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屋根を叩く雨音が、古びた日本家屋の中に反響している。
築五十年。祖父母が遺してくれたこの家は、隙間風こそ吹くものの、柱は太くしっかりとしていて、何より僕の疲弊した心を包み込んでくれるような懐かしさがあった。
「……よし、台所はこんなもんかな」
雑巾をバケツですすぎながら、僕は独り言をいった。
僕の名前は、佐伯湊。二十七歳。
一週間前まで、都内の広告代理店で馬車馬のように働いていた。終電帰りは当たり前、休日もチャットツールの通知音に怯え、上司のパワハラと理不尽なクライアントの板挟みになる日々。
ある朝、駅のホームで電車を待っているとき、ふと「あ、もう無理だ」と思った。涙も出なかった。ただ、心がプツンと音を立てて切れたのがわかった。
そのまま会社に辞表を郵送し、スマホの電源を切り、必要最低限の荷物を持ってこの田舎町へ逃げてきたのだ。
「誰にも邪魔されず、野菜を育てて、本を読んで、寝たい時に寝る。最高じゃないか」
冷たい井戸水で顔を洗う。鏡に映る顔はまだ少しやつれているけれど、目の下のクマはだいぶ薄くなっていた。
今日は朝からあいにくの土砂降りだけれど、今の僕には「出勤しなくていい雨の日」というだけで、極上の贅沢に感じられる。
温かいお茶でも淹れようか。そう思ってやかんに火をかけた時だった。
――ドスン。
裏口の方で、重たい何かが落ちるような音がした。
風で何かが飛んできたのだろうか。古い家だ、瓦が落ちたのかもしれない。
少しの不安を覚えつつ、僕は勝手口のサンダルを突っかけて、傘を差して外に出た。
「うわ、すごい雨……」
視界が白むほどの雨足だ。裏庭の草木が風に煽られてざわめいている。
僕は軒下を伝いながら、物音がした裏手の林との境界付近へと向かった。
そこで、息を呑んだ。
「……嘘だろ」
そこには、泥と血にまみれた「何か」が倒れていた。
最初は大型犬かと思った。いや、熊かもしれないと身構えた。
けれど、目を凝らしてみれば、それは明らかに規格外の大きさだった。うずくまった状態でも軽自動車くらいの質量がある。
濡れた毛並みは泥で汚れているが、ところどころ覗く銀色は、暗い雨空の下でも不思議なほど発光して見えた。
狼だ。それも、ファンタジー映画に出てくるような、巨大な銀色の狼。
常識で考えれば、即座に逃げて警察か猟友会に通報するべき案件だ。
足が震えた。食われる、と思った。
けれど、僕はその場から動けなかった。
『グルゥ……』
狼が、苦しげな唸り声を漏らしたからだ。
その腹部には、ぱっくりと開いた傷口が見えた。赤い鮮血が、雨水に混じって地面に広がっていく。
弱々しく上下する腹。閉じられた瞼。どう見ても瀕死だった。
「……ここで見捨てたら、夢見が悪いよな」
僕が会社を辞めたのは、自分が壊れる前に逃げたかったからだ。自分の命を守るための選択だった。
だからこそ、目の前で消え入りそうな命を、無視することができなかったのかもしれない。
それに不思議と、その銀色の獣からは、恐ろしさよりも神々しさが漂っていた。
僕は意を決して、納屋からブルーシートと、祖父が使っていた荷運び用の台車を引きずり出した。
慎重に近づく。獣の匂いというより、雨と森の匂いがした。
そっと背中に触れる。びくり、と巨大な体が震えたが、反撃してくる力は残っていないようだ。
「大丈夫、大丈夫だよ。何もしないから」
震える声でそう話しかけながら、僕は必死で巨体をブルーシートに乗せ、台車へと引き上げた。二十七歳成人男性の全力を出しても腰が抜けそうなくらい重かったが、火事場の馬鹿力というやつだろうか、なんとか土間まで運び込むことができた。
土間のひんやりとした空気の中、改めてその姿を見る。
大きい。僕が寝転がっても、この背中には収まりきらないだろう。
そして、美しい。
泥だらけなのに、その毛並みは濡れた絹糸のように艶やかだった。
「さて、どうしたもんか……」
動物病院に連れて行けるサイズではないし、そもそもこんな正体不明の生物を診てくれる医者がいるとは思えない。
僕は自分の救急箱と、タオルをありったけ持ってきた。
まずは傷口の泥を落とさなければ。
ぬるま湯を含ませたタオルで、傷の周りを優しく拭う。
「……っぅ……」
獣が小さく声を漏らす。痛いのだろう。
「ごめんね、痛いよね。すぐ終わるから」
子供をあやすように声をかけながら、僕は作業を続けた。
