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色は匂へど……
我慢の日々 10
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「お待たせしました。張矢 翠さんの検査結果ですが」
「先生、兄の目の具合は実際のところ、どうなんですか」
「先月に比べたら、ずっと良くなっています。視力回復の兆しをデーター上でも捉えることが出来ましたよ」
「では間もなく見えるようになるのですか!」
弾んだ声で前のめりで聞くと、渋い顔をされた。
「……残念ながら分かりません。お兄さんの視力低下は精神的なものから来ているので、何とも」
「……そうですか」
「でもこの調子なら可能性は強いですよ。引き続き、穏やかで安心安全な生活を心がけて下さい」
「……必ず守ります」
定期的に通っている大学病院の眼科の診断結果に、心がざわついた。
兄さんの目が見えるようになるのは喜ばしいが、そうなったら、この密な関係が終わってしまう。それが寂しいと思うとは、俺はなんて酷い考えを抱いているのか。
待合室に戻ると、兄さんは窓辺のソファに腰掛けて外をじっと眺めていた。
「兄さん、待たせたな」
「流っ」
兄さんは俺の声に嬉しそうに反応してくれる。
もう顔や体についた打撲痕も消え、あとは腕のギブスが取れるのを待つだけだ。やつれてかさついていた兄さんの美しい肌や髪には張りが戻り、太陽の光を浴びてつやつやと輝いていた。
俺の翠は、今日も綺麗だ。
心の中でそっと呟いた。
「検査の結果はどうだった?」
「あぁ……だいぶいいそうだよ」
「やっぱり? 実は僕もそう思っていたんだ」
「何故そう思える?」
「うん……最近、光をしっかり感じられるようになったし、実は昨日からは、流……お前の輪郭をぼんやりとだけど捉えられるようになったんだ」
「……そうか、そうだったのか」
そんなに進捗していたとは驚いた。
兄さんは目をじっと見開き、真っすぐに俺を見つめてくれた。の視線は強く、まるでもう見えているかのようだった。
「兄さん、どうした?」
「早くお前の顔が見たいよ。もう随分長い間、ちゃんと見ていないから」
その言葉に胸が詰まる。
ここ数年、兄さんの視界から俺が消えていたのは事実だ。
待ち遠しく、じれったいような視線で、俺を見上げる兄さんをこの手で抱きしめたい。
こんなにもすぐ傍にいるのに触れられないもどかしさを、今日もひしひしと感じている。
****
流が見えそうで見えないもどかしさ。
分かってくれるか。
先月、僕は夜の新宿で交通事故に遭いそうになった。
深夜の遅い時間にかなり酔った状態で、最初は歩道を走っていたそうだが、突然車道に紛れ込んで、危うく車に跳ねられそうになった。
車に跳ねられることは回避できたが、倒れた時の打ちどころが悪かった。
目撃者の情報によると、僕がひどく焦った様子で誰かから逃げているようだったと……その結果、全身打撲と腕の複雑骨折、視力を失っていた。
頭も酷く打ったようで意識不明の状態だったが、幸い後遺症もなかった。
死んでしまうところだった。
ただ失った視力に関しては誰にも話していなかったが、事故の前から徐々に衰えていた。
あの日、医師が僕にこう言った。
「あなたの視力低下は精神的なものからです。今度ショックなことがあったら完全に失ってしまう可能性が高いので、心穏やかに過ごすように」
突然の離婚を切り出され自暴自棄になって部屋に閉じこもっていた所までは思い出せるのに……その先のことを思い出そうとすると、トンカチで頭を叩かれるように酷い頭痛に苛まれてしまう。
どうして僕が深夜の新宿に?
