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王の崩御を告げる鐘の音が、王都から遠く離れたこの離宮にまで届いてから、すでに七日が過ぎていた。夜ごと、窓辺に降り積もる月光は、まるで雪のように冷たく、静かだった。第一王子アルフォンスは、窓枠に指をかけ、吐息で白く曇ったガラスの向こうに広がる、静寂に沈んだ庭園を眺めていた。
銀糸を溶かしたような滑らかな髪が、月光を浴びて青白く輝く。父である国王が愛したこの穏やかな離宮も、今や主を失った悲しみを湛えているように見えた。明日には王都へ戻り、次期国王を決定するための重臣会議に出席せねばならない。慣例に従えば、王位は第一王子である自分が継ぐことになる。その事実に、喜びや高揚は微塵もなく、ただ、ずしりと重い石を腹の底に沈められたような、冷たい圧迫感があるだけだった。
「私に、王など務まるのだろうか……」
誰に聞かせるでもない呟きは、しんと静まり返った部屋に虚しく響く。争いを好まず、書物を読み、絵を描くことを慰めとしてきた自分に、強大な国家を率いる力があるとは思えなかった。
脳裏に浮かぶのは、自分とは対照的な弟の姿だ。
第二王子、フランツ。
夜の闇を閉じ込めたような黒髪と、燃えるような金色の瞳。幼い頃から何事においても抜きん出て、その傲慢なまでの自信は、不思議と人々を惹きつけるカリスマとなっていた。乗馬も剣術も、そして人の心を読む術にも長けた弟。彼こそが王にふさわしいのではないか。そんな思いが、心の隅に澱のように溜まっていく。
しかし、フランツが自分に向ける、時折ぎらりと光る独占的な眼差しを思い出すたび、アルフォンスは得体の知れない恐怖に背筋が凍るのだった。あれは、弟が兄に向ける情愛の種類ではない。もっと深く、暗く、そして執拗な何かが、あの金色の瞳の奥には渦巻いていた。
翌日、重々しい空気に満ちた王城の会議室には、王国の重鎮たちが顔を揃えていた。玉座は、今はまだ空けられている。その正面に、アルフォンスとフランツは並んで席に着いていた。隣に座る弟からは、ぴんと張り詰めた弦のような気配が伝わってくる。
白髭を蓄えた宰相が、厳かな口調で口を開いた。
「先王陛下が崩御され、我らは深い悲しみにある。しかし、国に主が不在であってはならぬ。古来からの法と慣例に従い、次期国王には――」
誰もが、次に続く言葉を疑っていなかった。アルフォンスの名が呼ばれ、形式的な承認を経て、彼は新たな王となる。アルフォンスは固く目を閉じ、これから己が背負う運命を受け入れようと覚悟を決めた。
「異議がある」
凛とした、それでいて有無を言わさぬ声が、静寂を切り裂いた。
全ての視線が、声の主へと突き刺さる。ゆっくりと立ち上がったのは、フランツだった。金色の瞳が、室内にいる全ての人間を見据え、その視線だけで場の空気を支配している。
「フランツ王子……今、何と?」
宰相が戸惑いの声を上げるが、フランツは意にも介さない。彼の視線は、隣で呆然としている兄、アルフォンスへと注がれていた。
「申し上げたはずだ。異議があると」
フランツは一歩前へ進み出ると、高らかに言い放った。
「この国を導く王に、兄上はふさわしくない。優しさは美徳だが、時に国を滅ぼす毒となる。必要なのは、確固たる意志と、国を導くための力だ」
その言葉は、アルフォンスの心の最も柔らかい部分を抉った。自分自身が、ずっと抱き続けてきた不安そのものだったからだ。しかし、続く弟の言葉は、アルフォンスの思考を完全に奪い去った。
「故に、王位は私が継承する」
会議室が、蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれる。伝統を覆す暴挙だ、と叫ぶ者。フランツの言葉に、密かに賛同の光を目に宿す者。アルフォンスは、ただ唇をわななかせるばかりで、何も言うことができなかった。
フランツは、そんな兄の姿を満足げに見つめると、愕然とする重臣たちに向き直った。そして、その唇は、さらに衝撃的な言葉を紡ぎ出した。
「そして、我が兄アルフォンスには、私の妃となっていただく」
妃。その単語が意味するものを、アルフォンスは瞬時に理解できなかった。いや、脳が理解することを拒絶した。ざわめきが止まり、会議室は水を打ったように静まり返る。誰もが、第二王子の言葉の意味を測りかねていた。
「正気か、フランツ!」
アルフォンスは、ようやく絞り出した声で弟の名を呼んだ。
「何を、何を言っているのだ……! 私も、お前も、男なのだぞ!」
「それが何か?」
フランツは、心底不思議そうに首を傾げた。
「私の妃に、性別など関係ない。私が望むのは、ただ兄上が私の隣に立つこと。それだけだ」
その金色の瞳には、狂気と呼ぶべき純粋な光が宿っていた。彼は本気で言っているのだ。アルフォンスは、全身の血が凍りつくのを感じた。
