双面の王子に愛されています

八百屋 成美

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 その朝、ルカの身体は鉛のように重かった。
 全身の節々が痛み、特に腰のあたりには鈍い熱が残っている。鏡を見れば、首筋にはカイが付けた赤い所有印が、白い肌に毒々しく咲き誇っていた。
 ルカは襟の高いシャツを選び、それを隠すようにしっかりとボタンを留めた。

(……仕事だ。僕は、従者なのだから)

 己に言い聞かせ、ルカはいつものように王子の寝室へと向かった。
 そこにいたのは、「いつもの」完璧な笑顔を浮かべるカイ王子だった。
「おはよう、ルカ。顔色が悪いようだが、よく眠れなかったのか?」
 白々しい。
 昨夜、あれほど獣のようにルカを貪った本人が、周囲の侍女や衛兵の前では「慈悲深い主君」の仮面を被っている。
 だが、すれ違いざま、カイは誰にも聞こえない声で囁いた。

「……夕刻になれば、俺は下がる。あとは『あいつ』の番だ。粗相のないようにな」

 ポン、と肩を叩かれる。その手は、昨夜ルカの身体を蹂躙した手だ。
 ルカは背筋が震えるのを堪え、「かしこまりました」と深く頭を下げた。



 日が落ち、城が静寂に包まれる頃。
 王子の執務室の空気が、ふわりと変わった。
 隠し扉が開く音も、足音もしなかった。だが、執務机で書類に向かっていた人物が顔を上げた瞬間、ルカはそこにいるのがカイではないことを悟った。
 同じ顔。同じ金髪に碧眼。
 けれど、その瞳の温度は永久凍土のように冷ややかだった。

「……何を呆けている」

 低く、抑揚のない声。
 裏の王子、イルスだった。
 彼は昼間のカイが座っていた豪奢な椅子には座らず、窓際の目立たない書き物机に陣取っていた。そこには、表には出せない裏帳簿や、密偵からの報告書が山積みにされている。

「申し訳ありません、イルス様。お茶をお持ちいたしました」

 ルカは銀のトレイを恭しく差し出した。
 イルスは手元の書類から目を離さず、煩わしそうに手を振る。

「そこに置いておけ。どうせカイが好む、甘ったるい紅茶だろう」
「いいえ」

 ルカは静かに否定し、カップをソーサーごと机に置いた。
 立ち上るのは、華やかな紅茶の香りではない。深く焙煎された、苦味走った豆の香りだ。

「……コーヒー?」

 イルスが訝しげに顔を上げた。
 この国では、紅茶は貴族の飲み物、コーヒーは眠気覚ましを必要とする学者や兵士が好むものとされている。優雅な王子には似つかわしくない代物だ。

「以前、お二人が密談されている際……イルス様だけは、部屋の隅にある古い水差しから水を飲んでいらっしゃいましたね」
「それがどうした」
「あの水差しの水は、氷を入れて冷やしたものではなく、常温でございました。そしてカイ様は、熱い紅茶には必ず砂糖とミルクを入れられます。……そこから推察いたしました。イルス様は、甘いものや猫舌向けのぬるいものではなく、刺激と苦味をお好みなのではないかと」

 ルカの言葉に、イルスは虚を突かれたように目を見開いた。
 しばらくルカの顔を凝視した後、彼は無言でカップを手に取った。
 カイのように三本の指ではなく、人差し指と中指の二本で、繊細にハンドルを摘む。
 一口含み、喉を鳴らす。

