4 / 64
第一章 樹脂製の森に吹く涼しい風
3
しおりを挟む
八月二九日。私の作品が完成した。魔法とカーバンクルという幻獣の物語。やはり私はファンタージ小説が好きなのだ。一般向けの大衆文芸も書いたことがあるけれど、やはりこちらの方が落ち着く。私はカーバンクルに〝ナギ〟という名前をつけた。ふわふわな白い体毛。額には菱形の真っ赤なルビー。ウサギと犬を掛け合わせたような姿をした獣だ。これは完全に私の好みだ。最高に可愛らしい見た目だと思う。もっとも、文章で書いただけなので姿を想像するのは読者なのだけれど。
文章の校閲と校正に入る。当然のように毎回、誤字脱字、表記のブレはあるので丁寧に行わなければいけない。
例えば「アカリ」という言葉一つ取っても、「明かり」「あかり」「灯り」と何パターンも表現方法はある。これに関しては文章の流れと作風によって変わるわけだけれど、私は平仮名で書いた「あかり」が気に入っている。ぼんやりとしたイメージ。優しい光。そんな感じ。
祖母は店の奥で珈琲豆の仕分けをしていた。彼女は仕入れてきた新しい豆を焙煎機から取り出すと、それをカウンターの上に並べた。香ばしい香りが店内に漂い、一気に喫茶店らしい匂いになる。
祖母は珈琲豆と茶葉の選定にはいつも気を使っていた。特に珈琲豆は念入りに行っているようで、五感を使って豆の選定を行っている。祖母の店がそれなりにやっていけるのはきっとそんな細やかな努力の成果だろう。祖母は母と違って繊細なのだ。細やかで気遣いができる人。仮に身内でなかったとしても尊敬できる女性だと思う。
祖母の姿を横目に文章校正を始める。校正作業はプロット作りや実際の執筆よりも集中力のいる作業だ。迂闊にストーリーとして読んでしまうと目が滑るし、かといって事務的に行いすぎても文章の情緒が失われてしまう。その作業はまるで筋力トレーニングやダイエットのようだと思う。負荷を掛けすぎてもいけないし弱すぎてもいけない。
文章とは生き物だ。私はそう思う。頑丈なようで脆く、一瞬でその輝きが失われてしまう。そんな存在。
原稿用紙に赤ペンで訂正箇所を書き込んでいく。原稿用紙は赤に侵食され、用紙全体が赤く染まっていった。傷跡のように赤く。
小一時間ほど校正した。原稿用紙五枚分。良くも悪くもないペースだ。まだまだ先は長いけれど、ひとまず休憩しようと思う。
「お婆ちゃん。お水貰っていい?」
「ちょっと待ってね」
祖母はそう言うと氷入りのピッチャーからグラスに水を注いでくれた。
「ありがとう。目がしばしばするよ」
「赤入れは疲れちゃうわよね。お母さんも若い頃はそうやって原稿と睨めっこしてたわ。まぁ……。あの子はそれが生きがいみたいだからいいけどね」
「お母さんの赤入れってすごいよね! 声かけても気づかないぐらいだし……。あれくらい集中できたらいいんだけどなー」
母の校正・校閲能力は作家の中でも群を抜いていると思う。彼女は早いうちからワープロを使うようになったし、編集の人間も母が相手だと編集作業が楽なようだ。
おそらく母は、編集の人間に対して気を使っているわけではない。自己満足。それだけだと思う。母はそういう人間なのだ。結果的に他人の役に立つことはある。でもわざわざ人の役に立つための行動はしない。言葉は悪いけれど、母は完全な利己主義者なのだ。まぁ、利己主義と言っても他人に迷惑を掛ける気はあまりないので問題ないと思う。
私が休憩していると店のドアが開いた。カランという音が鳴り、見覚えのある男の子が顔を覗かせる。
「あの……。すいません」
「はーい。あ! この前の!」
そこに立っていたのは、先週にプラモデルを作っていた男の子だった。背が高い方の子ではない。普通な男の子。
「この前はどうも」
彼はそれだけ言うとバッグから小箱を取り出した。白い箱のパッケージには絆創膏のイラストが描かれている。
「別に良かったに」
「いやいや……。ちゃんとしたいからさ。返すの遅くなってごめんね」
彼は右手の人差し指で頬を掻くと、絆創膏の箱を私に差し出した。
「ありがとう。あの、良かったら何か飲んでいって!」
それから私は祖母に頼んでコーヒーを用意して貰った。祖母特製のオリジナルブレンド。
「いらっしゃい。栞ちゃんのお友達みたいだからサービスよ」