フランツの言葉に同調するように、彼の派閥の貴族たちが次々と声を上げ始める。国王の不在による周辺国との緊張、国内の経済不安。今、王国に必要なのは、アルフォンス王子の優しさではなく、フランツ王子の持つ剛腕だと。いつの間にか、会議の流れは完全にフランツへと傾いていた。アルフォンスを支持するはずだった者たちも、その気迫に押され、あるいは寝返り、沈黙を守るばかりだった。
会議は、アルフォンスにとって屈辱と混乱のうちに終わった。決定が覆ることはなく、彼はなすすべもなく自室へと戻された。侍従たちの態度が、どこかよそよそしく、探るような視線を向けてくるのが分かった。もはや自分は次期国王ではなく、弟の「妃」になる者として扱われているのだ。
◇
その夜、アルフォンスは広い寝台の上で一人、身体を固くしていた。眠ることなどできそうにない。これからの自分の運命を思うと、暗い沼に沈んでいくような絶望感に襲われる。
その時だった。なんの前触れもなく、室内に置かれた燭台の炎が、ふっと揺らめいた。振り返ると、そこにはフランツが音もなく立っていた。月の光を背負い、そのシルエットはまるで闇から生まれた悪魔のようだ。
「フランツ……何の用だ」
「私の妃となる人に、夜の挨拶を、と思ってね」
軽やかな口調とは裏腹に、その金色の瞳は獲物を定める肉食獣のように鋭く光っている。フランツはゆっくりと寝台に近づき、逃げ場を失ったアルフォンスを見下ろした。
「やめろ……ふざけるのも大概にしろ! こんなこと、許されるはずがない!」
「許されるかどうかを決めるのは、これからの私だ。兄上、あなたはただ、私に愛されていればいい」
「誰がお前の妃になど……!」
抵抗の言葉は、唇を塞がれて音にならなかった。フランツはアルフォンスの腕を掴んで組み敷くと、強引にその唇を奪った。それは口づけというより、所有権を刻みつけるための儀式のように暴力的だった。
「ん……ぅ、やめ……」
苦しさに身をよじっても、鍛えられた弟の腕はびくともしない。唇をこじ開けられ、侵入してきた舌が、口腔内を蹂躙する。屈辱に涙が滲み、アルフォンスは固く目を閉じた。
長い、窒息しそうなほどの口づけが終わり、フランツがゆっくりと顔を離す。その金色の瞳が、涙で濡れた兄の顔を満足そうに眺めていた。
「これは決定事項だ。もう誰にも覆せはしない」
フランツは、繋がれたままのアルフォンスの唇を指でなぞり、恍惚と囁いた。
「あなたは私のものだ、兄上。……私の、ただ一人の妃だ」
闇に響いたその言葉は、アルフォンスの未来を縛る、甘美で残酷な呪いのように聞こえた。
銀糸を溶かしたような滑らかな髪が、月光を浴びて青白く輝く。父である国王が愛したこの穏やかな離宮も、今や主を失った悲しみを湛えているように見えた。明日には王都へ戻り、次期国王を決定するための重臣会議に出席せねばならない。慣例に従えば、王位は第一王子である自分が継ぐことになる。その事実に、喜びや高揚は微塵もなく、ただ、ずしりと重い石を腹の底に沈められたような、冷たい圧迫感があるだけだった。
「私に、王など務まるのだろうか……」
誰に聞かせるでもない呟きは、しんと静まり返った部屋に虚しく響く。争いを好まず、書物を読み、絵を描くことを慰めとしてきた自分に、強大な国家を率いる力があるとは思えなかった。
脳裏に浮かぶのは、自分とは対照的な弟の姿だ。
第二王子、フランツ。
夜の闇を閉じ込めたような黒髪と、燃えるような金色の瞳。幼い頃から何事においても抜きん出て、その傲慢なまでの自信は、不思議と人々を惹きつけるカリスマとなっていた。乗馬も剣術も、そして人の心を読む術にも長けた弟。彼こそが王にふさわしいのではないか。そんな思いが、心の隅に澱のように溜まっていく。
しかし、フランツが自分に向ける、時折ぎらりと光る独占的な眼差しを思い出すたび、アルフォンスは得体の知れない恐怖に背筋が凍るのだった。あれは、弟が兄に向ける情愛の種類ではない。もっと深く、暗く、そして執拗な何かが、あの金色の瞳の奥には渦巻いていた。
翌日、重々しい空気に満ちた王城の会議室には、王国の重鎮たちが顔を揃えていた。玉座は、今はまだ空けられている。その正面に、アルフォンスとフランツは並んで席に着いていた。隣に座る弟からは、ぴんと張り詰めた弦のような気配が伝わってくる。
白髭を蓄えた宰相が、厳かな口調で口を開いた。
「先王陛下が崩御され、我らは深い悲しみにある。しかし、国に主が不在であってはならぬ。古来からの法と慣例に従い、次期国王には――」
誰もが、次に続く言葉を疑っていなかった。アルフォンスの名が呼ばれ、形式的な承認を経て、彼は新たな王となる。アルフォンスは固く目を閉じ、これから己が背負う運命を受け入れようと覚悟を決めた。
「異議がある」
凛とした、それでいて有無を言わさぬ声が、静寂を切り裂いた。
