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黒猫Ⅱ
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とある小さな町に黒猫のお眼鏡にかなった者だけが訪れることのできるーー不思議な店がある。
店の名は『喫茶 黒猫』
黒猫に魅入られ、その店に足を踏み入れた“客”は、珈琲代の代わりに“あるモノ”を支払うことになるーー
*
「……どうしたものかしら…」
スーパーの買い物帰り駅前広場のベンチに腰を下ろし、黒崎裕美(ひろみ)はポツリと呟いた。
すでに夕飯の買い出しは済ませているので献立に頭を悩ませているわけではない。
結婚して二十年、裕美は専業主婦として家を切り盛りしてきた。半年ほど前に一人息子が大学進学を期に家を出たため、数十年ぶりに夫婦水入らずの生活がはじまったのだが、長いこと子供を中心に生活してきて……なんというか戸惑っていた。
夫婦二人の生活になることが嫌なわけではないが、生活のリズムや会話、一日のスケジュールなど……今度は夫中心に回るのだろうか?……そんなことを考えると気持ちがモヤモヤしてしまう。だからと夫婦仲が悪いわけでは無いが、今さら結婚当時のように甲斐甲斐しくできるものでもないーーそう思っていたのだが、最近夫の様子がおかしい。元々素っ気ないタイプではあったものの、夫として父親としてはそれなりに家族を大切にしてくれていた。けれど息子が家を出ていって少ししてから帰りが遅くなりはじめ、休みの日も朝早くから出かけることが増えた。
はじめは夫も自分と同じで気まずいのだろうと裕美は思っていたのだが、どうやらそうではないらしい……。
ーー浮気!?
という二文字が頭を過ぎらなくもないが、基本真面目一辺倒の夫に限って……という思いもあった。
なにかの雑誌で真面目な人ほど……本気になりやすい。みたいな記事を読んだことがあり、ここ半年ほど頭を悩ませていた。
《ニャア~》ーー見つけた。
広場を行き交う人の波を掻き分けながら一匹の黒猫が裕美に近づいてくる。毛並みの綺麗な大切に飼われていると見受けられる猫。ビー玉みたいな大きな瞳に裕美は不思議と胸がときめいた。
「猫ちゃん迷子なの?」
足元に擦り寄ってきた黒猫をそっと抱き上げると膝の上に座らせる。お利口に膝に座る猫に裕美はフフと顔を綻ばせた。
「人懐っこい猫ね。どこから来たの?」
《ニャア》ーーついて来い。
猫は膝の上から軽やかに降りると裕美を誘うようにゆっくりと歩きはじめる。
本当ならついて行く必要もないのに、なぜか自然と体が動いて、裕美はスーパーの袋を持黒猫の後に続いた。
駅から十分ほど歩くと人通りの少ない通りに裕美は来ていた。長年この土地で暮らしているがこの辺りに来るのは初めてだった。猫は少し先のアスファルトの坂道を登り出し、ここを登るのかしら……と裕美は少し困惑する。
携帯を見ると時間は十六時を回っていて、早く帰って夕飯の支度をしなければ……と立ち止まった。
《ニャア~ニャア》
そんな裕美に黒猫は早く来いと言わんばかりに鳴く。
「どうしましょう……困ったわ」
時間的なものもあるが、ゆるやかとはいえこの坂道を上がるのは今の自分にはかなりハードな行為だ。荷物もあるし。ただ黒猫のしなやかな後ろ姿を見ている自然に足が動いて気づけば坂の上まで登っていた。
「……ふぅ、なんだか登れちゃたわね」
こんなに汗をかいたのは何年、何十年ぶりだろう……ハンカチで額の汗を拭きながら裕美は大きく息を吐いた。
「こんな場所があったなんて知らなかったわ」
《ニャア》ーーこっちだ。
「あ、どこに行くの?待って……」
少し休憩させて……と思いながら裕美は黒猫の後を追う。
「あら?猫ちゃんは……、このお店はなにかしら?」
裕美の前にはいつの間にか寂れた三角屋根と赤煉瓦の店がポツンと佇んでいて、突き出し看板がギーギーと揺れていた。
「……喫茶 黒猫、まあ……こんな所に喫茶店が」
見るからに怪しげな店で入らない方がいいと頭ではわかっているが、魅惑的な黒猫のせいか……こんな場所まで来たせいか忘れていた好奇心が顔を覗かせる。
古い扉のノブを引くとチリン……とドアベルが鳴り裕美はこんにちはと声をかけて薄暗い店内に足を踏み入れた。
