最後の山羊

春野 サクラ

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 夕空は、瞬く間に藍色から紺色に染まり、夜の姿へと変わって行った。
 しばらくすると、二賀斗の車は彼女の住んでいたアパートに到着した。二賀斗は車から降り、アパートを見渡す。やはり二〇三号室に明かりは点いていない。隣の二〇二号室に視線を移すと、玄関ドアの脇の窓ガラスに明かりが点いている。二賀斗は迷うことなく二〇二号室に向かっていった。
 外階段を上り、玄関前に着くと、壁に取り付けてあるインターホンを押す。
 「……はーい」
 インターホンから高い声が聞こえた。
 「あの、夜分に失礼します。私、法務事務所の者ですが、お隣の三輪さんのことで少しお話うかがえないでしょうか」
 何も言わず、通話音が切れた。
 二賀斗はそのまま玄関先でジッと待つ。……何か、開くかもしれないという予感がした。
 しばらく玄関先で待っていると、ドアが開き、四十代位の女性が姿を現した。
 「……どんなことですか?」
 女性は、いぶかしい顔つきで二賀斗を見つめる。
 「夜分にすみません。私、二賀斗と申します」
 二賀斗は女性に名刺を手渡した。女性は右手で名刺を受け取ると、じっとその名刺を眺める。
 「行政……書士? なんですか?」
 「お隣の三輪さんは引っ越しされたようですが、どちらに行かれたかご存知でしょうか」
 「えーっ? 知らないわよ」
 女性は眉をひそめて、突き放したように答えた。
 「三輪さんのお嬢さまは高校のバドミントン部でご活躍されていて、大変優秀な方だと伺っておりますが……」
 女性の顔が緩む。
 「あ――っ! 葉奈ちゃんね! あの子ホンットにいい子なのよ。美人だし、礼儀正しいし、会うといっつもきちんとおじぎして挨拶してくれるのよ。ほんとかわいい子よー」
 女性は葉奈のことを饒舌にまくし立てた。
 「お母さまは最近、お亡くなりになられたとか……」
 「よく知ってるわね。そうなのよ。年開けて、……二月くらいなのかな、亡くなったのは。……でもね、葉奈ちゃんなんだけど、お母さん亡くなっちゃってから何か変わっちゃったのよ。何だろねぇ。何か会っても隠れるように通り過ぎるようになっちゃったし、部屋に居るのか居ないのかわかんない生活するようになっちゃたし。……ホントに仲のいい親子だったからさァ、ショックで引きこもっちゃったのかな? それでも四月頃、スーツで外出するようになったの見かけたから多分、会社に勤めるようになったんだと思ったんだけど、そのうちそれも見かけなくなっちゃって、気が付いたら何だか引っ越しちゃったのよ。それでね、ある日うちの郵便受けにメモ紙が入ってたの。見たら、……葉奈ちゃんからだったのよ!」
 「何て、書いてありました?」
 「うーん。……ちょっと待ってて」
 女性は部屋に戻っていった。そして、しばらくするとその女性は小さなメモ紙を手にして現れた。
 「これこれ」
 女性は手に持っているメモ紙を二賀斗に差し出した。二賀斗は一礼をしてそのメモ紙を受け取ると、そこに書かれている文字を読んだ。
 “おばさん、今まで見守ってくれてありがとうございました。ごめんなさい 引っ越します。
                                        葉奈”
 「……文字でその人の性格ってわかりますよね。……一文字、一文字、丁寧に書かれている。お話のとおり本当にしっかりとしたお嬢さんだと思います」
 二賀斗が口にしたその言葉に同調するかのように女性は身を乗り出して声を上げた。
 「そうよ! あの子はほんっとにいい子なんだから! 何か事情があったのよ。……助けてあげたかったわ、ほんとに。……それはそうと、どんな要件だったのかしら?」