全ての視線が、声の主へと突き刺さる。ゆっくりと立ち上がったのは、フランツだった。金色の瞳が、室内にいる全ての人間を見据え、その視線だけで場の空気を支配している。
「フランツ王子……今、何と?」
宰相が戸惑いの声を上げるが、フランツは意にも介さない。彼の視線は、隣で呆然としている兄、アルフォンスへと注がれていた。
「申し上げたはずだ。異議があると」
フランツは一歩前へ進み出ると、高らかに言い放った。
「この国を導く王に、兄上はふさわしくない。優しさは美徳だが、時に国を滅ぼす毒となる。必要なのは、確固たる意志と、国を導くための力だ」
その言葉は、アルフォンスの心の最も柔らかい部分を抉った。自分自身が、ずっと抱き続けてきた不安そのものだったからだ。しかし、続く弟の言葉は、アルフォンスの思考を完全に奪い去った。
「故に、王位は私が継承する」
会議室が、蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれる。伝統を覆す暴挙だ、と叫ぶ者。フランツの言葉に、密かに賛同の光を目に宿す者。アルフォンスは、ただ唇をわななかせるばかりで、何も言うことができなかった。
フランツは、そんな兄の姿を満足げに見つめると、愕然とする重臣たちに向き直った。そして、その唇は、さらに衝撃的な言葉を紡ぎ出した。
「そして、我が兄アルフォンスには、私の妃となっていただく」
妃。その単語が意味するものを、アルフォンスは瞬時に理解できなかった。いや、脳が理解することを拒絶した。ざわめきが止まり、会議室は水を打ったように静まり返る。誰もが、第二王子の言葉の意味を測りかねていた。
「正気か、フランツ!」
アルフォンスは、ようやく絞り出した声で弟の名を呼んだ。
「何を、何を言っているのだ……! 私も、お前も、男なのだぞ!」
「それが何か?」
フランツは、心底不思議そうに首を傾げた。
「私の妃に、性別など関係ない。私が望むのは、ただ兄上が私の隣に立つこと。それだけだ」
その金色の瞳には、狂気と呼ぶべき純粋な光が宿っていた。彼は本気で言っているのだ。アルフォンスは、全身の血が凍りつくのを感じた。
フランツの言葉に同調するように、彼の派閥の貴族たちが次々と声を上げ始める。国王の不在による周辺国との緊張、国内の経済不安。今、王国に必要なのは、アルフォンス王子の優しさではなく、フランツ王子の持つ剛腕だと。いつの間にか、会議の流れは完全にフランツへと傾いていた。アルフォンスを支持するはずだった者たちも、その気迫に押され、あるいは寝返り、沈黙を守るばかりだった。
会議は、アルフォンスにとって屈辱と混乱のうちに終わった。決定が覆ることはなく、彼はなすすべもなく自室へと戻された。侍従たちの態度が、どこかよそよそしく、探るような視線を向けてくるのが分かった。もはや自分は次期国王ではなく、弟の「妃」になる者として扱われているのだ。
◇
その夜、アルフォンスは広い寝台の上で一人、身体を固くしていた。眠ることなどできそうにない。これからの自分の運命を思うと、暗い沼に沈んでいくような絶望感に襲われる。
その時だった。なんの前触れもなく、室内に置かれた燭台の炎が、ふっと揺らめいた。振り返ると、そこにはフランツが音もなく立っていた。月の光を背負い、そのシルエットはまるで闇から生まれた悪魔のようだ。
「フランツ……何の用だ」
「私の妃となる人に、夜の挨拶を、と思ってね」
軽やかな口調とは裏腹に、その金色の瞳は獲物を定める肉食獣のように鋭く光っている。フランツはゆっくりと寝台に近づき、逃げ場を失ったアルフォンスを見下ろした。
「やめろ……ふざけるのも大概にしろ! こんなこと、許されるはずがない!」
「許されるかどうかを決めるのは、これからの私だ。兄上、あなたはただ、私に愛されていればいい」
「誰がお前の妃になど……!」
抵抗の言葉は、唇を塞がれて音にならなかった。フランツはアルフォンスの腕を掴んで組み敷くと、強引にその唇を奪った。それは口づけというより、所有権を刻みつけるための儀式のように暴力的だった。
「ん……ぅ、やめ……」
苦しさに身をよじっても、鍛えられた弟の腕はびくともしない。唇をこじ開けられ、侵入してきた舌が、口腔内を蹂躙する。屈辱に涙が滲み、アルフォンスは固く目を閉じた。
長い、窒息しそうなほどの口づけが終わり、フランツがゆっくりと顔を離す。その金色の瞳が、涙で濡れた兄の顔を満足そうに眺めていた。
「これは決定事項だ。もう誰にも覆せはしない」
フランツは、繋がれたままのアルフォンスの唇を指でなぞり、恍惚と囁いた。
「あなたは私のものだ、兄上。……私の、ただ一人の妃だ」
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