「裕美!?」
すると奥から聞き慣れた声が驚きとともに聞こえてきた。
「……え!?あ、あなた?どうして、こんな所に?」
そこには会社にいるはずの夫、雄介がいた。今日は早めに仕事が終わったのだろうか?それとも体調が悪くて早退したのか?そうなら自分に連絡があるはず……と状況が把握できず裕美が困惑していると、
「いらっしゃいませ。お知り合いですか」
女性の声に裕美は我に返り慌てて向いの席に座る。
「あ……はい、主人です」
「そうなんですね、素敵な偶然ですね」
女性の言葉に二人は怪訝な顔になる。これが偶然?と思えるほど単純ではない。何か不可思議な力に引き寄せられたようにすら感じる。
「ご注文は何になさいますか」
「えっ……と、アイスコーヒーを」
「かしこまりました。ご主人様はおかわりはよろしいですか」
「……結構です」
「では、少々お待ちください」
重い沈黙が続き気まずい中、先に口を開いたのは雄介の方だった。
「話が……ある」
「……」
いきなり神妙な面持ちで言われ裕美は手を強く握りしめた。結婚して二十年……良いことも悪いことも色々あった。なんなら悪いことの方が多いだろう。喧嘩もたくさんした……離婚を考えたことが無いといえば嘘になる。
それは夫も同じかもしれないが。それでも今までやってこれたのは家族としての愛情が少なからずあったからだ。
夫は五十代であと数年で定年だ。定年になった夫に三行半を突き付ける妻は多いと聞くが、その前に夫から三行半……離婚を突き付けられるのか……そう思うと裕美は何ともいえない憤りを感じてやまななかった。
自分のこれまでの二十年……はなんだったのかと。
夫が頑張って働いてくれているから自分は専業主婦ができた。働くのが嫌なわけではないが仕事と子育てを両立できるほど器用ではないのは自分でもわかっていたから、専業主婦をさせてもらえたのは本当に有難かった。
その分、家のことや子供のことは手を抜かず一生懸命やってきたつもりだ。なのに………。
「実は……」
裕美の唇がキツく結ばれ嫌な汗が首すじをゆっくりと流れ落ちる。
「会社……リストラされた……」
「………え?」
思ってもいなかった言葉に裕美は固まった。
リス……トラ……ーー離婚の話じゃなかった?
「い、い……つ?」
「半年ほど前に……早期退職を打診されたんだ……」
夫の様子がおかしいと思いはじめた頃……。
「ど……して、話してくれなかったの?そんな大事なこと」
「浩介も大事な時だったし、一応出向って話もでていたから……はっきりしてからと思ってたんだが……結局、早期退職をせまられてしまってね……」
夫の疲れた顔……この半年、家族に言えず悩んでいたんだろう。なにも気づかなかった……夫が大変な時に。
息子のことで頭がいっぱいだったから。と言えばただの言い訳になってしまうけれど。
「失礼します。おまたせいたしました」
そっと置かれたアイスコーヒーを裕美はストローでゆっくりかき混ぜる。まるで気を紛らわせるように。
こういう時はなんて声をかけるのが正解なのか……専業主婦で長年暮らしてきた自分が大丈夫よ、なんて軽々しく口にすることなんてできない。
二人の間に流れる重たい空気の間をカランカランと氷の音が遮るように響き、それが妙に物悲しい音に聞こえる。
《ニャア~》ーーさあ、はじめよう。
「あら猫ちゃん。このお店の子だったの」
さっきの黒猫が女性の後ろから現れた。金色の射るような眼差しが二人を見つめる。黒猫のビー玉のような大きな瞳が今度は万華鏡のようにたくさんの色彩を宿しキラキラと輝き出す。気を抜くと吸い込まれてしまいそうなほどに神秘的で美しい………。
女性が「お代はけっこうです、代わりに“あるモノ”を頂きたいのです」と言った。
《ニャア~》
黒猫も女性の言葉に応えるように声高らかに鳴いた。
「”彼“は黒猫のダナ。私はアリス、彼に仕える者」 「何を言っ……て」
「あなた方が飲んだ珈琲は、あなた方の大切な思い出の味なのです」
「……はい?」
アイスコーヒーの水面が静かに揺れ店内の景色が歪みはじめる。
【あなた方のいちばん大切に思っている……記憶(おもいで)を私たちに見せて……】
ーー
ーーー
ーー結婚、してください。
ーーはい!