「…………悪くない」

 短く呟かれた言葉に、ルカは安堵の息を漏らした。
 イルスはカップを置くと、自嘲気味に口の端を歪めた。

「お前は、本当に……気味が悪いほどよく見ているな」
「恐縮です」
「褒めていない。……私のような『影』の好みなど、知ったところで何の得にもならないぞ」

 イルスの指先が、書類の束を撫でる。
 そこにあるのは、暗殺計画の阻止や、政敵の弱みの収集といった、血生臭い情報ばかりだ。

「兄上は太陽だ。皆に愛され、光の中を歩く。私はその影で、こうした汚い処理を一手に引き受ける。……存在しないはずの、忌み子だからな」

 彼の言葉には、カイへの嫉妬と、それ以上に深い諦観が滲んでいた。
 生まれた時から「いないもの」として扱われ、カイの代用品として生きることを強いられてきた人生。
 ルカは、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
 昨夜のカイの言葉が蘇る。『俺たちは二人で一人』。
 だが、目の前の青年は、たしかにここに「個」として存在し、苦悩している。

「イルス様」

 ルカは一歩踏み出し、主人の傍らに跪いた。

「太陽が輝けるのは、影があるからです。影が濃いほど、光は強く見えます。……ですが、私は知っております」
「……何をだ」
「夜の闇の中でしか、見えない光があることを」

 ルカはイルスの膝にそっと手を添えた。

「貴方様がこの国のために、誰にも知られず戦っておられることを。その孤独な強さを、私は美しいと思います」

 それは、媚びへつらいではなく、ルカの本心だった。
 ルカ自身もまた、没落貴族として日陰を歩いてきた人間だ。だからこそ、イルスの孤独が痛いほどに理解できた。
 イルスが息を呑む気配がした。
 冷たい指先が、ルカの頬に触れる。ためらいがちに、しかし確かめるように。

「……お前は、変わった奴だ。カイのような完璧な男に抱かれた後で、こんな陰気な男を美しいなどと」

 その指が、首元の襟を少しだけ押し下げた。
 そこにあるカイのキスマークが露わになる。
 イルスの瞳が、すうっと細められた。そこに宿ったのは、先ほどまでの諦めではなく、どろりと重い執着の色だった。

「……兄上の痕だ」

 イルスは親指で、その赤い痕を強く擦った。痛みを感じるほどの強さで。

「悔しいな。兄上はいつも、私の欲しいものを一番に手に入れる」
「イルス様……?」
「王位も、臣下からの信頼も、そして……お前という『理解者』も。兄上が先に味見をした」

 イルスが立ち上がり、ルカを見下ろす。
 その瞳は、もはや影のものではない。飢えた獣のような光が灯っていた。

「ルカ。お前は昨日、私と兄上を『別人に見えた』と言ったな」
「は、はい」
「ならば証明してみろ」

 イルスがルカの腕を引き、強引に立たせる。
 至近距離で見つめ合う、瓜二つの顔。だが、その切実さはカイとは全く質の異なるものだった。

「兄上と同じように、私を愛せるか? ……いや、違うな」

 イルスはルカの腰を抱き寄せ、耳元で熱っぽく囁いた。
 その声は、震えるほどに甘く、そして哀しい響きを帯びていた。

「太陽を知ってしまったお前が、この冷たい影の中でも……私だけを見て、私だけに溺れることができるか?」

 それは、問いかけという名の懇願だった。
 ルカの心臓が、早鐘を打つ。
 昨夜のカイへの恐怖と興奮とは違う。この孤独な王子を抱きしめ、その空っぽな心を満たしてあげたいという、庇護欲にも似た愛おしさが込み上げてくる。

「イルス様……私は……」

 ルカが答えようとしたその言葉を、イルスは冷ややかな指で唇を塞いで止めた。

「言葉はいらない。……場所を変えよう」

 イルスが壁の燭台を傾けると、本棚が音もなく回転し、暗い通路が口を開けた。
 そこは、王城の図面にも載っていない、影の王子のためだけの隠し部屋へと続く道。

「来い、ルカ。……今夜は、誰にも邪魔させない。お前を、私の色だけで塗り潰してやる」

 引き込まれる腕に、ルカは抗わなかった。
 影の中にこそ、本当の安らぎがあるのかもしれない。
 そう予感しながら、ルカは裏の王子と共に、深い闇の奥へと足を踏み入れた。
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