 女性は思い出したかのように要件を尋ねた。
 「ああ、あー。……まぁ、その、……実はですねぇ、あの。……内密な話になってしまいますが、葉奈さんにお会いしたいという複数の企業様からのご依頼がありまして」
 「えっ、そうなの? は、葉奈ちゃんに?」
 女性は驚いた表情で尋ねた。
 〈あーあ。俺の良心が痛むけど、……でもここまで来たらもう行くとこまで行くしかねえよ)
 二賀斗は覚悟を決めて、話しを進める。
 「先ほどお宅様がお話し下さいましたように、彼女の持つ細やかな気遣いや配慮、もちろん彼女の容姿や立ち振る舞いもそうですが、そういってものすべてを含めて葉奈さんの将来性に期待する複数の企業様が、企業の顔としてぜひご協力いただきたいと申し出ております。葉奈さんのことを気にかけてくださるのでしたら何卒、ご協力ください」
 二賀斗は真剣な顔つきで話した。
 「……まあ、葉奈ちゃんはそっちの方向に行くのが当然よねえ。葉奈ちゃんのためなら私だって協力したいけど。……でもねェ、どこに行ったかなんて私も知らないからさぁ」
 女性は腕を組んで、うつむいてみせた。
 「そうですか……。もし、なにかありましたらご連絡ください」
 そう言うと、二賀斗はメモ紙を女性に返し、丁寧におじぎをして足早にアパートを離れた。



 「ミーンミンミンミン……」
 珠子の孫娘の母校を訪ねた日からどれくらいの時間が経ったのだろう。気が付くといつの間にか梅雨の季節が過ぎて夏の扉が開いていた。窓の外からは、けたたましくセミが唸っている。
 高校を訪ねた日以降、珠子の孫娘の足取りは全くわからないでいた。二賀斗は自宅アパートの作業机に座り、いつものようにペンを回しながらぼんやりと考えている。
 〈……完全に行き詰ったな。珠子までなら、あの温泉街に行けばなんとかなるだろうって部分があったけど、孫娘となるともう……。債権回収するとか嘘八百並べたりとか、今までさんざんまずいことやって来たからなァ。さすがにこれ以上はちょっと……。そういや、この前も公文書偽造したバカが懲戒処分受けてたな。……俺もまずいな〉
 二賀斗は回していたペンを机の上に置いた。
 〈孫娘は会社に勤めていたって隣部屋のおばさんは言ってたけど、どこの会社かまでは知らないって言ってたし……〉
 「明日夏からのお題は、珠子が死んでることが分かった時点でもう終わってるってことはわかってるんだよ。まぁ……、結局のところ何が起こったのかは誰も見てないって言うからわかんなかったんだけど」
 二賀斗は椅子に深くもたれ掛かると、両手を組んで頭の後ろに押し当てた。そしてそのまま天井を見上げる。
 〈……実際問題、珠子のことはもういいんだよ。……まあ、はっきりしない部分が多々あるんだけど。でもそれはもうどうしようもない。調べようがないんだもの。それよりも孫娘のことだよ! 母親が死んでから様子が変わったって言ってたし。……まさか、後追い自殺でもしてんじゃねえだろうな。……珠子はすでに死んでんだから仕方ないにしても、できれば孫娘が居て、こんな感じでしたっていう報告が磐木さんや尾村のばあさんにできたらなぁ。あの二人のおかげでここまで来れたんだし……〉
 二賀斗は手を離すと、再び親指の背でクルクルとペンを回し始める。
 〈そうは言っても、とにかく彼女が何処に行ったのかがわからないんじゃなぁ。あの様子じゃ誰にも行き先は話してないだろう。……何か、何でもいいからどっかに手掛かりになるものがないかなぁ〉
 エアコンの爽やかな風が漂う室内とは裏腹に、外は夏の日差しが容赦なく辺りをかき回していた。
