深夜水溶液

海獺屋ぼの

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第二話 ワタリガラス

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 私たちは会社を出ると近くの喫茶店に入った。店全体に蔦の生えた喫茶店。私と社長の密会部屋。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。コーヒー二つお願いね」
 私たちは席に着く前にオーダーを伝えた。店員も慣れた調子で「かしこまりました」と答える。一〇年以上通い続けているからいつもこの流れだ。
 それから私たちは右奥の席に座った。思えば私たちはいつも同じ席に座っている気がする。どういうわけかこの店では常連の席はだいたい決まっているのだ。それこそ教室の座席のように。
「会議お疲れ様です。今日もよく我慢してくれました」
 席に着くなり社長は蒸しタオルを手に取りながらそう口にした。
「いえ。営業部長の言わんとすることも分かりますので」
「ハハハ、西浦部長もすっかり大人ですね」
 大人……。嫌な響きだ。私の中で大人とは社会の奴隷になると認めた人間なのだ。従属する。仕組みに組み込まれた存在。
「いえいえ。ただ面倒な衝突は避けたいだけです。まぁ……。彼はいつも私と喧嘩したがってますけどね」
「ふむ、そうだね。たしかに広瀬くんにはそういうところはあるかな……」
 そんな話をしているとコーヒーが運ばれてきた。嗅ぎ慣れた香り。柑橘系のような甘酸っぱい匂いがする。
「企画部としては一向に構いません。営業さんがいないと私たちの仕事は進みませんからね。だから文句のひとつやふたつ気にしないことにしてるんです」
 我ながら大人な発言だ。社会の歯車にとしては実に優秀な思考だろう。
「そう言って貰えるとこちらとしては助かるよ……。でも、あまり無理はして欲しくないかな」
「残念ながらそうもいきませんよ……。組織って外部から壊されるより内部から壊れることの方が多いんですから」
 これは私の経験則だけれど、大きくなった組織の大半は内部から腐食する。利権争いだったり保身だったり。そういったつまらない理由で身内で足の引っ張り合いをするのだ。最初は小さい火種でもそれがやがて組織の推進力を奪う。その後は……。言うまでも無いだろう。
「本当に君は成長したね……」
「ええ。お互いにね」
 お互いに。社長と私のその両方が成長したのだろう。四半世紀前はもっと子供だったのに――。

 社長と出会ったのは私が高校生のときだ。当時は学生運動全盛期で多くの青年たちはヘルメットを被り、長い角材を持っていた。(ステレオタイプな日本の学生運動を想像して貰えればだいたい合っていると思う)
 でも社長はそれとは対極の存在だった。ノンポリ。周りの意識の高い学生連中からはそう言われていたそうだ。おそらく左派の学生からしたら彼は体制の奴隷のように映ったのだろう。
 思えば血の気の多い時代だった。若者たちは理想を掲げ、自分たちが国を動かすんだという意思を鼓舞していた。暴力行為は褒められたものではないけれど、理想を語るのは素晴らしいことだと思う。まぁ……。現実的には体制側に与したノンポリ連中の方が得をしたわけだけれど。
 そんな激流のような時代の中、彼はただギターを弾いて青春を過ごしてた。七〇年代はフォーク全盛期で、彼のような若者は他にもたくさんいたと思う。でも彼はそんな若者たちとは一線を画していた。
 どう違うか。それを語るのは難しいけれど、簡単にまとめれば彼は世相とは真逆の方向を向いていたのだと思う。世間が反戦だったり、体制への反抗だったりを込めていたとすれば、彼は体制に組み込まれるような音楽を作った。奴隷の音楽。私はそれをそう呼んでいる。
 彼の作る音楽はどれをとっても妥協的だった。現状に不満を持つことを悪とし、今あるものに感謝する。そんな音楽だ。曲調も明るいものが多く、歌詞に至っては賛美歌と似たり寄ったりだった。
 正直に言おう。私はそんな音楽が流行るとは到底思えなかった。どうあがいても世間は不満の捌け口を求めていたし、人の数だけ欲望や悩みはある。欲望と反抗。それを主体とする音楽こそがこの世界でウケるのだ。社長の考える理想郷的音楽は流行るはずがない。当時の私はそう思っていた――。

「お気遣いは嬉しいけど……。ここが踏ん張りどきだからね。社長だってそんくらいは分かるでしょ?」
 私はそう言いながらタバコに火を付けた。煙は天井に上って消えていく。
「有栖ちゃん……。もし嫌だったら嫌って言った方がいいと僕は思うよ?」
「いや、いいよ。企画部任されたときから文句言わないって決めたから」
 気がつくと私たちは昔のように軽口を叩いていた。
 あの血の匂いが漂う七〇年のように。
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