんだってゆうことを私にだけは伝えたかったのかなぁ。……私、おじいちゃん子だったんだ。おじいちゃんといろんな事を話したり、いろんな事を教えてもらったの。言ってなかったかな。私が獣医師目指したのも、おじいちゃんの影響なのよ」
 二賀斗は顔を上げて明日夏の方を向いた。
 「そうなんだ。……おじいさんも獣医さんだったの?」
 明日夏は軽く、頭を左右に振る。
 「……ううん。違うけどね。そういうんじゃなくて、鳥であろうと獣であろうとみんな懸命にこの世界で生きてるっていうことをおじいちゃんからいっぱい教えてもらったの。……私の人生の先生よ、言わば」
 二賀斗は明日夏の思い出に触れると、自身の口を堅く閉じ、軽くうなずいて見せた。
 明日夏は二賀斗の方を向くと、瞬きもせず、じっと二賀斗を見つめた。
 「私、その女の人に会いたい。……会って、何があったのか聞いてみたいの」
 二賀斗は、明日夏の突拍子もないその台詞におもわず大きく口を開けてしまった。
 「はあァ? お、おい! なにを言ってんだよ、おい! ……あのさあ、言っちゃなんだけど、それっておじいさんの見間違いなんじゃないのかい? だいたいそこって、温泉地なんだろ? 何か不燃性のガスとかが丁度その場に噴き出して火事を消した可能性だって考えられるぞ? あーちゃんの話を聞いてるとさ、何だかその仲居さんが超能力でも使って火事を消したみたいに聞こえるんだけど。一応言っとくけどさ、そういうオカルトな話、信じるもんじゃないぞ。そもそも何年前の話だよ。その女中さんだって今何歳になる? 死んでるかもしンないぞ!」
 明日夏は、呆れ顔をした二賀斗をにらみつけた。
 「別に奇跡やオカルトを信じてるわけじゃないッ! ハァ、ハァ。……もう、奇跡とか科学とか、そんなことどうでもいい! 私その人に会って話がしたいの! 私の話を聞いてもらいたいのよッ! どうしても!」
 明日夏は握ったこぶしを膝に押し当て、目に涙を浮かべながら思いの丈を二賀斗にぶつけた。
 〈……明日夏〉
 二賀斗は、明日夏を直視できずに下を向いて、背を丸くする。
 明日夏は二賀斗の丸まった背中を見ると、気まずい表情を見せながらもその背中にそっと右手を寄せた。
 「……ニーさん、ごめんなさい。ニーさんにあたっちゃうなんて」
 「……ん、んん」
 背を丸めたまま、二賀斗は静かに答えた。
 「ねえ、ニーさん。大学の時の友達みんなで収を空港まで見送りに行った日のこと、まだ覚えてる?」
 「……ん? ああ。うん、覚えてるよ。つい最近のことじゃないか」
 下を向いたまま、少し投げやりに二賀斗は答えた。
 「あの日、ニーさんとかみんなが何かの話で盛り上がってる時に、収が私を連れ出してこう言ったの。……“明日夏。しばらくお前とは離れ離れになるけれど、もし助けが必要になったときは、そのときは二賀斗を頼れ。あいつは何でも打破してくれる。俺にもお前にも必要な男だ”って……」
 明日夏は、丸まった二賀斗の背中に向かってそう言った。
 「ニーさんがオカルト話大嫌いだってことは知ってるわ。でもね、私ニーさんしか頼る人がいないの。……お願い、どうか私に力を貸して」
 明日夏は真摯な眼差しで二賀斗を見つめる。
 二賀斗は唇を噛みしめながら、両方のこぶしを強く握って、ひざに押しつけた。
 「……ったく。あのヤロー、いつもいつもそうやって俺のことを調子よく乗せやがって。……フフッ。……分かったよ、俺が見つけてやるよ。収がそう言うんならな。……但し、でっかい貸しだぞ。あいつによく言っといてくれよ、あーちゃん」
 二賀斗は顔を上げると優しく微笑んだ。
 「うん。必ず返すように言っとく」
 明日夏もやさしく微笑み返す。
 雨は、二人の悲しい出来事を洗い流すかのように、静かに降り続いている。
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