泥を拭き取ると、傷は思ったよりも深かったが、致命傷ではなさそうだった。人間用の消毒液と化膿止めが効くかは賭けだったが、塗らないよりはマシだろう。
傷口を清潔なガーゼで覆い、包帯をこれでもかと巻き付けた。
処置が終わる頃には、僕も汗と泥でぐしゃぐしゃになっていた。
ふう、と息をついて、狼の顔を見る。
苦悶の表情は消え、今は浅いながらも安定した寝息を立てていた。
「……綺麗な顔してるな」
マズルは長く、耳はピンと立っている。閉じたまつ毛が驚くほど長い。
僕は衝動を抑えきれず、そっとその耳の付け根あたりに触れた。
ふわり。
指先が埋もれるほどの、極上の毛量。
表面は水を弾いて少し硬いのに、内側の毛は羽毛のように柔らかく、温かい。
これが、俗に言う「モフモフ」というやつか。
会社のデスクで、癒やし動画を見ては憧れていた極上の感触が、今ここにある。
「すごい……ふわふわだ……」
恐怖心などどこへやら、僕は無心でその銀色の毛並みを撫でていた。首元、背中、そして前足。泥で汚れている部分を蒸しタオルで拭いてやりながら、乾いた部分に顔を埋めたい衝動と戦う。
大型犬特有の獣臭さがない。むしろ、雨上がりの森のような、清浄な香りがする。
その時だった。
撫でていた手が、ふいにピクリと動いた前足に止められた。
ハッとして顔を上げると、狼が目を開けていた。
息を呑むほどに美しい、黄金色の瞳だった。
融解した金のような、あるいは夜空に浮かぶ月のような、神秘的な光を宿した瞳が、至近距離で僕を捉えている。
食べられる。
本能がそう警鐘を鳴らした。
けれど、狼は暴れることも、牙を剥くこともしなかった。
ただ静かに、値踏みするように僕を見つめ、それからふいっと視線を逸らした。
『……物好きな人間だ』
え?
今、頭の中に直接、低い男の声が響いたような気がした。
驚いて狼を見るが、彼は再び目を閉じ、深い眠りに落ちていこうとしているところだった。
空耳だろうか。それとも疲れすぎて幻聴でも聞こえたか。
どちらにせよ、この巨大な同居人が目を覚ますまでは、僕もここを動けないだろう。
「風邪、引かないでくれよ」
僕は自分用の毛布を持ってくると、銀色の大きな背中にふわりとかけてやった。
狼の耳が、ぴくりと一度だけ動いた気がした。
外の雨はまだ降り続いているけれど、土間の中は獣の体温で、不思議と温かかった。
築五十年。祖父母が遺してくれたこの家は、隙間風こそ吹くものの、柱は太くしっかりとしていて、何より僕の疲弊した心を包み込んでくれるような懐かしさがあった。
「……よし、台所はこんなもんかな」
雑巾をバケツですすぎながら、僕は独り言をいった。
僕の名前は、佐伯湊。二十七歳。
一週間前まで、都内の広告代理店で馬車馬のように働いていた。終電帰りは当たり前、休日もチャットツールの通知音に怯え、上司のパワハラと理不尽なクライアントの板挟みになる日々。
ある朝、駅のホームで電車を待っているとき、ふと「あ、もう無理だ」と思った。涙も出なかった。ただ、心がプツンと音を立てて切れたのがわかった。
そのまま会社に辞表を郵送し、スマホの電源を切り、必要最低限の荷物を持ってこの田舎町へ逃げてきたのだ。
「誰にも邪魔されず、野菜を育てて、本を読んで、寝たい時に寝る。最高じゃないか」
冷たい井戸水で顔を洗う。鏡に映る顔はまだ少しやつれているけれど、目の下のクマはだいぶ薄くなっていた。
今日は朝からあいにくの土砂降りだけれど、今の僕には「出勤しなくていい雨の日」というだけで、極上の贅沢に感じられる。
温かいお茶でも淹れようか。そう思ってやかんに火をかけた時だった。
――ドスン。
裏口の方で、重たい何かが落ちるような音がした。
風で何かが飛んできたのだろうか。古い家だ、瓦が落ちたのかもしれない。
少しの不安を覚えつつ、僕は勝手口のサンダルを突っかけて、傘を差して外に出た。
「うわ、すごい雨……」
視界が白むほどの雨足だ。裏庭の草木が風に煽られてざわめいている。
僕は軒下を伝いながら、物音がした裏手の林との境界付近へと向かった。
そこで、息を呑んだ。
「……嘘だろ」
そこには、泥と血にまみれた「何か」が倒れていた。
最初は大型犬かと思った。いや、熊かもしれないと身構えた。
けれど、目を凝らしてみれば、それは明らかに規格外の大きさだった。うずくまった状態でも軽自動車くらいの質量がある。
濡れた毛並みは泥で汚れているが、ところどころ覗く銀色は、暗い雨空の下でも不思議なほど発光して見えた。
