銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

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 老婆の家は、昔話に出てくるような古い日本家屋だった。
 土間があり、板の間があり、その奥には囲炉裏が切ってある。
 パチパチと薪が燃える音と、鍋から立ち上る湯気。その懐かしく温かい光景に、張り詰めていた神経がふっと緩んだ。

「さあさあ、汚いところで悪いけど、あがんなさいな」
「ありがとうございます。……お邪魔します」

 僕はリュカの手を引いて、板の間に上がった。
 リュカは珍しそうにキョロキョロと室内を見回している。ブカブカの服を引きずりながら歩く姿は、どう見ても愛らしい「弟」にしか見えない。

「ひどい怪我だねえ。ちょっと待ってな、薬を持ってくるから」

 老婆は奥の部屋へ行くと、軟膏と清潔な晒を持って戻ってきた。
 手慣れた手つきで僕の腕の傷を手当てしてくれる。

「痛むかい?」
「いえ、大丈夫です。……本当に助かります」
「なんの。こんな山奥に若者が二人、放っておけないよ」

 老婆は優しく笑うと、今度はリュカの方を見た。

「坊やも、怪我はないかい? お兄ちゃんとは随分歳が離れてるねえ」
「……」

 リュカが不機嫌そうに口を尖らせる。自分が「坊や」呼ばわりされたことが不服なのだ。
 僕は慌ててフォローに入った。

「あ、あはは。えっと、恥ずかしがり屋なもので。怪我はないです。ただ、ちょっとお腹が空いてて」
「おやおや、それは大変だ。今、雑炊を作ってあげるからね」

 老婆は囲炉裏の鍋をかき混ぜ、手早く食事の支度をしてくれた。
 キノコと山菜がたっぷり入った雑炊。
 一口食べると、素朴で優しい味が身体の芯まで染み渡った。

「……うまい」

 リュカも小さな手で匙を持ち、フウフウと冷ましながら食べている。
 その横顔を見ながら、僕は胸が締め付けられるような思いがした。
 彼は神獣だ。本来なら、こんな人間の家の古びた椀で食事をするような存在じゃない。
 それなのに、彼は文句ひとつ言わず、僕と一緒にいてくれる。

(守らなきゃ)

 改めて、強く思った。
 この小さな身体を。誇り高い魂を。僕が守らなきゃいけないんだ。
 食後、僕たちは囲炉裏のそばで温かいお茶をいただいていた。
 老婆は「おうめさん」という名前だった。一人暮らしで、時々山に入っては山菜やキノコを採って暮らしているという。

「それで? あんたたち、本当は何から逃げてるんだい?」

 お梅さんが、お茶をすすりながら唐突に切り出した。
 僕はドキリとして顔を上げる。

「え、いや、逃げてるなんて……」
「伊達に長く生きてないよ。その怪我、ただ転んだだけじゃないだろう? それに、その子の目……ただの子供の目じゃない」

 お梅さんの穏やかな目が、全てを見透かすように僕たちを見ていた。
 リュカが警戒して身を硬くする。
 僕は迷った末に、嘘をつくのをやめた。

「……詳しいことは言えません。でも、僕たちは追われています。理不尽な人たちに」
「そうかい。……世の中、理不尽なことばかりだねえ」

 お梅さんは深く追求しなかった。ただ、薪を一本くべて、火を強くしただけだった。

「ここはあたしの城だ。客人の安全くらい、あたしが守ってやるよ。今夜はここでゆっくりお休み」
「……ありがとうございます」

 人の温かさが、涙が出るほど嬉しかった。
 けれど。
 その平穏は、やはり長くは続かなかった。
 バンッ!!
 玄関の戸が、乱暴に蹴破られたような音と共に開いた。
 冷たい風と共に、土足の足音が複数、家に侵入してくる。