“プロポーズしてくれた時、本当に嬉しかった”
ーー将来……店をやりたいんだ。
“そういえば結婚前お店やりたい……って”
ーー子供が……できたの……。
ーー俺も父親かぁ~裕美と子供のために頑張るからな。
ーーお店やるのが夢なんでしょう?
ーーまあ、でもお前と子供を養うのが一番だから。
“そう……わたしたちのために夢を諦めて……”
ーーありがとう子育ても家のことも一生懸命頑張るから。
ーーああ、三人で幸せになろうな。
“そうだ、この人はずっとわたしたちのために頑張って
くれていた。いつの間にか当たり前になって……”
ーー……
………美。
「……裕美」
「……っ、あなた?」
「大丈夫か?」
「どうしたのかしら?わたし……って、どうしてあなたがここに?」
二人は高台にあるベンチに座っていた。時間はとうに十八時を過ぎていて陽も沈みはじめている。
「よくわからないんだが……気がつくとお前とここにいて……」
「わたしお買い物していて……思い出せないわ……?」
「こんな時に何なんだがお前に……話があるんだ。すまない会社を……」
「知ってるわ。気づいてあげられなくてごめんなさい」
「……裕美、どうして?」
裕美の記憶にぼんやりと残る夫との会話……どこで話たのか、いつ聞いたのか覚えてない……でもリストラのことは覚えている。それに遠い昔の忘れていた記憶が鮮明に思い出される。そして次は自分が夫を支える番だと。
「これからはあなたのやりたいことをしていいのよ」
「え?」
「昔、お店やりたいっていってたじゃない」
「いや、それは若い頃の話で……」
「じゃあ、今はもうやりたくないの?」
「そうゆう……わけじゃないが年齢を考えたら、それに浩介の学費のこともあるし……生活とか……」
「なに言ってるの?まだ五十代じゃない。それに生活費や学費の心配はしなくても大丈夫よ。専業主婦をなめないで!あなたは退職金で好きなことやってちょうだい」
「……裕美、いいのか?本当にいいのか?」
「もちろんよ!その代わり無理はしないで、お金も体も」
「ああ、裕美や浩介には迷惑かけないよ。ありがとう!」
沈みゆく夕日の影に二人はあらためて互いの大切さに気づく。
「ダナ様、よろしかったのですか?“おもいで”を取らなくて」
『今回は吸い取るところがなかったからな……』
良くも悪くも今回は、お互いを思い合ったがゆえに少しだけ空回りしていたに過ぎない。自分のことしか考えない夫婦が多い中で、あのような夫婦を見るのは心が和む。
いつの時代もーー女性は逞しい。黒猫はエールのかわりに艷やかな尻尾を振って二人を見送る。
ーーいつか自分も。そんなことを主が思っているなど、アリスは塵にも思いもしない。
三角屋根と赤煉瓦の建物が目を引く『喫茶 黒猫』は、小さな町のどこかで“客”の訪れを待っている。
気まぐれに艶やかなしっぽを揺らしながら……黒猫は今日も街に現れる。
次の“客”を物色するためにーーー
店の名は『喫茶 黒猫』
黒猫に魅入られ、その店に足を踏み入れた“客”は、珈琲代の代わりに“あるモノ”を支払うことになるーー
*
「……どうしたものかしら…」
スーパーの買い物帰り駅前広場のベンチに腰を下ろし、黒崎裕美(ひろみ)はポツリと呟いた。
すでに夕飯の買い出しは済ませているので献立に頭を悩ませているわけではない。
結婚して二十年、裕美は専業主婦として家を切り盛りしてきた。半年ほど前に一人息子が大学進学を期に家を出たため、数十年ぶりに夫婦水入らずの生活がはじまったのだが、長いこと子供を中心に生活してきて……なんというか戸惑っていた。