狼だ。それも、ファンタジー映画に出てくるような、巨大な銀色の狼。
常識で考えれば、即座に逃げて警察か猟友会に通報するべき案件だ。
足が震えた。食われる、と思った。
けれど、僕はその場から動けなかった。
『グルゥ……』
狼が、苦しげな唸り声を漏らしたからだ。
その腹部には、ぱっくりと開いた傷口が見えた。赤い鮮血が、雨水に混じって地面に広がっていく。
弱々しく上下する腹。閉じられた瞼。どう見ても瀕死だった。
「……ここで見捨てたら、夢見が悪いよな」
僕が会社を辞めたのは、自分が壊れる前に逃げたかったからだ。自分の命を守るための選択だった。
だからこそ、目の前で消え入りそうな命を、無視することができなかったのかもしれない。
それに不思議と、その銀色の獣からは、恐ろしさよりも神々しさが漂っていた。
僕は意を決して、納屋からブルーシートと、祖父が使っていた荷運び用の台車を引きずり出した。
慎重に近づく。獣の匂いというより、雨と森の匂いがした。
そっと背中に触れる。びくり、と巨大な体が震えたが、反撃してくる力は残っていないようだ。
「大丈夫、大丈夫だよ。何もしないから」
震える声でそう話しかけながら、僕は必死で巨体をブルーシートに乗せ、台車へと引き上げた。二十七歳成人男性の全力を出しても腰が抜けそうなくらい重かったが、火事場の馬鹿力というやつだろうか、なんとか土間まで運び込むことができた。
土間のひんやりとした空気の中、改めてその姿を見る。
大きい。僕が寝転がっても、この背中には収まりきらないだろう。
そして、美しい。
泥だらけなのに、その毛並みは濡れた絹糸のように艶やかだった。
「さて、どうしたもんか……」
動物病院に連れて行けるサイズではないし、そもそもこんな正体不明の生物を診てくれる医者がいるとは思えない。
僕は自分の救急箱と、タオルをありったけ持ってきた。
まずは傷口の泥を落とさなければ。
ぬるま湯を含ませたタオルで、傷の周りを優しく拭う。
「……っぅ……」
獣が小さく声を漏らす。痛いのだろう。
「ごめんね、痛いよね。すぐ終わるから」
子供をあやすように声をかけながら、僕は作業を続けた。
泥を拭き取ると、傷は思ったよりも深かったが、致命傷ではなさそうだった。人間用の消毒液と化膿止めが効くかは賭けだったが、塗らないよりはマシだろう。
傷口を清潔なガーゼで覆い、包帯をこれでもかと巻き付けた。
処置が終わる頃には、僕も汗と泥でぐしゃぐしゃになっていた。
ふう、と息をついて、狼の顔を見る。
苦悶の表情は消え、今は浅いながらも安定した寝息を立てていた。
「……綺麗な顔してるな」
マズルは長く、耳はピンと立っている。閉じたまつ毛が驚くほど長い。
僕は衝動を抑えきれず、そっとその耳の付け根あたりに触れた。
ふわり。
指先が埋もれるほどの、極上の毛量。
表面は水を弾いて少し硬いのに、内側の毛は羽毛のように柔らかく、温かい。
これが、俗に言う「モフモフ」というやつか。
会社のデスクで、癒やし動画を見ては憧れていた極上の感触が、今ここにある。
「すごい……ふわふわだ……」
恐怖心などどこへやら、僕は無心でその銀色の毛並みを撫でていた。首元、背中、そして前足。泥で汚れている部分を蒸しタオルで拭いてやりながら、乾いた部分に顔を埋めたい衝動と戦う。
大型犬特有の獣臭さがない。むしろ、雨上がりの森のような、清浄な香りがする。
その時だった。
撫でていた手が、ふいにピクリと動いた前足に止められた。
ハッとして顔を上げると、狼が目を開けていた。
息を呑むほどに美しい、黄金色の瞳だった。
融解した金のような、あるいは夜空に浮かぶ月のような、神秘的な光を宿した瞳が、至近距離で僕を捉えている。
食べられる。
本能がそう警鐘を鳴らした。
けれど、狼は暴れることも、牙を剥くこともしなかった。
ただ静かに、値踏みするように僕を見つめ、それからふいっと視線を逸らした。
『……物好きな人間だ』
え?
今、頭の中に直接、低い男の声が響いたような気がした。
驚いて狼を見るが、彼は再び目を閉じ、深い眠りに落ちていこうとしているところだった。
空耳だろうか。それとも疲れすぎて幻聴でも聞こえたか。
どちらにせよ、この巨大な同居人が目を覚ますまでは、僕もここを動けないだろう。
「風邪、引かないでくれよ」
僕は自分用の毛布を持ってくると、銀色の大きな背中にふわりとかけてやった。
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