深夜水溶液

海獺屋ぼの

文字の大きさ
上 下
29 / 67
第三話 文藝くらぶ

しおりを挟む
 結論から言うと私の返信はとても簡素でありふれたものになった。二時間ほど掛けて書いた気の利いた風の文章を幾つか削除し、ようやく返したそれは酷く凡庸になってしまったのだ。
 致し方ない。どれほど一生懸命書いたところで彼には見透かされる気がする。
 返信を終えると一気に疲れに襲われた。
 ああ、こんなことなら執筆でもしていれば良かった……。そう思うくらいには無駄な時間だった――。

 その週の週末。私はある人に会うために熱海に出掛けた。熱海。尾崎紅葉の金色夜叉が一番最初に思い浮かぶ場所だ。
「おーい! のべるん!」
 熱海駅の改札を出るとすぐに女の人に声を掛けられた。待ち合わせの相手。私の創作仲間だ。
「モッチーさん! おひさしぶりです」
「ほんとだよー。GWの即売会以来じゃない?」
 彼女は嬉しそうに笑った。この人はどんなときでもこんな感じなのだ。明るくてノリが良い。
「本当ですよねぇ。即売会のときは色々ありがとうございました……」
「いえいえー。あん中じゃのべるんが一番年下だからねぇ。不安だったでしょ」
「ほんとに! モッチーさん居なかったら即売会出来なかったかも……」
 若干の謙遜と大部分の本心でそう応えた。彼女の親切心と行動力に感謝せずにはいられない……。
 彼女との出会いは文学系の同人即売会だった。その即売会は『文藝くらぶ』が主催したもので多くの文くら作家が参加していた。(後述するがその場に冬木紫苑の姿はなかった)
 参加者の多くは同人作家だったけれど、中には商業作家もちらほら居た。オシャレな女の人も居たし、おじちゃんも居た。様々な人種の品評会のようだと思う。
 巨大なホールに並べられた会議テーブルとパイプ椅子。その上に平積みされた同人誌。その全てが新鮮だった。まぁ……。そのせいで私は自分のブースさえ見つけられなかったわけだけれど。
 そのときたまたま声を掛けてくれたのがモッチーさんだった。モッチーさん。正式な作家名・蕨モチ。文芸サークル名・黒蜜茶房。(同人即売会ではサークル名と作家名をカタログに記載するのが決まりだ)
 彼女と初めて会った日のことは昨日のことのように覚えている。彼女は……。失礼承知で言わせて貰うとすれば完全におばちゃんだった。おそらく母よりも年上だと思う。容姿に関しても普通の域を出ない。そんな感じの普通のおばちゃん。もしスーパーで会ったなら間違いなく声を掛けたりしないと思う。
 それでも彼女の持つ明るい雰囲気にはとても好感が持てた。下手に綺麗なお姉さんよりもずっと良い。そんな温かくも力強い空気感があるのだ。
 モッチーさんはとても親切にブース設営の仕方や新刊の配布方法を教えてくれた。手取り足取り。まるで哺乳瓶を口に宛がうように。
 ま、そんなわけで私とモッチーさんは普通に友達になったわけだ。仲間でありライバル……。そんな関係だと思う。
「今月はのべるんに負けたなぁ」
 駅前のロータリーを見渡しながらモッチーさんが言った。
「今月は投稿本数多かったですからねぇ。来月はテスト期間あるから負けそう……」
「なんだよぉ。中間テスト?」
「そうなんですー」
 学生の悲しいところだ。学業が最優先。
「そっかそっか。まぁ学生も大変よね」
 もっちーさんは懐かしむような顔をして笑った。
しおりを挟む

処理中です...