「すいません……。ありがとうございます」
彼はそう言うと珈琲にミルクと砂糖は入れた。ミルクは少し、砂糖は二粒。
改めて見る彼は本当にごく普通の少年のようだ。顔立ちは幼く、太い髪は綺麗に切りそろえられている。
「なんかごめんね。ご馳走になっちゃって」
「いいんだよ。それよりこの前は来てくれてありがとう。お盆で誰も来なかったからさ」
「そっか……。ああ、ごめん。自己紹介してなかったよね。僕は半井水貴……。キミは?」
「私は栞だよ。川村栞。歳は一四だよ」
年齢を聞いて水貴は不思議そうな顔をした。
「中二? じゃあ僕と一緒だね。どっかの私立通ってるの?」
「ううん。違うよ。先月こっちに引っ越してきたんだ。来月……。もう明明後日からだけど、瀬田中に通うんだ」
「え!? 同じ中学じゃん」
ここに住んでいるのだから当然だけれど彼と私は同じ中学校のようだ。
「みたいだね……。ほら、ここから通うなら瀬田中だしさ」
「そっか……。じゃあもしかしたら同じクラスになるかもしれないね」
彼は納得したように言うと私の手元の原稿に目をやった。
「ああ、これは私の書いた小説なんだ。まだ校正途中だから汚いけどさ」
「小説書くんだね。良かったら読ませて貰ってもいい?」
「うーん……。いいけど赤ペンだらけだから読みづらいよ?」
正直恥ずかしい。赤ペン塗れなのもそうだし、何より自分の書いた作品を面と向かって読ませるのには抵抗がある。
「いいよ。僕、小説好きなんだ」
「じゃあ……」
恥ずかしいけれど仕方ない。私は諦めて原稿をページ順に並べて彼に手渡した。
「本当に荒削りだから……。恥ずかしいよ」
「大丈夫。気にしないからさ」
彼はニッコリ笑うと真剣な表情で私の原稿用紙を読み始めた――。
文章の校閲と校正に入る。当然のように毎回、誤字脱字、表記のブレはあるので丁寧に行わなければいけない。
例えば「アカリ」という言葉一つ取っても、「明かり」「あかり」「灯り」と何パターンも表現方法はある。これに関しては文章の流れと作風によって変わるわけだけれど、私は平仮名で書いた「あかり」が気に入っている。ぼんやりとしたイメージ。優しい光。そんな感じ。
祖母は店の奥で珈琲豆の仕分けをしていた。彼女は仕入れてきた新しい豆を焙煎機から取り出すと、それをカウンターの上に並べた。香ばしい香りが店内に漂い、一気に喫茶店らしい匂いになる。
祖母は珈琲豆と茶葉の選定にはいつも気を使っていた。特に珈琲豆は念入りに行っているようで、五感を使って豆の選定を行っている。祖母の店がそれなりにやっていけるのはきっとそんな細やかな努力の成果だろう。祖母は母と違って繊細なのだ。細やかで気遣いができる人。仮に身内でなかったとしても尊敬できる女性だと思う。
祖母の姿を横目に文章校正を始める。校正作業はプロット作りや実際の執筆よりも集中力のいる作業だ。迂闊にストーリーとして読んでしまうと目が滑るし、かといって事務的に行いすぎても文章の情緒が失われてしまう。その作業はまるで筋力トレーニングやダイエットのようだと思う。負荷を掛けすぎてもいけないし弱すぎてもいけない。
文章とは生き物だ。私はそう思う。頑丈なようで脆く、一瞬でその輝きが失われてしまう。そんな存在。
原稿用紙に赤ペンで訂正箇所を書き込んでいく。原稿用紙は赤に侵食され、用紙全体が赤く染まっていった。傷跡のように赤く。
小一時間ほど校正した。原稿用紙五枚分。良くも悪くもないペースだ。まだまだ先は長いけれど、ひとまず休憩しようと思う。
「お婆ちゃん。お水貰っていい?」
「ちょっと待ってね」
祖母はそう言うと氷入りのピッチャーからグラスに水を注いでくれた。
「ありがとう。目がしばしばするよ」
「赤入れは疲れちゃうわよね。お母さんも若い頃はそうやって原稿と睨めっこしてたわ。まぁ……。あの子はそれが生きがいみたいだからいいけどね」
「お母さんの赤入れってすごいよね! 声かけても気づかないぐらいだし……。あれくらい集中できたらいいんだけどなー」
母の校正・校閲能力は作家の中でも群を抜いていると思う。彼女は早いうちからワープロを使うようになったし、編集の人間も母が相手だと編集作業が楽なようだ。
