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第一章 樹脂製の森に吹く涼しい風
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九月一日。私は新しい制服に袖を通した。真新しい生地の匂いが鼻を突く。
「今日から新学期ね。ま、頑張ってきなさい」
パジャマ姿の母は適当そうに言うと、頭をボリボリ掻いた。化粧っ気もなく、年齢相応に見える。
「うん。お母さんは今日出かけるの?」
「出かけるよー。神保町だから夕方には戻るけどね。お父さんも今日は帰り早いみたいだからひさしぶりに四人で夕食できるわね」
家族揃っての夕食。なんと珍しいことだろう。祖母はともかく、両親はいつも家にいないのだ。父は商社勤めで忙しいせいか、毎朝顔さえ合わせない。母の話だと五時半には出社しているようだ。だから一週間丸々、父と会わないなんてことも珍しくはない。
「分かった……。今日は始業式だけだら私も早く帰るよ」
「そうね……。あ、じゃあさ。夕飯の買い出しお願いしていい? 栞が食べたいものでいいから買ってきてちょうだい。あとは……。そうね。安いのでいいからワインも」
「うん! じゃあ帰ったらスーパー行ってくるよ」
母は「お願いね」と言うとマイルドセブンに火を点けて、キッチンの換気扇に煙を吐き出した――。
転校先での始業式。一四年、生きてきて二度目の経験だ。瀬田中学校の正門は古く、かつては真っ白だったことを残念がるような姿でそこに立っていた。校舎も同じ色で絵に描いたような中学校の校舎だと思う。京都で私が通っていた中学は比較的新しめだったので、その古さが逆に新鮮に感じる。
実はこの校舎に来るのは初めてではない。夏休み中に祖母と一緒に転校の手続きで一度訪れている。そのとき、担任になる先生にも会った。四〇代後半くらいの女性教諭で、話した印象は悪くはなかった。
学校に着くと私は職員室へ向かった。他の生徒たちと違って私には教室も席の場所も分からない。
「失礼します!」
職員室の木製の重い引き戸を開ける。先生達は談笑したり、机で書類の整理したりしていた。
「あらあら、おはよう川村さん! 早いね」
「はい! 今日からお世話になります」
担任の先生が私に気付くと笑顔で出迎えてくれた。胸元のネームプレートには鈴木弥生と書かれている。
「えーと……。この前も話したけど、川村さんは二年一組だよ。まぁ……。みんな良い子達だと思うから安心して!」
「ありがとうございます。あのちょっと聞きたいことがあるんですが……」
「なーに? 何でも聞いてちょうだい! あ、プライベートな話はダメね! クラスとか学習に関してなら答えるから」
どうやら鈴木先生は割とお茶目なようだ。独身かどうかが気になったけれどそれは教えたくはないらしい。まぁ、彼女の左手薬指には何もないけれど……。
「あの……。半井くん。半井水貴くんって何組ですか?」
「ん? ああ、水貴くんね。彼は一組よ。私のクラス。彼のこと知ってるの?」
「ええ。顔見知り程度ですが……」
「そう! まぁ、知り合いがいるなら安心ね! 水貴くんは頑張り屋だから応援したくなっちゃうのよね。じゃあ、体育館行こうか? 案内するから」
廊下に足音が響き渡る。学校全体の生徒が体育館に向かっているようだ。校舎が古いためか、廊下に貼られているリノリウムが所々破けて下地がむき出しになっていた。
「京都はどうだったの? 私はずっと東京住みだから詳しくなくってさ」
「いいところだと思います。鴨川は綺麗ですし、夏は暑いけど悪くはないです。まぁ……。住み始めの頃は迷子になりましたけどね」
「フフフ、そうよね。京都の街はそういう作りだもんね。私は方向音痴だからきっと住めないと思う」
鈴木先生は笑うとうなじを掻いた。
住み慣れたのであまり気にしなかったけれど、府外から来た人間は京都市内で迷うようだ。碁盤の目状に道路が張り巡らされ、右折と左折を繰り返すうちにどこにいるか分からなくなってしまうらしい。徒歩でもそれは同じようで、府内で観光客が地図片手に困っている姿は何回も見た。
体育館に辿り着くと、館内は生徒で溢れていた。全校生徒数四〇〇人。さすがにこれだけいると体育館が狭く感じる。
「じゃあ川村さん! 悪いんだけど、一組の出席簿の最後尾に並んで貰ってもいいかな? あとから五十音順に変えるけどとりあえずで」
「はい! わかりました」
二年一組の生徒たちは狭い感覚で体育座りしていた。男子生徒は互いにちょっかいを出し合い、女子生徒はヒソヒソ話をしている。
私は彼らに見つからないように最後尾に座った。正直、今話しかけられても返す言葉が見つからない。幸い、最後尾の男子生徒は私にあまり感心がないらしく、挨拶ひとつしないでくれた。もしかしたら「誰だよこいつ」ぐらいには思ったのかもしれないけれど……。
始業式はテンプレート通りに進行していった。これ以上ないくらい定型。何なら校長先生の話も〝校長先生のお話全集〟からそのまま引用のではないだろうか。そんなハウツー本あればの話だけれど、それくらいありきたりだ。
始業式が終わると生徒達は立ち上がった。急いで立ち上がったせいで背の高い男子生徒とぶつかってしまう。
「あ、ごめんなさい」
「ああ、こっちこそ……。ってあれ? この前の絆創膏の子だよね?」
そこに立っていたのは水貴と一緒にいた背の高い男の子だった。制服姿の彼はこの前より背が高く感じる。
「あ! この間はありがとうでした……。えっと……。半井くんの友達の……?」
「ああ、水貴から聞いているよ。川村さんだよね? あいつ律儀に絆創膏買ってたからさ」
彼はそう言うとニッと笑って自己紹介してくれた。
「とりあえず初めまして。瀬戸浩樹です。水貴とは幼稚園からの幼なじみなんだ」
「そ、そうなんだ……。よろしく。あ、私は川村です」
私もたどたどしく自己紹介した。水貴と違って彼からは少しプレッシャーを感じる。
「よろしく! 俺は二組でクラス違うからあんま会わないかもしれないね。ま! 水貴のことよろしく頼むよ。あいつ人見知りで女慣れしてないから心配でさ」
〝あなたは女慣れしてるんですか?〟と心の中で思った。当然、口には出さなかったけれど。
浩樹と別れると私は職員室へと向かった――。
「今日から新学期ね。ま、頑張ってきなさい」
パジャマ姿の母は適当そうに言うと、頭をボリボリ掻いた。化粧っ気もなく、年齢相応に見える。
「うん。お母さんは今日出かけるの?」
「出かけるよー。神保町だから夕方には戻るけどね。お父さんも今日は帰り早いみたいだからひさしぶりに四人で夕食できるわね」
家族揃っての夕食。なんと珍しいことだろう。祖母はともかく、両親はいつも家にいないのだ。父は商社勤めで忙しいせいか、毎朝顔さえ合わせない。母の話だと五時半には出社しているようだ。だから一週間丸々、父と会わないなんてことも珍しくはない。
「分かった……。今日は始業式だけだら私も早く帰るよ」
「そうね……。あ、じゃあさ。夕飯の買い出しお願いしていい? 栞が食べたいものでいいから買ってきてちょうだい。あとは……。そうね。安いのでいいからワインも」
「うん! じゃあ帰ったらスーパー行ってくるよ」
母は「お願いね」と言うとマイルドセブンに火を点けて、キッチンの換気扇に煙を吐き出した――。
転校先での始業式。一四年、生きてきて二度目の経験だ。瀬田中学校の正門は古く、かつては真っ白だったことを残念がるような姿でそこに立っていた。校舎も同じ色で絵に描いたような中学校の校舎だと思う。京都で私が通っていた中学は比較的新しめだったので、その古さが逆に新鮮に感じる。
実はこの校舎に来るのは初めてではない。夏休み中に祖母と一緒に転校の手続きで一度訪れている。そのとき、担任になる先生にも会った。四〇代後半くらいの女性教諭で、話した印象は悪くはなかった。
学校に着くと私は職員室へ向かった。他の生徒たちと違って私には教室も席の場所も分からない。
「失礼します!」
職員室の木製の重い引き戸を開ける。先生達は談笑したり、机で書類の整理したりしていた。
「あらあら、おはよう川村さん! 早いね」
「はい! 今日からお世話になります」
