悪魔の手の中 改訂版

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前編

寄り添い合う傷跡

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しゃがみ込んで丸まっていた体が不意に衝撃を受け、ぐらりと崩れる。
冷たい床に手をついたが、そのまま項垂れるようにその場に倒れ込んだ。

「え、うわっ、ごめん!大丈夫?」

すっかり聞き慣れた声が頭上から降ってきて、なぜこんな最悪なタイミングで次々と自分を知っている人が現れるんだろうと思ってしまう。

「って、早川?大丈夫かよっ!!」

保健室で吐いたまま拭う気力もなく、口の隅から垂れ続けていた胃液が顎を伝い、床へポタポタと落ちる。

俺を覗き込んだその水瀬の端正な顔立ちが、一瞬、ひどくショックを受けたように強張った。

「凌吾が落ちついたから心配ないっつってたのに…、どうなってんだよっ、」

切羽詰まりながら水瀬はくだけた口調で言うと、迷わず背中をこちらに向け、俺を背負おうと腕を伸ばしてきた。

その腕に掴まれて力の抜けた体がゆらりと揺れる。
そのまま水瀬の硬くて広い背中に垂れかかった。

「すぐにまた保健室に運んでやるから。揺れて気分悪りぃだろうけど……」

朦朧としかけた意識の中、水瀬の声がやけに響いた。保健室という言葉に苗代の顔がはっきりと浮かび上がってきて、尽きたはずの力を無理矢理振り絞って抵抗する。

「ちょっ!早川、なにやってーー!」

前屈みのしゃがみ込んだ体制で俺の体の重みを背負った水瀬は、大きくバランスを崩した。

だが、倒れ込む寸前でサッカー部で鍛えた反射神経なのか咄嗟に体の向きを変え、俺を引き寄せてかばいながら床に倒れた。

次の瞬間、水瀬の頭がゴンッと床にぶつかる鈍い音が聞こえた。

「い゛っ、てえー!」

引き締まった筋肉質な胸に抱えられる中、呻き声が耳に届く。

「っ、早川…怪我、してねぇ?
…それどころじゃねぇか。待ってろ。すぐ運ぶから。」

水瀬はすぐに気を取り直し、いつもより弱々しい声だったが心配そうにそう俺に声をかけた。

完全に力尽きて、水瀬の胸元に突っ伏してぐったりしたままの俺の肩に温かな手が触れる。

「大丈夫、俺が助けてやっから。もう、早川のこと誰にも傷つけさせねぇように、俺が守るから安心してろ。」

声を振り絞るようにして、力強く言ったその言葉にこもった優しさに涙腺が緩んでしまう。

なんで水瀬はたいして仲良くもない、こんな俺に無情権で優しくしてくれるんだろう。

俺は昨日の薄暗い昇降口で、水瀬にも心の脆さがあることを知って、どうしようもなくなって逃げ出してしまったのに……。


ふと、水瀬のこれまでの言葉が頭をよぎる。

―俺を馬鹿にするのは良いけど、俺の友達が傷つくことを言うのはやめてくんない?
―俺が言いたいのは、早川の味方だってこと。いつでも頼れよ。
―教えてくんなきゃ、守れないだろ。今回は、黙ってられねーわ。
―…早川、ごめん。俺…、早川が誰かに傷つけられてんのに見過ごせるわけなくて…。


彼の優しさはいろんな形をしていたけれど、いつも俺を傷つけるものから守ろうとしてくれていた。

泣き腫らして、乾いたはずの瞼にじわじわと涙が滲み出てくる。

「っ、…うっ……う゛っ……」
「早川……?」

胸の中で情けなく肩を震わせ嗚咽を漏らす俺に反応して、水瀬の声は一気に不安げに揺れた。

「やっぱ、どっか怪我したっ?
痛ぇの?体つらいだろうけど…何か言ってくれよ!
じゃねぇと、俺っ…、」

その声は焦ったようにまくし立てる。
肩に触れた手には、わずかに力が込められた。

俺はそれを振り払うように震える腕を奮い立たせ、水瀬の胸に腕をついた。

やっと、水瀬の切れ長の瞳と視線が合った。

ボタボタと止めどなく溢れ出る涙が、その凛とした顔立ちに落ちていく。

「俺、どう…したら……」

呆然としたように水瀬は俺の顔を見つめながら、言葉を途切れさせた。


『お前だって楽しんでんだろ、ビッチ。
もう被害者ぶって、水瀬にも、あのでけーのにも泣きつけねぇな。』


思い返した三好の言葉が、俺のズタズタに壊れた心を腐らせるように急速に蝕む。

水瀬だけじゃない楓にだって、もう、優しくされる資格は俺にはない。

なのに、それでも、目の前の曇りのない真っ直ぐな優しさに縋りたくなった。

「……た、助け……っ、たすけてっ、」

初めて声にして誰かに救いを求めた瞬間だった。

水瀬はその言葉を聞いた途端、苦しげに眉間に皺を寄せて、まるで自分が傷ついているかのように痛々しい表情を浮かべた。

しかしすぐに表情は強く勇ましいものに変わり、黒い瞳は意思の強さをたたえ、確かな決意を語っていた。

「…わかった。俺が、ぜってえ、早川のこと何があっても守るから。
だから、俺のこといつでも頼ってくれよ。

いや、頼れ。」

そう言って水瀬は逞しい腕でいとも簡単に俺の体を引き寄せると、自分の額に俺の額をぶつけた。

俺の涙で濡れることなど、全く臆する様子はなかった。

「また走って逃げたりしたら、早川でも許さねーから。わかった?」

それを聞いて、平気そうにしていた水瀬も昨日の昇降口での出来事を気にしていたのだと知った。

少し拗ねたような口調だったが、どこまでも柔らかな包み込むような声色をしていた。

肯定を示すように至近距離で見つめ返すと、水瀬はふわりと俺をその胸の中で抱きしめた。

水瀬の腕の中には卑しさも下心も一切混じっていないように思えた。
そこにはこれまで感じたことのない優しさが満ちていた。
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