夫婦二人の生活になることが嫌なわけではないが、生活のリズムや会話、一日のスケジュールなど……今度は夫中心に回るのだろうか?……そんなことを考えると気持ちがモヤモヤしてしまう。だからと夫婦仲が悪いわけでは無いが、今さら結婚当時のように甲斐甲斐しくできるものでもないーーそう思っていたのだが、最近夫の様子がおかしい。元々素っ気ないタイプではあったものの、夫として父親としてはそれなりに家族を大切にしてくれていた。けれど息子が家を出ていって少ししてから帰りが遅くなりはじめ、休みの日も朝早くから出かけることが増えた。
はじめは夫も自分と同じで気まずいのだろうと裕美は思っていたのだが、どうやらそうではないらしい……。
ーー浮気!?
という二文字が頭を過ぎらなくもないが、基本真面目一辺倒の夫に限って……という思いもあった。
なにかの雑誌で真面目な人ほど……本気になりやすい。みたいな記事を読んだことがあり、ここ半年ほど頭を悩ませていた。
《ニャア~》ーー見つけた。
広場を行き交う人の波を掻き分けながら一匹の黒猫が裕美に近づいてくる。毛並みの綺麗な大切に飼われていると見受けられる猫。ビー玉みたいな大きな瞳に裕美は不思議と胸がときめいた。
「猫ちゃん迷子なの?」
足元に擦り寄ってきた黒猫をそっと抱き上げると膝の上に座らせる。お利口に膝に座る猫に裕美はフフと顔を綻ばせた。
「人懐っこい猫ね。どこから来たの?」
《ニャア》ーーついて来い。
猫は膝の上から軽やかに降りると裕美を誘うようにゆっくりと歩きはじめる。
本当ならついて行く必要もないのに、なぜか自然と体が動いて、裕美はスーパーの袋を持黒猫の後に続いた。
駅から十分ほど歩くと人通りの少ない通りに裕美は来ていた。長年この土地で暮らしているがこの辺りに来るのは初めてだった。猫は少し先のアスファルトの坂道を登り出し、ここを登るのかしら……と裕美は少し困惑する。
携帯を見ると時間は十六時を回っていて、早く帰って夕飯の支度をしなければ……と立ち止まった。
《ニャア~ニャア》
そんな裕美に黒猫は早く来いと言わんばかりに鳴く。
「どうしましょう……困ったわ」
時間的なものもあるが、ゆるやかとはいえこの坂道を上がるのは今の自分にはかなりハードな行為だ。荷物もあるし。ただ黒猫のしなやかな後ろ姿を見ている自然に足が動いて気づけば坂の上まで登っていた。
「……ふぅ、なんだか登れちゃたわね」
こんなに汗をかいたのは何年、何十年ぶりだろう……ハンカチで額の汗を拭きながら裕美は大きく息を吐いた。
「こんな場所があったなんて知らなかったわ」
《ニャア》ーーこっちだ。
「あ、どこに行くの?待って……」
少し休憩させて……と思いながら裕美は黒猫の後を追う。
「あら?猫ちゃんは……、このお店はなにかしら?」
裕美の前にはいつの間にか寂れた三角屋根と赤煉瓦の店がポツンと佇んでいて、突き出し看板がギーギーと揺れていた。
「……喫茶 黒猫、まあ……こんな所に喫茶店が」
見るからに怪しげな店で入らない方がいいと頭ではわかっているが、魅惑的な黒猫のせいか……こんな場所まで来たせいか忘れていた好奇心が顔を覗かせる。
古い扉のノブを引くとチリン……とドアベルが鳴り裕美はこんにちはと声をかけて薄暗い店内に足を踏み入れた。
「裕美!?」
すると奥から聞き慣れた声が驚きとともに聞こえてきた。
「……え!?あ、あなた?どうして、こんな所に?」
そこには会社にいるはずの夫、雄介がいた。今日は早めに仕事が終わったのだろうか?それとも体調が悪くて早退したのか?そうなら自分に連絡があるはず……と状況が把握できず裕美が困惑していると、
「いらっしゃいませ。お知り合いですか」
女性の声に裕美は我に返り慌てて向いの席に座る。
「あ……はい、主人です」
「そうなんですね、素敵な偶然ですね」