おそらく母は、編集の人間に対して気を使っているわけではない。自己満足。それだけだと思う。母はそういう人間なのだ。結果的に他人の役に立つことはある。でもわざわざ人の役に立つための行動はしない。言葉は悪いけれど、母は完全な利己主義者なのだ。まぁ、利己主義と言っても他人に迷惑を掛ける気はあまりないので問題ないと思う。
私が休憩していると店のドアが開いた。カランという音が鳴り、見覚えのある男の子が顔を覗かせる。
「あの……。すいません」
「はーい。あ! この前の!」
そこに立っていたのは、先週にプラモデルを作っていた男の子だった。背が高い方の子ではない。普通な男の子。
「この前はどうも」
彼はそれだけ言うとバッグから小箱を取り出した。白い箱のパッケージには絆創膏のイラストが描かれている。
「別に良かったに」
「いやいや……。ちゃんとしたいからさ。返すの遅くなってごめんね」
彼は右手の人差し指で頬を掻くと、絆創膏の箱を私に差し出した。
「ありがとう。あの、良かったら何か飲んでいって!」
それから私は祖母に頼んでコーヒーを用意して貰った。祖母特製のオリジナルブレンド。
「いらっしゃい。栞ちゃんのお友達みたいだからサービスよ」
「すいません……。ありがとうございます」
彼はそう言うと珈琲にミルクと砂糖は入れた。ミルクは少し、砂糖は二粒。
改めて見る彼は本当にごく普通の少年のようだ。顔立ちは幼く、太い髪は綺麗に切りそろえられている。
「なんかごめんね。ご馳走になっちゃって」
「いいんだよ。それよりこの前は来てくれてありがとう。お盆で誰も来なかったからさ」
「そっか……。ああ、ごめん。自己紹介してなかったよね。僕は半井水貴……。キミは?」
「私は栞だよ。川村栞。歳は一四だよ」
年齢を聞いて水貴は不思議そうな顔をした。
「中二? じゃあ僕と一緒だね。どっかの私立通ってるの?」
「ううん。違うよ。先月こっちに引っ越してきたんだ。来月……。もう明明後日からだけど、瀬田中に通うんだ」
「え!? 同じ中学じゃん」
ここに住んでいるのだから当然だけれど彼と私は同じ中学校のようだ。
「みたいだね……。ほら、ここから通うなら瀬田中だしさ」
「そっか……。じゃあもしかしたら同じクラスになるかもしれないね」
彼は納得したように言うと私の手元の原稿に目をやった。
「ああ、これは私の書いた小説なんだ。まだ校正途中だから汚いけどさ」
「小説書くんだね。良かったら読ませて貰ってもいい?」
「うーん……。いいけど赤ペンだらけだから読みづらいよ?」
正直恥ずかしい。赤ペン塗れなのもそうだし、何より自分の書いた作品を面と向かって読ませるのには抵抗がある。
「いいよ。僕、小説好きなんだ」
「じゃあ……」
恥ずかしいけれど仕方ない。私は諦めて原稿をページ順に並べて彼に手渡した。
「本当に荒削りだから……。恥ずかしいよ」
「大丈夫。気にしないからさ」
彼はニッコリ笑うと真剣な表情で私の原稿用紙を読み始めた――。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密
まさき
青春
俺は今、東大院生の実験対象になっている。
ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。
「家庭教師です。住まわせてください」
突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。
桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。
偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。
咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。
距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。
「データじゃなくて、私がそう思っています」
嘘をついているような顔じゃなかった。
偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。
不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる