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新しい風

その三

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「随分早く歩くじゃない?」
 川瀬は息を弾ませて先を歩いていた堀江に追い付く。根田もパタパタと走って二人の元に駆け寄ったが、堀江がケータイをポケットから取り出すのに歩きを止めたので同じく足を止めた川瀬と衝突する。二人は軽く弾かれ、川瀬は肩を、根田は顎を擦っている。
「悌、ちゃんと前見てよ」
「急に止まられたら無理ですよぉ」
 根田は自身の不注意を棚に上げて先輩に口答えする。堀江はそのやり取りよりもケータイ画面の方を気にしていた。
「信君、一時に来るって言ってたよね?」
「えぇ、今何時なんです?」
「一時二十四分」
 そう言うや否や堀江は一人先に坂道をダッシュする。川瀬は反応良く付いて走り出すが根田は一歩出遅れ、待ってぇ~と言いながら付いて行く。
 堀江が真っ先に到着すると、鵜飼は待ちくたびれたと言わんばかりの表情を向けている。連絡も無く三十分も待ちぼうけを食らえば当然なのだが。
「遅い~、何してたんだべぇ~?」
「申し訳無いです。ちょっと色々ありまして」
 堀江は先程の女子高生の事に触れず、帰宅が遅れた事実にのみ詫びを入れる。二人の従業員は理由話せば良いのにと思ったが、オーナー本人にその意志が無いと見て彼らも多くは語らない。
「買い出しに手間取っちゃって。夕飯ご馳走するからそれで許してくれない?」
 川瀬が気を利かせて話題を逸らす。これが村木相手だとそうもいかないが、あまり深入りしない鵜飼はらっきぃ! とあっさり許した。
 四人は早速明日やって来る団体客に備えての仕度に取り掛かる。このメンツでの営業で十八人を相手するのは初めてという事もあり、当日は村木と叔父の赤岩、嶺山の妹雪路ユキジも手伝いに入る手筈となっている。
 四人掛かりの大準備が終わった頃には日も暮れて夜になっていた。春分もとおに過ぎて夏至が近付いているのに、北海道は日の出が早いだけに日照時間が短く感じる。
「北海道って暗くなるのが早い気がする」
「そりゃそうだべ、子午線を基準に考えれば二十五分位違うしたから」
 空を見上げながらしみじみと言う根田の隣で、鵜飼も西の空を見る。根田の出身地である横浜との時差はせいぜい五分程度なのだが、それでも山の有無や緯度の違いで感じ方も変わってくる。
 この時間になると仕事を終えた村木も合流しており、五人は『離れ』に移動して夕食を作る事にした。
「そう言えば、こうして五人で飯まくらうの久し振りでねえかい?」
「そうだね」
 営業中の時はどうしても交代制なので一人ずつの食事となるのだが、幼い頃から一人で食事を摂る事が当たり前だった堀江にとって、皆で食卓を囲むのはとても贅沢な時間に感じていた。

 翌日、午後四時を過ぎた頃に予定通り十八名の団体客がやって来る。彼らは札幌にある公立大学の自転車レース部で、男子学生十六名、監督、顧問という顔触れだった。
 その集団の先頭で入ってきた練習用のユニフォーム姿の男性が、再開を報せた葉書を持ってフロントの前に立つ。
「この度はお世話になります。公立大学自転車レース部監督の杣木ソマキと申します」
「ようこそ、お越し頂きありがとうございます。私オーナーの堀江と申します」
「堀江さんですか。随分とお若い方で驚きました。本当にリニューアルって感じですね」
 杣木光弘ミツヒロは三人の若い従業員を見て言った。
「リフォームはされてるみたいですが、所々昔の面影も残しているんですね。ところで、金碗衛さんは?」
 彼は店内を見回して衛氏の姿を探しているのか辺りをきょろきょろを見回している。堀江は三月下旬に亡くなった事を伝えると、少し寂しそうな表情を見せた。
「そうですか。八年振りの北海道生活なので、あの方とお会いするのを楽しみにしていましたが、当時で七十歳を過ぎてらしたので。さすがにラパンは死んでると思ってましたけど」
 ラパン? 堀江は初めて聞くワードに反応して尋ねる。
「昔ここで飼われていた犬の名前です、あの頃でも結構な老犬でしたから。ゴールデンレトリバーのオス犬なんですが、なまら大人しくて滅多に吠えなかったんです」
 杣木の話によると、当時は裏手の奥に犬小屋があって昼間は入口で客に愛想を振りまき、夜寝る時はそこに居たと言った。
「犬小屋でしたら近所の『DAIGO』ってレストランに移転していますよ」
「あぁあそこね、ちょっと寄ってきます」
 犬小屋の存在を知っている川瀬の返答に頷いた杣木はさっさとチェックインを済ませ、川瀬と根田が部屋に案内した。
 それから少しして彼は普段着に着替えて一階に姿を見せる。この辺りの地理は『オクトゴーヌ』の面々よりも詳しいと見えて、フロントに設置してある地図には一切目もくれなかった。
 既にカフェでくつろいでいる学生たちに夕飯まで自由行動と告げると、一人自転車に乗って街へ繰り出していった。
 