女性の言葉に二人は怪訝な顔になる。これが偶然?と思えるほど単純ではない。何か不可思議な力に引き寄せられたようにすら感じる。
「ご注文は何になさいますか」
「えっ……と、アイスコーヒーを」
「かしこまりました。ご主人様はおかわりはよろしいですか」
「……結構です」
「では、少々お待ちください」
重い沈黙が続き気まずい中、先に口を開いたのは雄介の方だった。
「話が……ある」
「……」
いきなり神妙な面持ちで言われ裕美は手を強く握りしめた。結婚して二十年……良いことも悪いことも色々あった。なんなら悪いことの方が多いだろう。喧嘩もたくさんした……離婚を考えたことが無いといえば嘘になる。
それは夫も同じかもしれないが。それでも今までやってこれたのは家族としての愛情が少なからずあったからだ。
夫は五十代であと数年で定年だ。定年になった夫に三行半を突き付ける妻は多いと聞くが、その前に夫から三行半……離婚を突き付けられるのか……そう思うと裕美は何ともいえない憤りを感じてやまななかった。
自分のこれまでの二十年……はなんだったのかと。
夫が頑張って働いてくれているから自分は専業主婦ができた。働くのが嫌なわけではないが仕事と子育てを両立できるほど器用ではないのは自分でもわかっていたから、専業主婦をさせてもらえたのは本当に有難かった。
その分、家のことや子供のことは手を抜かず一生懸命やってきたつもりだ。なのに………。
「実は……」
裕美の唇がキツく結ばれ嫌な汗が首すじをゆっくりと流れ落ちる。
「会社……リストラされた……」
「………え?」
思ってもいなかった言葉に裕美は固まった。
リス……トラ……ーー離婚の話じゃなかった?
「い、い……つ?」
「半年ほど前に……早期退職を打診されたんだ……」
夫の様子がおかしいと思いはじめた頃……。
「ど……して、話してくれなかったの?そんな大事なこと」
「浩介も大事な時だったし、一応出向って話もでていたから……はっきりしてからと思ってたんだが……結局、早期退職をせまられてしまってね……」
夫の疲れた顔……この半年、家族に言えず悩んでいたんだろう。なにも気づかなかった……夫が大変な時に。
息子のことで頭がいっぱいだったから。と言えばただの言い訳になってしまうけれど。
「失礼します。おまたせいたしました」
そっと置かれたアイスコーヒーを裕美はストローでゆっくりかき混ぜる。まるで気を紛らわせるように。
こういう時はなんて声をかけるのが正解なのか……専業主婦で長年暮らしてきた自分が大丈夫よ、なんて軽々しく口にすることなんてできない。
二人の間に流れる重たい空気の間をカランカランと氷の音が遮るように響き、それが妙に物悲しい音に聞こえる。
《ニャア~》ーーさあ、はじめよう。
「あら猫ちゃん。このお店の子だったの」
さっきの黒猫が女性の後ろから現れた。金色の射るような眼差しが二人を見つめる。黒猫のビー玉のような大きな瞳が今度は万華鏡のようにたくさんの色彩を宿しキラキラと輝き出す。気を抜くと吸い込まれてしまいそうなほどに神秘的で美しい………。
女性が「お代はけっこうです、代わりに“あるモノ”を頂きたいのです」と言った。
《ニャア~》
黒猫も女性の言葉に応えるように声高らかに鳴いた。
「”彼“は黒猫のダナ。私はアリス、彼に仕える者」 「何を言っ……て」
「あなた方が飲んだ珈琲は、あなた方の大切な思い出の味なのです」
「……はい?」
アイスコーヒーの水面が静かに揺れ店内の景色が歪みはじめる。
【あなた方のいちばん大切に思っている……記憶(おもいで)を私たちに見せて……】
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ーー結婚、してください。
ーーはい!
