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第一章 樹脂製の森に吹く涼しい風

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 窓越しに歩くビジネスマンの姿が見えた。彼らは足早に歩を進める。街路樹からはムクドリのさえずりが聞こえ、蝉の声と混ざって賑やかだ。うるさいぐらいに。
 水貴は原稿を集中して読んでくれた。目を細め文章を舐めるように見つめている。
 私は読んで貰うために文章を書いている。当然の話だけれど、読まれなければ文章……。特に文芸作品は意味がない。それでも水貴のように真剣に読まれると妙に気恥ずかしかった。感覚的には自身の裸を見せるより恥ずかしいかもしれない。
 文章は私の心を投影する鏡だ。映し出されるのは裸の心。だから普段は他人に見せないような姿がそこにはあるはずだ。
 彼の文章に向き合う姿勢は裸婦をデッサンする美大生のようにも見えた。だからその視線にはいやらしさだとか、異性への欲情といった感情は含まれてはいないと思う。そこにあるのは単純な好奇心、そして純粋な探究心だけ。
 不思議だけれど、欲情よりも純粋な探究心で見つめられる方が恥ずかしい気がする。欲情であれば本能的にそう思われるだけで、人間の身体の仕組みだと割り切ることができる。しかし探究心はそうではないのだ。探究心……。それは理性に依存するから。
 理性……。人間が人間らしくいるためのもの。水貴の読む姿勢はまさにそれに依るものだろう。
 彼はプラモデルを組み立てたときと同じように私の文章をよく観察し、分解し、丁寧にヤスリ掛けする。そんな風に読み進めていった。
 彼が文章を読んでいる間、私は一言も口を挟めなかった。仮に「どうかな?」とか「面白い?」と聞いてもあまり意味がない気がした。
 きっと彼は大衆文芸を読むタイプの読書家ではないのだろう。おそらく彼が普段読んでいるジャンルは純文学……。芸術性と文章の情緒で形成された分野の小説――。
 三〇分ほど読むと彼は原稿用紙から目を離した。「ふぅー」というため息を吐き、原稿用紙をテーブルに置いた。
「とても良かったよ。ストーリーは王道だね。特に〝ナギ〟の感情表現が読んでて引き込まれるね」
「ありがとう……。まだまだ荒削りだからこれから調整しなきゃだけどね」
「川村さんって文才あるんだね。正直、軽い気持ちで読み始めたから驚いたよ」
 文才がある。どうやら彼の中で私の小説は合格点のようだ。
「いやいや……。全然だよ。お母さんの小説の方が上手いし、正直、プロットにも穴だらけだと思うかな……」
 これは正直な意見だ。たしかに私の小説はそれなりのクオリティーがあるのかもしれないけれど、あくまで学生の趣味レベル……。文芸を生業にするにはほど遠いと思う。
「へー。お母さんも書くんだね。もしかしてプロの作家さん? ……。あ! 川村ってことは川村本子さんかな?」
「そうだよ。お母さんはプロの作家なんだ。よく知ってるね」
「いやいや……。知ってるも何もニコタマに住んでて川村本子さん知らない人はいないと思うよ? 本屋だって専用コーナー組んでるし、何作も賞取ってるじゃん」
 あまり意識していないけれど、どうやら母は地元では有名人のようだ。全国的な知名度に関してはよく分からないけれど。
「そっか……。お母さん有名人なんだね」
「はぁ……。やっぱり身内だと実感ないのかもね。本子さんの本は何冊か持ってるよ。〝雉と銃声〟は何回も読んだしね。あの人の書く話は独特だよね。肌にべったり纏わり付くような文章で癖になるよ」
 〝雉と銃声〟。母がまだ若い頃に書いた純文学作品だ。内容は東北のまたぎの生き様を描いた物語だったと思う。
「読んでくれてたんだね」
「うん。ってか本子さんの作品はウチに全部あると思うよ。親父が好きでよく読んでたからさ」
 母の本が褒められるのは悪い気がしない。変な話、私の作品を褒められるよりも嬉しいかもしれない。だらしない人だけれど、私は母が好きなのだ。優しくて放任主義で、理解者……。私はそんな母を尊敬している。
「半井くんは他にどんな作品読むの?」
 私は気になっていたことを彼に尋ねた。答えの予想は立っているけれど念のため。
「そうだね……。色々読むけど、純文学作品が多いかな。古典なら夏目漱石とか芥川とかね」
 やはりか。と私は思った。完全に純文学を愛好している。
「私はファンタジーメインだけど、純文学いいよね。技術的に書けないけど、そのうち書いてみたい」
「うん。人によって意見は違うだろうけど、やっぱり純文学が一番いいよ。推理小説とかのエンタメ作品も嫌いじゃないけど、やっぱり文章で読ませる作品じゃないと小説としての意味がない気がする」
「フフフ、いいよね。じゃあ純文学作品書いたら半井くんに読んで貰おうかな」
 私は社交辞令的にそう言った。
「是非! 川村さんの作品良いと思うからさ。きっと純文学もいけると思う!」
 そう言って笑う彼はとても人懐っこく見えた。この間、プラモデルを組み立てていたときとはまるで違う。
 それから私たちはしばらく文芸の話で盛り上がった。好きな作家の話から、好きな作品の気に入ってる言葉まで色々と話した。気が付くと私は彼とすっかり打ち解けていた。彼の声のトーン、話すテンポ、相づちの打ち方。その全てが心地良い。
「あ! ごめんごめん。すっかりお邪魔しちゃったね。そろそろ帰るよ」
「うん。今日はありがとうね」
「こっちこそ! じゃあ新学期に待ってるよ。同じクラスになれると良いね」
 そう言うと彼はニッコリと笑った――。

 彼が帰った後、私は再び校正作業に戻った。赤ペンを握り、文章を直していく。不思議とペンの滑りが早い。
 ほんの少しだけ気持ちが軽くなった気がした。あれほど憂鬱だった新学期が楽しみに思えた。
 水貴と同じクラスになりたい。素直にそう思った。彼と一緒なら楽しい中学生活も送れると思う。
 こんな感情を抱いたのは初めてだ。幼少期のこの街でも、四年間過ごした京都でもこんな風に誰かに期待したことなんてない。
 祖母の鼻歌が聞こえる。私はその鼻歌を聴きながら赤ペンを滑らせていった。
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