最後の山羊

春野 サクラ

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 温泉街を流れる川の音だけが、ひっそりと聞こえる午後六時。
 外はすっかり暗くなり、真冬の寒さが辺りを跋扈する。
 「ひでー寒さッ! おまけに街灯が一つもねーよ」
 そう愚痴を言いながらも、何かを期待するように二賀斗はあの老婆の店にやって来た。
 古ぼけた店の入口ガラス戸は閉じられているが、店内に吊るされたカーテンは十センチほどすき間が開いており、店内の灯りが外に漏れていた。二賀斗は外からそのすき間を縫って店内を覗き見してみたが、正面しか見えない。仕方なしに右手でそーっとガラス戸を引いて店の中に足を踏み入れた。
 「こんばんはー」
 二賀斗が声をかけると、店の奥からあの老婆が顔を出した。
 「入んな入んな」
 老婆は小声で忙しく手招きする。
 二賀斗はそそくさと店の中に入ると、忙しくガラス戸を閉めた。
 「カーテンも閉めといて!」
 老婆は険しい表情で二賀斗に指示する。
 「あ、はい」
 二賀斗は、あわててカーテンを閉めた。そしてガラス戸がカーテンで完全に覆われると、急に老婆は優しく微笑んだ。
 「さあさあ、こっちにお上がりください」
 「はぁ、……じゃあ、おじゃまします」
 二賀斗は、恐る恐る店の奥に入って行った。
 その老婆の店は、食料品を販売してるようだった。床は打ちっぱなしのコンクリートの様で、そう広くはない店内には箱に入ったカレーやシチューのルーとか、袋に入った小麦粉など保存の利くものが棚いっぱいに置かれている。
 店の奥に入ると、床から三十センチほど上がったところにガラス戸があり、その戸を引くと六畳ほどの広さの畳の居間が現れた。
 二賀斗は靴を脱いで居間に上がると、そこには年季の入ったちゃぶ台と、大小一つずつのタンス、石油ストーブ、そして小さいテレビが置いてあった。
 老婆は座布団を二賀斗に差し出す。
 「これ使ってねぇ」
 「あ、すいません」
 老婆は電気ポットに入っているお湯を急須に入れると、茶碗をふたつちゃぶ台に並べ、円を描くようにゆっくりと急須を回し、そっと茶碗にお茶を注ぎ込んだ。湯気が、ほわーっと立ちのぼる。
 「寒かったでしょ、飲んでみなぁ」
 そう言うと、皺枯れた手でゆっくりと二賀斗にお茶を差し出した。
 「あ、すいません。いただきます」
 二賀斗は、フーフーと吹きながらお茶を口に含んだ。
 「ふーっ」
 身体が温まる。芯からの冷えにはやはり身体の内側から温めないといけないということを改めて感じた。
 老婆は自分の茶碗にお茶を注ぎ終えると、急須を置いて、おもむろに立ち上がって大きなタンスの上から二番目の引出しを引き、その中にしまっておいた二つの封筒を取り出してちゃぶ台にそっと置いた。
 古ぼけて黄色みがかったその封筒のオモテ面には、住所と氏名が記されてある。
 〈尾村……万寿様。誰だ? これ〉
 「おむら……ます? ってどなたですか」
 茶碗を両手で握りながら二賀斗は老婆に尋ねた。
 「これ、あたしの名前」
 「ああ、……そうですか」
 二賀斗は軽く肩を落とし、拍子抜けしたような声を出した。
 「中、見てみな」
 目を細めて尾村のばあさんが言う。
 「……はぁ」
 静まり返った居間。二人の息遣いだけが聞こえる。
 二賀斗は二つの封筒のうちの一つを手に取り、裏面を見る。……何も記載がない。差出人は不明。封筒の中には、手紙らしきものが入っている。二賀斗は丁寧にそれを取り出し、開いて読んでみる。
 “前略、……”と書かれてあるが、内容としては、突然姿をくらまして申し訳なかった、ということと、今は元気で暮らしているということがつらつらと書かれている。
 「……ん?」
 読み進めていくと、最後に差出人の名前が書かれていた。
 “お体にお気をつけて下さい 三輪珠子”
 「ん! お、おばちゃんこれッ!」
 二賀斗は目を見張って声をあげた。