“プロポーズしてくれた時、本当に嬉しかった”
ーー将来……店をやりたいんだ。
“そういえば結婚前お店やりたい……って”
ーー子供が……できたの……。
ーー俺も父親かぁ~裕美と子供のために頑張るからな。
ーーお店やるのが夢なんでしょう?
ーーまあ、でもお前と子供を養うのが一番だから。
“そう……わたしたちのために夢を諦めて……”
ーーありがとう子育ても家のことも一生懸命頑張るから。
ーーああ、三人で幸せになろうな。
“そうだ、この人はずっとわたしたちのために頑張って
くれていた。いつの間にか当たり前になって……”
ーー……
………美。
「……裕美」
「……っ、あなた?」
「大丈夫か?」
「どうしたのかしら?わたし……って、どうしてあなたがここに?」
二人は高台にあるベンチに座っていた。時間はとうに十八時を過ぎていて陽も沈みはじめている。
「よくわからないんだが……気がつくとお前とここにいて……」
「わたしお買い物していて……思い出せないわ……?」
「こんな時に何なんだがお前に……話があるんだ。すまない会社を……」
「知ってるわ。気づいてあげられなくてごめんなさい」
「……裕美、どうして?」
裕美の記憶にぼんやりと残る夫との会話……どこで話たのか、いつ聞いたのか覚えてない……でもリストラのことは覚えている。それに遠い昔の忘れていた記憶が鮮明に思い出される。そして次は自分が夫を支える番だと。
「これからはあなたのやりたいことをしていいのよ」
「え?」
「昔、お店やりたいっていってたじゃない」
「いや、それは若い頃の話で……」
「じゃあ、今はもうやりたくないの?」
「そうゆう……わけじゃないが年齢を考えたら、それに浩介の学費のこともあるし……生活とか……」
「なに言ってるの?まだ五十代じゃない。それに生活費や学費の心配はしなくても大丈夫よ。専業主婦をなめないで!あなたは退職金で好きなことやってちょうだい」
「……裕美、いいのか?本当にいいのか?」
「もちろんよ!その代わり無理はしないで、お金も体も」
「ああ、裕美や浩介には迷惑かけないよ。ありがとう!」
沈みゆく夕日の影に二人はあらためて互いの大切さに気づく。
「ダナ様、よろしかったのですか?“おもいで”を取らなくて」
『今回は吸い取るところがなかったからな……』
良くも悪くも今回は、お互いを思い合ったがゆえに少しだけ空回りしていたに過ぎない。自分のことしか考えない夫婦が多い中で、あのような夫婦を見るのは心が和む。
いつの時代もーー女性は逞しい。黒猫はエールのかわりに艷やかな尻尾を振って二人を見送る。
ーーいつか自分も。そんなことを主が思っているなど、アリスは塵にも思いもしない。
三角屋根と赤煉瓦の建物が目を引く『喫茶 黒猫』は、小さな町のどこかで“客”の訪れを待っている。
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