事故現場は飲み屋街でラブホテルが建ち並ぶ、滅多に近づかない場所だ。
記憶がないというのは怖い。
その記憶の中に、とんでもないことが潜んでいそうで……
「兄さん、着いたぞ」
「あっ、もう?」
「ん? 顔色悪いな? 車に酔ったのか」
「大丈夫だよ」
「駄目だ。ふらついているだろう。ほら」
「あっ」
「いいから! 階段から落ちたらどうするんだ?」
「だが……」
流は僕を軽々と横抱きにしてしまうので、僕は落ちないように流の首に手を回すしかなかった。
あぁ……駄目だ。
今の僕はこんな風に流に心配ばかりかけてしまう。
だが流の声はどこまでも甘く優しい。
この数年ろくに口を聞いてくれなかった流が、いつも傍にいて手取り足取り世話をしてくれる。
流の顔を早く見たいという気持ちとは裏腹に、このまま見えなかったら、流はずっと傍にこうやって僕に付き添ってくれるのかと問いたくなってしまう。
生死を彷徨っている間、ずっと流を呼んでいた。
暗闇の中で光る希望は、ただ、ただ……流だけだった。
『我慢の日々』 了
この時期の二人をイメージしたSS名刺です。
「先生、兄の目の具合は実際のところ、どうなんですか」
「先月に比べたら、ずっと良くなっています。視力回復の兆しをデーター上でも捉えることが出来ましたよ」
「では間もなく見えるようになるのですか!」
弾んだ声で前のめりで聞くと、渋い顔をされた。
「……残念ながら分かりません。お兄さんの視力低下は精神的なものから来ているので、何とも」
「……そうですか」
「でもこの調子なら可能性は強いですよ。引き続き、穏やかで安心安全な生活を心がけて下さい」
「……必ず守ります」
定期的に通っている大学病院の眼科の診断結果に、心がざわついた。
兄さんの目が見えるようになるのは喜ばしいが、そうなったら、この密な関係が終わってしまう。それが寂しいと思うとは、俺はなんて酷い考えを抱いているのか。
待合室に戻ると、兄さんは窓辺のソファに腰掛けて外をじっと眺めていた。
「兄さん、待たせたな」
「流っ」
兄さんは俺の声に嬉しそうに反応してくれる。
もう顔や体についた打撲痕も消え、あとは腕のギブスが取れるのを待つだけだ。やつれてかさついていた兄さんの美しい肌や髪には張りが戻り、太陽の光を浴びてつやつやと輝いていた。
俺の翠は、今日も綺麗だ。
心の中でそっと呟いた。
「検査の結果はどうだった?」
「あぁ……だいぶいいそうだよ」
「やっぱり? 実は僕もそう思っていたんだ」
「何故そう思える?」
「うん……最近、光をしっかり感じられるようになったし、実は昨日からは、流……お前の輪郭をぼんやりとだけど捉えられるようになったんだ」
「……そうか、そうだったのか」
そんなに進捗していたとは驚いた。
兄さんは目をじっと見開き、真っすぐに俺を見つめてくれた。の視線は強く、まるでもう見えているかのようだった。
「兄さん、どうした?」
「早くお前の顔が見たいよ。もう随分長い間、ちゃんと見ていないから」
その言葉に胸が詰まる。
ここ数年、兄さんの視界から俺が消えていたのは事実だ。
待ち遠しく、じれったいような視線で、俺を見上げる兄さんをこの手で抱きしめたい。
こんなにもすぐ傍にいるのに触れられないもどかしさを、今日もひしひしと感じている。
****
流が見えそうで見えないもどかしさ。
分かってくれるか。
先月、僕は夜の新宿で交通事故に遭いそうになった。
深夜の遅い時間にかなり酔った状態で、最初は歩道を走っていたそうだが、突然車道に紛れ込んで、危うく車に跳ねられそうになった。
車に跳ねられることは回避できたが、倒れた時の打ちどころが悪かった。
目撃者の情報によると、僕がひどく焦った様子で誰かから逃げているようだったと……その結果、全身打撲と腕の複雑骨折、視力を失っていた。
頭も酷く打ったようで意識不明の状態だったが、幸い後遺症もなかった。
死んでしまうところだった。
ただ失った視力に関しては誰にも話していなかったが、事故の前から徐々に衰えていた。
あの日、医師が僕にこう言った。
「あなたの視力低下は精神的なものからです。今度ショックなことがあったら完全に失ってしまう可能性が高いので、心穏やかに過ごすように」
突然の離婚を切り出され自暴自棄になって部屋に閉じこもっていた所までは思い出せるのに……その先のことを思い出そうとすると、トンカチで頭を叩かれるように酷い頭痛に苛まれてしまう。
どうして僕が深夜の新宿に?
事故現場は飲み屋街でラブホテルが建ち並ぶ、滅多に近づかない場所だ。
記憶がないというのは怖い。
その記憶の中に、とんでもないことが潜んでいそうで……
「兄さん、着いたぞ」
「あっ、もう?」
「ん? 顔色悪いな? 車に酔ったのか」
「大丈夫だよ」
「駄目だ。ふらついているだろう。ほら」
「あっ」
「いいから! 階段から落ちたらどうするんだ?」
「だが……」
流は僕を軽々と横抱きにしてしまうので、僕は落ちないように流の首に手を回すしかなかった。
あぁ……駄目だ。
今の僕はこんな風に流に心配ばかりかけてしまう。
だが流の声はどこまでも甘く優しい。
この数年ろくに口を聞いてくれなかった流が、いつも傍にいて手取り足取り世話をしてくれる。
流の顔を早く見たいという気持ちとは裏腹に、このまま見えなかったら、流はずっと傍にこうやって僕に付き添ってくれるのかと問いたくなってしまう。
生死を彷徨っている間、ずっと流を呼んでいた。
暗闇の中で光る希望は、ただ、ただ……流だけだった。
『我慢の日々』 了
この時期の二人をイメージしたSS名刺です。
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