 尾村のばあさんは両手で茶碗を抱くと、その湯気の向こうに浮いている茶柱をじっと見つめた。そして、ばあさんの口が静かに開く。
 「……わたしも昔な、お兄ちゃんのおじいさんが泊まったっていう旅館で働いてたことがあったのよ。……その珠ちゃんともね、一緒に働いてたのよ」
 「ええッ? そうなんスか!」
 二賀斗は前のめりになって尾村のばあさんに詰め寄った。
 「……珠ちゃんとはね、本当に仲良く仕事をしたよ。……うん。珠ちゃん、私のことを姉さん、姉さん、ってすごい慕ってくれてねぇ。……本当の姉妹みたいだって、よーく周りから言われていたよぉ」
 尾村のばあさんは茶碗に視線を落とすと、その中で揺れるお茶を見ながら再び話を続けた。
 「珠ちゃんはね、本当に色白で美人だったよ。透き通るような白さでねぇ、優しい顔だちだった。それでいてよーく働くうえに、人一倍気遣いもする。……えらい子だったよ、珠ちゃんは」
 ばあさんはさっきまで見つめていたお茶を一口、くちに含む。
 「あの子、早くに親を亡くしたって言ってたのよ。わたしも早くに旦那を亡くしちゃって、それで子ども抱えて四苦八苦してたからさぁ……。だから気が合ったのかねぇ、いつの間にか“珠ちゃん”“姉さん”って呼び合うようになってたんだよねェ……」
 二賀斗は先ほどの便箋や封筒を手に取ると、しきりに見渡す。
 〈住所は……ない!〉
 裏も表も、それこそ何回も確認した。
 「おばちゃん、あの火事のときあそこにいたんですか!」
 「……うん、居たね。居たけど……わたしは珠ちゃんとは違うところに逃げてたのよ。でも、中に居たお客さんを外に連れ出してた時に、急に何かでっかい音とすごい風が吹いて、わたしら外に吹き飛ばされちゃったんよ。あっけに取られて気付いた時には火事が消えてて。……あんな大きな火だったのにそれが消えちゃっていたんだから、そりゃもう、びっくりしたなんてもんじゃなかったよねぇ。……ただもう、その後はお客さんをあーしたりこーしたりで、もうてんてこ舞いだったんよ」
 尾村のばあさんは、再び茶碗に視線を戻した。
 「珠ちゃんは何だか病院に担ぎ込まれたって言うし、旅館は丸焦げだし、立て直すって言っても……まぁ、何ヵ月も掛かるって言うもんだからさぁ、働いてる人たちはみんな他の旅館に移ったり、別の仕事に就いたり、よそに越して行っちゃったりで、みィんなバラバラになっちゃたのよ」
 そう言うと、ばあさんは立ち上がり、先ほど開いたタンスの引き出しを再び開けて一枚のモノクロ写真を取り出した。
 「……これ、見てみな」
 ばあさんはその写真を二賀斗に差し出した。
 「おぉ、いっぱい居ますね。集合写真ですか?」
 「あの旅館で働いていたみんなの集合写真だよ。昔一枚だけ撮ったんだわ」
 ばあさんは眼鏡を掛けると、写真をジィーと見ながら人差し指で軽く円を描く。そしてある人物を指さした。
 「これ! これが珠ちゃんだわ」
 二賀斗は尾村のばあさんが指さしたその人物に焦点を合わせた。古いモノクロ写真だから今みたいにくっきりとは映っていないが、……その女性は、確かに目が大きくて整った顔立ちをしている。何十年経った今でも十分通用する容姿だった。
 「確かに……きれいな人だ」
 尾村のばあさんは、二賀斗の漏らしたその言葉に対して眉間にしわを寄せて答えた。
 「そうだねぇ……。お兄ちゃんが見たってそう思うだろ? ……ただねぇ。何か知らんけど珠ちゃん、入院していた病院をいつの間にか抜け出してそのままどっか行っちゃったんだよ。そのせいかどうかはわかんないけど、 珠ちゃんが姿を消した後に変なウワサが立っちゃったんだよねえ」
 「……どんな噂ですか」
 二賀斗は目を凝らして尋ねる。
 「……珠ちゃんの、その美しい顔つきと、あの旅館での出来事が丁度相まって、その……何て言うんだろうねぇ。例えれば、雪女のような奇怪な妖怪の様に思われるようになっちゃったんだよね……」
 ばあさんは、眉間に深いしわができるほど強く目を閉じた。
