最後の山羊

春野 サクラ

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 数週間後、二賀斗は再び六園館がある、あの温泉街に足を踏み入れた。真冬の季節、路面が凍りついていて、到着するまでの途中に何度かスリップしかけたが、それでも何とか辿り着くことができた。空は快晴で澄み渡っているが、地上は一面の雪景色となっている。身を切る冬の寒さが二賀斗に覆い被さる。……ほんの数カ月前に訪ねた場所だが、前回とはまた違った印象を受ける。だが今度ばかりは、泊まり込みをしてでも彼女の情報を何とか得る。そんな固い“決意”の下での再来訪だった。
 二賀斗は車を公営の駐車場に停めると、外に出て持ってきた地図を広げる。
 「今回はがっつりと聞いてみるかな。……まあ、そんなに広い温泉街じゃないから、とりあえずどこかの店でまずは聞き込みでもしてみるか」
 二賀斗は歩きながら、めぼしい店を見つけては聞き込みを始めた。

 「六園館? 聞いたことないなぁ」
 「え? あの屋敷って旅館だったの?」
 「知らないねえ」
 「……なんでそんなこと聞くの?」
 十数件ほどの店に聞き込みをしてみたが、誰も何も知らなかった。
 北風が地上に勢いよく吹き降りる。時刻は午後に入ったばかりなのに、急に辺りは寒くなりだした。
 「うおお――ッ」
 二賀斗は身を縮めて寒さに堪える。
 「相当昔のことだからなぁ……。そもそも六園間の名前さえ聞いたことが無いって言われたんじゃ、あの旅館で働いていた人に会えるのも相当厳しいかぁ」
 その後もしばらく辺りを歩き回ったが、思うような収穫を得られなかったため、二賀斗は仕方なく昨日電話で宿泊の予約をした宿に向かうことにした。

 「いらっしゃいませ」
 予約をした宿に到着した二賀斗は、一応、フロントで六園館のことについて聞いてみる。
 「あの……六園館って、聞いたことあります? 何十年も前にこの温泉街にあったんですが……」
 フロントの女性従業員は少し考えたような顔をしたが、申し訳なさそうに答えた。
 「そうですね……。ちょっと、聞いたことないですね。すみません」
 〈やっぱり、昔のこと過ぎるか……〉
 そう思うとフロントから鍵を預かり、二賀斗は部屋に向かった。
 今日泊まる旅館は、こじんまりとした三階建ての和風の建物で、川のすぐそばに建てられており、どうやら温泉が自慢らしい。歩き疲れた二賀斗は早速、風呂にでも入ろうと浴場に向かう。
 浴場に入ると“源泉掛け流し”との表記を目にした。
 「これが自慢の風呂かぁ」
 とりあえず手ぬぐいを持って露天風呂の方に行ってみると、すでに数人の先客たちが円形の露天風呂に浸かっており、思い思いに風情を楽しんでいた。二賀斗も早速、その風呂に身を沈める。
 「ふぅ――」
 〈やっぱり風呂入ると、この声が出ちまうよなぁ〉
 「……ちょいとごめんよぉ」
 先客達が二賀斗の前を通り、風呂から出ていく。思いがけず露天風呂は二賀斗の独占となった。
 露天風呂のすぐ下には澄んだ川が静かに流れている。そのたたずまいは最高にいいが、手持ち無沙汰のせいか、浸かってから十分もたたずに二賀斗は風呂から出てしまった。そのあと時間になって夕食を摂り、その後ロビーをうろうろするが、特にやることもないので少し実務書などを読んだ後、その日は早々と床に就いた。