「おいババア! ここに怪しい二人組が来ただろう!」

 聞き覚えのある、下卑た声。
 あの武装集団のリーダーだ。
 お梅さんが驚いて立ち上がるより早く、黒いレインコートの男たちが囲炉裏のある部屋へと踏み込んできた。

「……ッ、見つけたぞ」

 リーダーの男が、僕たちを見てニヤリと笑った。
 その手には、不気味に光る銃が握られている。

「随分と手間取らせてくれたな。……おい、そっちのガキが『銀狼』か?」

 男の視線が、リュカに突き刺さる。
 やはり、彼らはリュカの正体を掴んでいる。魔力反応か何かを追ってきたのだろう。

『……貴様ら、よくも』

 リュカが立ち上がろうとする。
 小さな身体から、殺気が溢れ出す。
 ダメだ。今の彼には、まともに戦えるだけの魔力はない。無理に力を使えば、命に関わるかもしれない。
 僕はリュカの肩を押し留め、スッと立ち上がった。
 足が震える。心臓がうるさい。
 怖い。殺されるかもしれない。
 でも。

「……不法侵入ですよ。出て行ってください」

 自分でも驚くほど、低い声が出た。

「あぁ? なんだその態度は。俺たちは国の許可を得て……」
「許可があれば、民家に土足で上がり込んでいいんですか? お年寄りを脅していいんですか?」

 僕は一歩、前に出た。
 リュカを背中に隠す。

「どけ。俺たちの用があるのは、その後ろの化け物だ」

 男が銃口を向ける。
 黒い銃口が、死への入り口に見える。
 会社員時代の僕なら、ここで泣いて謝っていただろう。上司の顔色を窺い、理不尽な要求にもヘラヘラと笑って従っていた、あの頃の僕なら。
 でも、僕はもう、あの頃の僕じゃない。
 守りたいものができた人間は、強いんだ。

「化け物じゃない」

 僕は男を睨みつけた。

「彼は、僕の家族だ」
「はっ、家族だと? そのガキがか? 笑わせるな、そいつは人間に害をなす害獣だ!」
「害をなしたのはどっちだ! 先に手を出したのはそっちだろう!」

 僕の叫びに、男が一瞬たじろいだ。
 
「彼は……リュカは、僕を助けてくれた。ご飯を美味しいって食べてくれた。僕が風邪を引いた時は、一晩中看病してくれた! そんな優しい存在を、害獣だなんて呼ばせるもんか!」

 背後で、リュカが息を呑む気配がした。

「どきなさい! この子の指一本、あなたたちには触れさせない!」

 僕は両手を広げ、仁王立ちになった。
 武器なんて持っていない。ただの体の肉壁だ。
 それでも、僕は一歩も引かなかった。

「……チッ、面倒な奴だ」

 リーダーの男が舌打ちをし、銃の安全装置を外す音がカチリと響く。

「なら、お前から死ね」

 銃声が響く――そう思った瞬間。

「あんたたち、あたしの家で何してんだい!!」

 バシィッ!!
 鋭い音と共に、リーダーの男の顔が横に弾かれた。
 お梅さんだ。
 彼女はどこから取り出したのか、長い箒を構え、男の顔面をフルスイングしていたのだ。

「ぐあっ!?」
「土足で上がり込んで、客人に銃を向けるなんて! 親の顔が見たいねえ!」

 お梅さんは怒髪天を衝く勢いで、箒を振り回した。
 老婆とは思えない迫力とスピード。
 男たちが怯んだ隙に、彼女は僕たちに向かって叫んだ。

「あんたたち、今のうちに裏からお逃げ! 裏木戸を抜ければ、沢に出る道がある!」
「えっ、でもお梅さんを置いて……!」
「いいから行きな! このバカどもはあたしが相手してやる! これでも昔は『山姥』って呼ばれて恐れられてたんだ!」

 お梅さんは不敵に笑うと、再び箒を構えた。
 その背中は、どんな騎士よりも頼もしく見えた。

「……行こう、ミナト」

 リュカが僕の手を引いた。
 彼の瞳は、強い意志で輝いている。

「この借りは、必ず返す。……今は、生き延びることが先決だ」
「……っ、うん!」

 僕はリュカを抱き上げ、お梅さんに一礼すると、裏口へと走った。
 背後で男たちの怒号と、お梅さんの威勢のいい啖呵が響く。
 雨上がりの夜道を、僕は走った。
 腕の中には、温かい小さな命。
 僕が守るんだ。絶対に、彼をあんな奴らに渡しはしない。
 恐怖は消えていた。
 あるのは、燃えるような使命感と、リュカへの愛しさだけ。
 僕たちは泥を跳ね上げながら、自由への道を駆けていった。
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