担任の先生が私に気付くと笑顔で出迎えてくれた。胸元のネームプレートには鈴木弥生と書かれている。
「えーと……。この前も話したけど、川村さんは二年一組だよ。まぁ……。みんな良い子達だと思うから安心して!」
「ありがとうございます。あのちょっと聞きたいことがあるんですが……」
「なーに? 何でも聞いてちょうだい! あ、プライベートな話はダメね! クラスとか学習に関してなら答えるから」
どうやら鈴木先生は割とお茶目なようだ。独身かどうかが気になったけれどそれは教えたくはないらしい。まぁ、彼女の左手薬指には何もないけれど……。
「あの……。半井くん。半井水貴くんって何組ですか?」
「ん? ああ、水貴くんね。彼は一組よ。私のクラス。彼のこと知ってるの?」
「ええ。顔見知り程度ですが……」
「そう! まぁ、知り合いがいるなら安心ね! 水貴くんは頑張り屋だから応援したくなっちゃうのよね。じゃあ、体育館行こうか? 案内するから」
廊下に足音が響き渡る。学校全体の生徒が体育館に向かっているようだ。校舎が古いためか、廊下に貼られているリノリウムが所々破けて下地がむき出しになっていた。
「京都はどうだったの? 私はずっと東京住みだから詳しくなくってさ」
「いいところだと思います。鴨川は綺麗ですし、夏は暑いけど悪くはないです。まぁ……。住み始めの頃は迷子になりましたけどね」
「フフフ、そうよね。京都の街はそういう作りだもんね。私は方向音痴だからきっと住めないと思う」
鈴木先生は笑うとうなじを掻いた。
住み慣れたのであまり気にしなかったけれど、府外から来た人間は京都市内で迷うようだ。碁盤の目状に道路が張り巡らされ、右折と左折を繰り返すうちにどこにいるか分からなくなってしまうらしい。徒歩でもそれは同じようで、府内で観光客が地図片手に困っている姿は何回も見た。
体育館に辿り着くと、館内は生徒で溢れていた。全校生徒数四〇〇人。さすがにこれだけいると体育館が狭く感じる。
「じゃあ川村さん! 悪いんだけど、一組の出席簿の最後尾に並んで貰ってもいいかな? あとから五十音順に変えるけどとりあえずで」
「はい! わかりました」
二年一組の生徒たちは狭い感覚で体育座りしていた。男子生徒は互いにちょっかいを出し合い、女子生徒はヒソヒソ話をしている。
私は彼らに見つからないように最後尾に座った。正直、今話しかけられても返す言葉が見つからない。幸い、最後尾の男子生徒は私にあまり感心がないらしく、挨拶ひとつしないでくれた。もしかしたら「誰だよこいつ」ぐらいには思ったのかもしれないけれど……。
始業式はテンプレート通りに進行していった。これ以上ないくらい定型。何なら校長先生の話も〝校長先生のお話全集〟からそのまま引用のではないだろうか。そんなハウツー本あればの話だけれど、それくらいありきたりだ。
始業式が終わると生徒達は立ち上がった。急いで立ち上がったせいで背の高い男子生徒とぶつかってしまう。
「あ、ごめんなさい」
「ああ、こっちこそ……。ってあれ? この前の絆創膏の子だよね?」
そこに立っていたのは水貴と一緒にいた背の高い男の子だった。制服姿の彼はこの前より背が高く感じる。
「あ! この間はありがとうでした……。えっと……。半井くんの友達の……?」
「ああ、水貴から聞いているよ。川村さんだよね? あいつ律儀に絆創膏買ってたからさ」
彼はそう言うとニッと笑って自己紹介してくれた。
「とりあえず初めまして。瀬戸浩樹です。水貴とは幼稚園からの幼なじみなんだ」
「そ、そうなんだ……。よろしく。あ、私は川村です」
私もたどたどしく自己紹介した。水貴と違って彼からは少しプレッシャーを感じる。
「よろしく! 俺は二組でクラス違うからあんま会わないかもしれないね。ま! 水貴のことよろしく頼むよ。あいつ人見知りで女慣れしてないから心配でさ」
〝あなたは女慣れしてるんですか?〟と心の中で思った。当然、口には出さなかったけれど。
浩樹と別れると私は職員室へと向かった――。
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