 ペンとじゃれ合いながらそんなことを考えていたそのとき、二賀斗のスマホの着信音が鳴った。一瞬、明日夏の顔が二賀斗の頭をよぎった。最後に会った時からすでに半年以上が経っていたため、いい加減我慢できずに催促してきたのかもと考えた。
 二賀斗はペンを置き、スマホを手に取ると、相手が誰かも確かめずに電話に出た。
 「もしもーし」
 「……にかどさんでいいのかしら」
 「……はい?」
 電話を掛けてきたのは明日夏ではなかった。
 「あたし。あの、葉奈ちゃんのアパートの隣に住んでる、覚えてるかな?」
 「ああー! はいはいはい。ご無沙汰してます、どうされました」
 二賀斗は、椅子の背もたれに深く寄りかかって会話を続ける。
 「いや、あのねー。先週家族でバーべキュー広場にバーベキューしに行ったのよ。そしたら見たのよ!」
 興奮した声が電話の向こうから聞こえてくる。
 「見た。……ほぉ、見たんですか」
 二賀斗は背もたれに寄りかかりながら、少しいい加減に返答した。
 「葉奈ちゃんよッ!」
 「えっ! 見たんですか!」
 二賀斗は座っていた椅子から飛び上がって叫んだ。
 「そう! あのね! その広場の近くのスーパーに材料の買い出しに寄ったんだけどね、そうしたら葉奈ちゃんに似た子を見たのよ。……うーん。葉奈ちゃんよねぇ……。自転車のカゴに買い物袋いっぱい入れてたんだけど」
 二賀斗は興奮を収え切れずにいた。
 「ホントっ……すか!」
 「えーッ? でもあの姿は。……うーん、葉奈ちゃんよねー。マスクしてたから顔はハッキリと見えなかったんだけど。……でも、やっぱり葉奈ちゃんよ!」
 二賀斗は、通話しながら部屋の中をグルグル落ち着きなく歩き回っている。
 「声、かけなかったんですか」
 「うーん。何かね、周りをキョロキョロして何か警戒してるみたいだったから、声……かけずらかったのよ。どしちゃったんだろうね。……何か、何かに捕まらないようにこそこそしながら自転車押してたわよ」
 「ええーっと、そのスーパーって、どこにあるんですか」
 「K市のフレッシュ大吉って言うスーパーよ。うけ川って言う川の河原のバーベキュー広場の近くにあるの。……葉奈ちゃんじゃなかったらごめんなさいね」
 「いえいえ! わざわざほんとにありがとうございました」
 二賀斗は通話を切ると一目散にスマホでその場所を検索した。彼女は自転車を使って移動している。……となると行動範囲はそんなに広くはないということはある程度想像ができた。たとえ三十分でも自転車をこぎ続けるのは結構疲れることだろうから。そう考えると、彼女はこのスーパー近辺に住んでいると考えても、あながちズレた考えとはならないだろう。
 スマホの画面を軽く叩くと、例のバーベキュー広場周辺の地図が画面上に現れた。その広場は、有卦川という川の上流にあり、場所的には川伝いに店舗や民家が点在するというような辺鄙なところだった。そしてそこは市街地からもかなり離れた場所にあり、どちらかというと山の麓と言ったほうが話が早い。二賀斗は彼女を見かけたというスーパーを画面上で確認する。
 「……ここか」
 スーパーを中心にして、その付近の地図を丹念に見てみる。この範囲のどこかに彼女がいるかもしれない。……いよいよ当事者とご対面できるかもしれないと思うと、二賀斗は少なからず緊張を覚えた。
 二賀斗は椅子に勢いよく身体を落とした。
 「はは……。名刺渡しておいてよかったよ。なにが功を奏するかわかったもんじゃないな、世の中」
 「ミーンミンミンミン……」
 外から聞こえるセミの声。夏の本番は、これから始まる。……この件も、これからが本番か、それとも強制終了の一歩手前か。二賀斗は、しばし高揚感に浸っていた。
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