忍ぶれど… 兄は俺の光――息が届くほど近くにいるのに、けっして触れてはならぬ想い人

志生帆 海

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色は匂へど……

光を手繰り寄せて 1

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 突然の離婚、心も身体のボロボロに傷ついた兄さんが月影寺に戻って来てから、数カ月が経った。

 兄さんの視力は一時は回復の兆しがあったのに、最近は小康状態を保っていた。

 兄さんは目が見えないことをどう思っているのか。光しか感じない世界にいることに不安はないのか。

「兄さん、おはよう! よく眠れたか」
「……うん」

 いつも朝日が昇るのが待ち遠しかった。兄さんの部屋に駆けつけられるから。

 兄さんはまだ寝惚けているのか、いつもほわっとした表情を浮かべているのがとても可愛らしい。あっ、また寝ぐせついてんな。兄さんの栗色の髪はコシがなく柔らかいので、すぐに癖がついてしまう。やっぱりあのシャンプーは駄目だな。また違うのを探してみよう。いっそ俺が調合してみようか。 

 寝間着の着替えもいつも通り手伝った。兄さんの自尊心を穢さないように、肌の露出が多くならないように気をつけている。

 特に胸元を見せるのを嫌がっていた。

「流、今日は忙しいのか」 
「そうだな。檀家さんとの打ち合わせが入っているが何か用か。行きたい所でもあるのか」
「うん……今日は少しこの寺の外に出てみたいと思って。こんな我が儘……駄目かな?」
「駄目なんかじゃない! 父さんに仕事を代わってもらえるか、頼んでみるよ」

 兄の方から何かをしたいというのは初めてだ。だから、どこへでも連れて行ってやりたい。ここに戻ってきてから病院以外、出歩いていないのだから。

「どこに行きたい?」
「……海に……由比ヶ浜の海に行ってみたくて」

 由比ヶ浜……それは兄さんと最後にすれ違った海だ。あの日の切なさが過り、つい言葉に詰まってしまった。

「ゆっ、由比ヶ浜?」
「……やっぱり駄目か」
「……駄目ではないが」
「実は探し物があって」
「何をだ?」
「うん、少し言い難いから、海に着いたら話すよ」

 探し物が気になったが、それより先に手筈を整えねば。

 まるで兄とデートするようで、胸がどんどん高鳴っていく。

「母さん、今日は寺の仕事はなしだ!  ナシっ!」
「何よ、偉そうに。今日は翠の病院の日ではないわよね?」
「翠が海に行きたいと言っているんだ。なぁ連れて行ってもいいだろう?」
「翠が? まぁ本当なの? あの子が自分から何かをしたいと言うのは、この寺に戻って来てから初めてね」
「そうなんだよ。だからいいよな?」
「もちろんよ、あの子がしたいことを優先させてあげて」

 父も母も寺の長男で跡取り息子の翠には厳しいようで実は甘い。あんな状態になった翠が元気になるためなら、何でもしてやりたいと願っている。だから二つ返事で了解を得た。

「兄さん! OKもらえたぞ」
「少し落ち着いて。まったく流はいつまでも子供みたいに元気だな」
「そうか」

 流石に少々騒ぎ過ぎたかと自重しようとすると、兄さんの手が俺の腕にそっと触れてくれた。

「それが嬉しいよ。目の見えない僕なんかと二人きりで出かけてもつまらないだろうに……そんなに喜んでくれるなんて、何だかまた誤解しそうだよ」

『誤解』ってなんだよ? 

 それにしても兄さんがこんなひねくれた考えを持つようになってしまったのは、絶対に俺のせいだ。この数年兄さんを悉く突き放した結果なのか。まさにこれは『自業自得』だよな。

 『自業自得』か……そういえば以前、父さんが興味深いことを言っていたな。

『流、よく聞きなさい。『自業自得』とは一般的には悪い結果に対して使われる事が多いが、元は仏教から来た言葉だと知っていたか。仏教では良い結果も悪い結果も共に『自業自得』だと言われている。つまり『自業自得』とは自分の行為が自分の運命を生み出すという意味なのだ。だからお前もこの先、良く考えて行動するように』

 兄さんが俺の元に戻って来てくれたのは良いことだが、兄さんの目が見えなくなった事は悪い結果だ。そして兄さんは俺に対して自信が失って……俺の愛情を信じられなくなってしまったのも。

 とにかく今のこの目の前の結果は、全部俺が招いたものだ。己の行為の報いならば、自分自身でしっかり受けとめるべきだ。

 良いことも悪いことも、誰を恨むでもなく前を向いて――

 自業自得とはそういうことなのか。父さん……

 ならば兄さん、俺たちまだ間に合うよな? これからだよな?

 俺は兄さんに対して、この先は善い行いを沢山積むから、いつか善い結果が生まれると願っている。

 なぁ兄さん……仏教では人は果てしない遠い過去から永遠の未来に向かって生まれ変わり死に変わり、生死を繰り返していると説かれているのを知っているか。
 
 こんなに好きで気になって仕方がない人が俺の兄だなんて。

 兄さんと兄弟で生まれた結果は、前世の俺がきっと自分で仕組んだような気がするよ。もしかしたら兄さんの一番近い所に生まれたいという願いをかけたんじゃないか。

「流……どうした? 僕は変なことを言ったか……すまない。散々迷惑をかけているのに……」
「兄さんはもう自分を卑下するな。間違っていない、そのまま真っすぐに生きて行けばいい」

 俺がずっと追いかけるから。

 まだ振り向いてもらえないが、きっといつか夢が叶う日がくるかもしれない。

 希望を持とう。
 明るい希望を――

「さぁ、海に行こう!」



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