 二日目。宿を出ると、二賀斗は昨日歩き回った方角とは反対の方角に行ってみることにした。晴れ晴れとした空の下、冷たい風が身体を通り抜けるが、午前中はまだ陽の暖かさが感じられる。
 すでに温泉街は観光客で賑わっていた。
 やはり寒いほうが温泉街というものは賑わうのだろうか、二賀斗はこんなこじんまりとしたところでも以前来た時よりは客足が若干多いように感じた。それから何軒かの旅館や店に入り、聞き込みをしてみたものの、返ってくる答えはやはり昨日と似たり寄ったりのものだった。
 昼頃、二賀斗は通りにある少し古ぼけた食堂に立ち寄って食事をする。
 昼食を摂り終わり、一息ついたところで店のおばさんに一つ聞いてみる。
 「あの……この辺りの旅館ってみんな古くからやってるんですか?」
 食堂のおばさんが元気よく答えた。
 「古いところもあれば、新しいところもありますよ。お客さん宿探し?」
 「ええ、まあ」
 二賀斗は、お茶をすすりながら返答する。
 「どんなところがいいの?」
 「いや、自分の祖父が昔、若い頃ここに泊まりに来たんですよ。どんな旅館だったんかなぁ、って見に来たんですけど、どうも無さそうで」
 食堂のおばさんが近寄ってきた。
 「名前、覚えてるんですか?」
 「六園館とか言ってましたけど……」
 おばさんは少し考え込んでいたが、元気な声で答えた。
 「うーん。聞いたことないわねェ。言っちゃうと年がばれちゃうけど、あたし二十年前にここに嫁いできたから、今ある旅館しかわからないわぁ。あははは」
 「はは、そうすか」
 「おばちゃん、お茶ちょうだい」
 他の客がお茶を催促する。
 「はいはーい」
 おばさんは、急須を持って他の客のところに移っていった。
 「……行ってみるか。ごちそうさまー」
 二賀斗は食堂から出ると、再び当てもなくブラブラと歩き出す。
 午後になると太陽の勢いが弱まったことが肌で感じられた。眩しいだけでぬくもりがない。……寒いというだけで、途端に暗い気持ちになってしまった。
 二賀斗は通りにある小さな店先に置かれたスチール製のベンチを見つけると、そこに腰を落とした。
 「はあ――あ……」
 人の行き交いが極端に少ないその通りに向けて足を放り投げると、腕を上げて背伸びをする。……が、寒くなってすぐ縮み上がった。二賀斗はベンチの隣に置いてある自動販売機に目をやると、立ち上がってホットの缶コーヒーを購入した。
 自販機から缶コーヒーを取り出すと、両手で握り少しの間、暖を取る。そしてプルタブを開けて一口ずつゆっくりと口に入れた。
 「はぁ……」
 白い息が空気中に広がる。
 「……さてと、これからどうしたもんかなァ」
 二賀斗は、澄みきった午後の青空を眺めながらつぶやいた。
 「あれまぁ、お兄ちゃん。そこじゃ寒いだろうよ」
 店の中から頭に手ぬぐいをかぶった割ぽう着姿の老婆が二賀斗に声をかけた。
 二賀斗は突然のことに跳ね起きて老婆の方を向いた。
 「あー、いや。……大丈夫ですよ、ははっ」
 本当はものすごく寒いが、それよりも会話するのが面倒くさかったので、二賀斗はおざなりに返答をした。
 「ごめんねー、くつろいでるところで。あたしゃ誰にでも声かけちゃうタチでねぇ。お兄ちゃんは観光ですか?」
 「ええ、まあ……」
 二賀斗はコーヒー缶に視線を落とす。
 「ここも昔はぁ、もうちいっと繁盛した温泉街だったんだけどねぇ、今じゃほんとに寂しくなっちゃったよ」
 老婆は、手を後ろに組みながら笑顔で昔の話を語り始めた。
 「……うちの祖父も、若い頃ここに泊まりに来たことがあったらしいんですよ」
 二賀斗は、今までさんざん周りの人達に話してきた内容をそっくりそのままその老婆にも話して見せた。
 「ほほーぉ。そうですか、そうですかぁ。おじいちゃん元気?」
 老婆は口角を上げて嬉しそうに言った。
 「いや、もう亡くなりましたけどね」
 二賀斗は通りの方を見ながら適当に答える。
 「……うーん、それはお気の毒に。そうですか。……いいところだって言ってましたかい?」
 「ええ。いい温泉街だって言ってましたよ。……命拾いもしたって言ってましたけどね」
 「……んー? ここで何かあったんですかい?」
 二賀斗はめんどくさそうに少し口をモゴモゴしたが、調子に乗ってつい言ってしまった手前、最後まで話すことにした。
 「……ええ、まあ。……その、ここから西に少し進んだところの川沿いにかなり古くなった建物があるじゃないですか。……聞いたところ旅館とのことですが。……で、祖父が若い頃その旅館に泊まったらしいんですけど、何だかその時、その旅館が火事になって、それでそこの旅館の仲居さんにどうやら助けてもらったらしいんですよ。……祖父が言うには」
 二賀斗は何気なく老婆の方に目を向けると、老婆は目を見開いて二賀斗の話を聞いていた。
 「ん? ……どうかしましたか」
 「んー、いやいや、そうかい。それで?」
 老婆は優しく微笑んだ。
 「いや、まあ……。それで、祖父が生前にもう一度その人に会ってどうしてもお礼が言いたいって言ってたんですけど。……まぁ、結局お礼も言えないまま祖父も亡くなってしまったんで、祖父の代わりに自分が何とかその人に会ってお礼が言えればなぁ、と思ってここに来たんですけど、まったくの分からずじまいで……」
 両手に握られたコーヒー缶の温もりも、もはや昔のこととなっていた。
 「どっこいしょ」
 そう言うと老婆は、二賀斗の隣に腰を下ろした。
 「……そうかい。そりゃ大変だったねぇ、こんなところまでわざわざ足運んでもらって。……その女の人は、どんな人だったんかねぇ」
 「ああ……。あー、えーと、何だか色がすごい白くて、名前が、たま……何とかって言ってたかなー」
 二賀斗は、老婆が急に自分の隣に座りだしたことに意表を突かれ、つい吃ってしまった。
 「そうかい。……お兄ちゃんはこれからどうするの?」
 「……どうするのって。……まあ、がんばってその人を探し出したいんですけどね。難しいかなー。結構いろんな人に聞いてみたんですけど、やっぱり誰も知らないみたいだし。はは……。祖父には申し訳ないけど……一言、その仲居さんにお礼が言いたかったですね」
 二賀斗は冷めた缶コーヒーを飲み干した。
 老婆は辺りをしきりに見渡すと、ベンチから立ち上がって二賀斗に話しかけた。
 「お兄ちゃん。お兄ちゃんにここの名物ごちそうしてあげるからさ、夕方の六時頃またここに来てみな」
 「は?」
 二賀斗は思わず気の抜けた声を出してしまった。
 「時間が掛かるんよ。準備しとくから、またその頃ここに来な」
 「あー……はぁ。……でも」
 「はい、じゃあね」
 そう言うと老婆は店の中に入っていった。
 「……なんのこっちゃ」
 二賀斗は空になったコーヒー缶をゴミ箱に投げ捨てると、腰を上げて再び当てもなく歩き出した。
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