 夜になり、ひとしきり街を探索した杣木が満足そうな表情でペンションに戻る。その頃には夕食の支度も始まっており、厨房では川瀬と赤岩が仕上げに取り掛かっていた。
 カフェでは根田、村木、そして嶺山雪路が忙しく動き回り、学生たちはそれに合わせて続々とカフェのテーブルに着く。堀江が支度の出来たテーブルに料理を並べ、杣木も部屋に荷物だけ置いてから再びカフェに入った。
「監督さんはこちらへ」
 堀江は既に着席している顧問の居る奥の角の席を案内した。
「ありがとう」
 そう言ってその席に腰を下ろすと、顧問が杣木に挨拶を要求した。彼は慣れなさそうに立ち上がり、じゃちょっとだけと軽く咳払いした。
「ここは私が学生時代から実業団時代にかけてお世話になったペンションです。周辺住民の方々にも多大なご声援を頂き、短いながらも充実した選手生活を送れたと思っています。今年からはここの監督として、少しでもこの街の温かさを感じて欲しくてここを宿泊地に選びました」
 杣木は座っている学生たちを一人一人見ながら言葉を続ける。
「まぁ故郷じゃねぇしって奴も居るだろうけど、そこは監督のエゴって事で目ぇつぶっててください。それじゃ、この合宿を怪我無く乗り切りましょう」
 乾杯! 杣木がリクエストした地ビールで十八名が一斉に乾杯すると、そこからはスポーツ青年の食欲は凄かった。厨房ではおかわりの対応で支度の時以上に忙しく動き回っており、店番を従業員に任せた嶺山も手伝いにやって来た。
「お店の方は大丈夫なんですか?」
「あぁ、調理の方はとおに終わっとるから」
 得意なんはパンと菓子やねんけど。そう言いながらも厨房慣れはしていてなかなか良い動きを見せている。それを見ていた赤岩は案内したのか、ピークが過ぎると、明日も早いしたから。と村木を置いて先に帰宅した。
 その甲斐あって学生たちはご満悦な様子で、ご馳走様でしたと厨房を覗いて声を掛ける者までいた。一番最後に席を立った杣木は案内しフロントに居る堀江の所に歩み寄る。
「実はちょびっと不安だったんです、お世話になった場所とは申せど誰一人存じ上げない方々ばかりでしたので。でも安心致しました、良い合宿になりそうです。まだ二泊ありますが宜しくお願い致します」
「そう言って頂けると嬉しいです、こちらこそ精一杯の事をさせて頂きます」
 堀江はホッとした笑顔を見せ、丁寧に一礼する。すると宿泊者限定のドリンクチケットを見せ、風呂上がりに利用したいと言った。
「かしこまりました。必ず一人はここに居りますので」
 彼はそう言って了承すると、杣木は頷いてフロントから離れた。

 それから約一時間後、杣木は用意しておいたパジャマ姿でカフェにやって来た。応対したのは川瀬、堀江は食事で席を外しており、根田は夜勤に備えて仮眠を取っている。手伝いに来てくれた面々も既に帰路に着き、夕食時の賑わいから一転ひっそりと静まり返っていた。
 杣木はアイスティーを注文し、本棚から一冊のアルバムを取り出して懐かしそうに眺め始めた。川瀬はアイスティーとおからクッキーを杣木の元へと運ぶ。覗くつもりは無かったのだが、ちょうど開いていたページに小野坂が写っていたので思わずあっと声を出した。
「あぁ、最後にここへ来た年の写真です。代替わりはともかく、欲を言えばこの子には居て欲しかったなぁと思います」
 杣木は写真の中でどうにか笑顔を作っている小野坂を指差した。
「小野坂さんですね。五年前に退職されてたそうなんですが、先月訪ねに来られましたよ」
「そんな前に辞めてたんか。元気にしてたかい?」
「お元気でしたよ、一週間かけて街中を探索されてたようです。ラパンの話はその時に伺いました」
「そうかい」
 杣木は小野坂に何か思い入れがある風だったが、それについては言及しなかった。今度は衛氏の足元に大人しく座っているゴールデンレトリバーを指差して、こいつがラパンと言った。その犬はとても穏やかな表情をしており、確かに小野坂の言った通り番犬向きとは言えない老犬だ。
「そう言えば君、犬小屋の事知ってたっけね? ここにはいつ?」
「四年前です、一年半前までは『DAIGO』で働いていました。ここに写っている大体の方は存じ上げています」
「したら皆さんお元気かい?」
「えぇ。マツマルさんは一昨日倒れられたんですが、今は回復されてますよ。ヒガシカワさんはご実家に戻られて家業を継がれています。トコナミさんは去年ご結婚されて……」
 川瀬と杣木は共通の話題を見つけ、写真を肴に思い出話を始める。その頃堀江は食事を終えて戻っていたが、楽しそうにしている二人の邪魔にならぬよう事務所で待機していた。
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