 「それからしばらくして、あの旅館が立て直されて再開したんだけどさぁ。……今度はその悪いウワサが旅館にかかってきちゃったんだよ。……気味悪い旅館だって。前に働いていた人たちは誰ひとり戻ってこなかった。わたしは、旦那さんに“戻ってきてくれ”って言われたときに二つ返事で“戻ります”って応えたんだけどさ、わたし一人戻ったって、それでお客さん全員を出迎えることなんて……とてもできないよねぇ。わたしは戻ります、って返事はしたけど、それからひと月経ってもふた月経っても旦那さんから旅館を開くっていう知らせが無くってねぇ。ある日、どうにも気になって旅館に行ってみたら、玄関に張り紙がしてあったのよ。……“閉館します”って。それ見て、……泣いちゃったよ。残念でねぇ」
 ばあさんは目に涙を溜めていた。
 「本当に気持ちのいい旅館だった。……旦那さんのことを考えるとねぇ。……つらいよ」
 ばあさんは傍に置いてあるティッシュを取り出し、涙を拭いた。
 「……そうですか」
 二賀斗には、それ以上言う言葉が見つからなかった。
 ばあさんは涙を拭くと、話を続けた。
 「……それでねぇ、それから何カ月くらいだろうねえ。半年くらい経ったころかなぁ、お兄ちゃんが今読んでる手紙がウチに届いたんだわ。びィっくりしたわー、本当に。……でもねぇ、まぁ、珠ちゃんが元気にやってるっていうのがわかって一安心したし、何より私のこと憶えていてくれてたのがうれしかったねぇ。だって、元々あの子が何か悪さをして旅館を潰した訳じゃないんだからねぇ……。お兄ちゃん、お茶どうぞ」
 「あ、はい、いただきます」
 尾村のばあさんは二賀斗の茶碗にお茶を注ぐ。
 「それから。……まぁ、わたしも別の旅館で働くことになったんだけど、まぁ生活していくのに必死でね、あの子のことを振り返る暇もなかったのよ。……そうこうしていて、しばらくしたら、珠ちゃんからまた手紙が届いたのよ。……初めにもらった手紙から、一年くらい経った頃かねェ。ほれ、そっちの手紙だよぉ」
 ばあさんはちゃぶ台に置かれた、もう一つの封筒を指さした。二賀斗は指し示されたもう一つの封筒を手に取り、そして表裏を見てみたが、そこには尾村のばあさんの住所と名前しか書かれていない。
 「中、見ていいですか」
 二賀斗の言葉に、ばあさんは軽くうなずく。二賀斗は封筒の中に入っている手紙を取り出し、広げてみた。
 “……前略、生活も何とか落ち着いてきました。姉さんにまた会いたいです。”云々ときれいな字で書かれてある。そのまま読み進めていくと最後に、……T県O町穂原一三〇三番七。
 「……!」
 二賀斗は大きく目を見開き、声を上げた。
 「お、おばちゃん、これ!」
 声を上げた二賀斗自身も驚くほどに、大きな声を上げてしまった。
 尾村のばあさんは、人差し指を唇に当てて“しー”、というポーズを取る。
 「うん、あの子の住所だ。……さっきも言ったけど、仕事に子育てに毎日が本当に大変だったんよ。手紙はもらってもなかなか会いに行く時間が無くってねえ……。それでやっとの思いで会いに行った時にはもう、珠ちゃんはそこには居なかった」
 ばあさんは寂しそうな顔で語った。
 「いやいやいや、この住所が分かればそれだけでいいですよ!」
 二賀斗はいやが上にも高まる興奮を抑えながら自重気味に答えた。

 それからしばらく、二人は世間話を交わした。
 「ほんと、どうもありがとうございました」
 席を立とうとした二賀斗に、尾村のばあさんが声をかける。
 「お兄ちゃん、もしあの子に会えたら。……万が一にも会うようなことがあったら、わたしが会いたがってたと、言ってくれないかい?」
 二賀斗は尾村のばあさんからその言葉を聞かされると、座布団に座り直し、ばあさんに向かって深くおじぎをした。
 「もちろん、必ず伝えます」
 万寿はその言葉に満足そうに微笑んだ。
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