深夜水溶液

海獺屋ぼの

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第五話 今、挟まれる栞

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「これから忙しくなりそうだね」
「そうだね。とりあえず来年の二月ぐらいまでは仕事ぎっしりだよ」
 栞はそう言うと苦笑いを浮かべた。本当は嫌なのだろう。のんびり屋の栞らしい。
「あんまり無理しない方がいいよ? 編集も営業も作家を食い潰したがるからね」
「ハハハ、さすが本職さんが言うと説得力あるね。……。うん、気をつけるよ」
 出版……。そして文壇に関わる連中は栞を食い物しようとするはずだ。どの業界でそうだけれど、甘いモノにはアリが集りやすいのだ。その癖、作家が困窮しても助けようとはしないのだから酷い話だと思う。(もちろん親身になってくれる編集者もいるけれど)
「あーあ、式は少し先になっちゃうねー。まだぜんぜん準備も出来てないしさ」
「そうだね……。来年中に出来ればいいけど」
「だよねー。夏前には色々始めなきゃだね」
 正直、『来年は無理かもしれないね』と思った。おそらく栞も同じことを考えていると思う。でも互いにそれを口にはしなかった。希望は欲しいのだ。希望的観測であっても未来は明るくあって欲しい。
「まぁ……。何とかしよう。何とかするしかないからね」
 栞はそう言いながらワインを飲み干した。僕は「そうだね」とだけ返した――。

 直木賞の受賞後、栞の仕事は目に見えて増えていった。文芸雑誌の取材、昼のバラエティ番組のゲスト。あと、なぜか食レポの依頼まで来た。(さすがに食レポは断っていたけれど)
 栞がメディア露出したり、記事を寄稿している間も僕は忙しない毎日を送った。
 忙しないといってもいつもと変わらない。作家が書いた原稿を預かって下読みしたり、赤入れして返したりするだけ。単調な作業だ。単調すぎて腰が死にかけた以外は特に変わったこともない。
 淡々と熟す仕事。僕はこの仕事にプライドとやりがいを持っている。作家が書いた作品を磨くだけ。それ以上でもそれ以下でもないけれど、磨くだけなら僕より上手い人間は意外と少ないと思う。
 これは長所であり同時に短所でもあるのだけれど、僕には主観があまりなかった。だからただ文章を磨くだけなら僕が最適なのだと思う。作家の作品の味は変えない。ただ読みやすくする。そんな編集。
 中学時代からの友人には『水貴くんの書く文章って水みたいだよね』とよく言われたものだ。
 水。味がなく、ただ潤いを与えるだけの液体。水溶液のベース。そんな文章。
 そう言われるたびに『名は体を表す』という慣用句の適当さを感じた。
 僕は水のように味のない文章を。栞は人の心に挟まれて残る文章を。互いに書いてきたのだと思う。
 でも……。たまに思うのだ。編集という仕事は好きだけれど、作家としてやっていきたかったと。
 おそらくこれは栞へのコンプレックスなのだ。彼女のように味と匂いと色のある文章を書きたかった。そんな悔しさにも似た感情。どんなに願ってもたどり着けない。そんな場所への憧れ。
 僕のそんな気持ちとは裏腹に栞は僕の文章を好きだと言ってくれた。そして書評を言った後には必ず『水貴くんらしい文章だね』と付け加えた。それはまるで僕のことを肯定するための言葉に聞こえた。『お前の文章にはなんの価値もない』と言う世間へのアンチテーゼのように――。
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