銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

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 チュン、チュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。
 まぶたの裏を感じる明るさに、僕はゆっくりと目を開けた。

「……朝か」

 昨夜の豪雨が嘘のように、窓の外からは爽やかな朝の光が差し込んでいた。
 古民家特有の湿った土の匂いと、雨上がりの草いきれが混ざり合った、懐かしい夏の匂いがする。
 僕は煎餅布団から体を起こし、大きく伸びをした。久しぶりに深く眠れた気がする。会社にいた頃は、朝が来るのが絶望でしかなかったけれど、今はただ「起きる」という行為が心地いい。

「あ……そうだ、狼!」

 寝ぼけた頭が一気に覚醒した。
 僕は慌ててサンダルを突っかけ、土間へと走った。
 ひんやりとした土間には、昨夜敷いたブルーシートが残されていた。
 けれど、その上に鎮座していたはずの巨大な銀色の毛玉は、どこにもいなかった。
 僕がかけてやった毛布だけが、乱雑に床に落ちている。

「……いなくなってる」

 呆然と呟く声が、静かな家の中に吸い込まれていく。
 あんな重傷を負っていたのに、一晩で動けるようになったのだろうか。
 土間の入り口、引き戸が少しだけ開いている。そこから出ていったに違いない。
 安堵と同時に、胸の奥がきゅっと窄まるような寂しさを感じた。
 あの圧倒的な存在感、そして何より、あの極上の手触り。
 たった一晩の、それも手当をしただけの関係だ。野生動物が人間に懐くわけもないし、元気になったのならそれが一番いい。わかってはいるけれど、あの温もりが消えてしまった喪失感は意外と大きかった。

「……ま、仕方ないか。僕も朝飯にしよう」

 気持ちを切り替えるように頬を叩き、僕は台所へ向かった。
 気を取り直して、丁寧な朝食を作ろう。
 鍋に湯を沸かし、煮干しで出汁を取る。トントントン、とまな板を叩く包丁の音が心地いい。
 今日の味噌汁の具は、近所の農家のお婆さんにお裾分けしてもらった大根と油揚げだ。炊きたての白米の香りが湯気と共に立ち上り、部屋を満たしていく。
 一汁一菜。質素だけれど、丁寧な食事。
 これこそが、僕が求めていたスローライフだ。狼のことは忘れよう。あれはきっと、都会の疲れが見せた一夜の幻だったんだ。
 そう自分に言い聞かせて、味噌汁の味見をしようとした時だった。
 ――ガラリ。
 玄関の引き戸が、無遠慮に開け放たれる音がした。

「え?」

 心臓が跳ね上がった。
 この村に知り合いはいない。近所の人なら声をかけてくるはずだし、泥棒にしては堂々としすぎている。
 まさか、昨日の狼が仲間を連れて戻ってきたのか? それとも熊か?
 僕は護身用になりそうなすりこぎ棒を片手に、恐る恐る土間の方へと顔を出した。

「あ、あの……どなたです……か……?」

 言葉は、尻すぼみに消えた。
 そこに立っていたのは、熊でも狼でも、近所のお爺ちゃんでもなかったからだ。
 そこにいたのは、人間離れした美貌を持つ、長身の男だった。
 年齢は僕と同じくらいか、少し若いくらいだろうか。
 背丈は一八五センチ以上ありそうだ。引き締まった筋肉が薄い皮膚の下で躍動しているのがわかる、彫刻のような肉体美。
 腰まで届く長い髪は、窓から差し込む陽光を受けてプラチナシルバーに輝き、切れ長の瞳は、溶かした黄金のように怪しく光っている。
 息を呑むほどに美しい。
 けれど、今の状況で僕が一番気になったのは、そこではなかった。
 彼が、全裸だということだ。
 正確には、腰に僕の毛布を巻き付けているだけの、ほぼ全裸。
 鍛え上げられた胸板も、割れた腹筋も、しなやかな四肢も、すべてが露わになっている。

「……へ、んたい……?」

 僕が思わず漏らした言葉に、男の眉がぴくりと動いた。
 彼は土足のまま――いや、裸足のまま、土間から板張りの廊下へと悠然と上がってきた。

「うわっ、ちょ、ちょっと! 上がらないでください! 警察呼びますよ!?」

 僕がすりこぎ棒を構えて後ずさると、男は呆れたように鼻を鳴らした。

「騒がしいな」

 低く、腹の底に響くようなバリトンボイス。
 その声を聞いた瞬間、僕は昨夜の記憶がフラッシュバックした。
 あの時、頭の中に直接響いてきた声と、まったく同じ響きだったからだ。

「え……まさか」

 男は僕の目の前まで歩み寄ると、興味深そうに僕の顔を覗き込んだ。
 黄金の瞳が、至近距離で僕を射抜く。
 その圧倒的な迫力と美しさに、僕は身動きが取れなくなった。

「昨晩は世話になったな、人間」
 男はそう言うと、腰に巻いていた毛布がずり落ちそうになるのを無造作に押さえた。その拍子に、脇腹のあたりが見える。
 そこには、僕が昨日、必死になって巻いた包帯が巻かれていた。白いガーゼには、まだ少し血が滲んでいる。

「お前……昨日の、狼?」
「いかにも。我が名はリュカ」

 男――リュカは、長い銀髪をかき上げながら、尊大な態度でふんぞり返った。
 風呂上がりのような色気と、王様のような威圧感。
 どこからどう見ても不審者なのに、なぜか神々しさすら感じてしまう。

「ま、待ってくれ。狼が人間になったってことか? そんなの、物語の中だけの話じゃ……」
「フン、人間の常識で我を測るな。我は誇り高き銀狼族の長だ。この程度の変化、造作もない」

 リュカは事もなげに言うと、鼻をひくつかせた。
 その視線が、台所の鍋に向けられる。

「……いい匂いがするな。それはなんだ?」
「え? あ、味噌汁だけど……」
「ミソシルか。知らぬ名だが、食えるのか?」
「食えるけど……って、ちょっと待って! 情報量が多すぎて処理しきれない!」

 僕はこめかみを押さえた。
 巨大な狼を拾ったと思ったら、翌朝には全裸のイケメンになっていて、しかも偉そうで、その上朝ごはんを要求されている。
 スローライフどころか、とんでもない非日常が転がり込んできた。
 リュカは僕の混乱など意に介さず、勝手にちゃぶ台の前に座り込んだ。
 長い足を持て余すように組んで、こちらを見上げる。

「腹が減った。我を助けた責任を取って、飯を寄越せ」
「……責任って」
「助けたからには、完治するまで面倒を見るのが道理だろう? それとも、傷ついた我をこのまま放り出すほど、お前は薄情な男なのか?」

 黄金の瞳が、意地悪く細められる。
 昨夜の弱々しい姿はどこへやら、今の彼は生命力と、そして何より「面倒くさそうな気配」に満ち溢れていた。
 でも、その腹部の包帯を見ると、突き放すこともできない。

「……はぁ。わかったよ」

 僕は観念して、お椀をもう一つ棚から取り出した。
 
「とりあえず服を着てくれ。目のやり場に困る」
「服? ああ、人間の皮か。窮屈で好かん」
「皮じゃない、布だ! 僕のスウェット貸すから、それ着て!」

 こうして、僕の静かな田舎暮らしは、謎の神獣によって、わずか二日目にして粉砕されたのだった。
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