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色は匂へど……
入相の鐘 6
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どんなに身体を洗っても、彩乃さんの香水の匂いが身体にまとわりついているようで、気持ちが沈んだ。
「どうして、こんなことになってしまったのか……」
ベッドに腰掛けると、一歩も動けなくなった。
両手で顔を覆い、項垂れた。
「……疲れた」
身体が怠い。
「彩乃さん、どうして君は……」
彩乃さんとの結婚は、確かに僕の意志だった。
彼女の溌剌とした自由な性格に惹かれたのだ。あの頃も僕は克也くんに追い詰められて疲れ果てており、流を守りたい気持ちとのバランスが取れなくなっていた。だからそういう強さを持つ女性に憧れた。
結婚当初は彼女のそんな奔放さも愛おしく感じ、僕らは深く愛しあった。
そんな時期もあった。
だから薙を授かった。
薙は愛から生まれてきた。
それだけは忘れないでいたい。
薙、愛しい僕の息子。
暗く長い溜息をつきながらカーテンを開けると、光が眩しかった。
同時に虚しくなった。
僕はなんと不甲斐なかったのか。
完全に彩乃さんに主導権を奪われて、いいように身体を弄ばれた気分だ。
男の矜恃を深く傷つけられた。
僕の身体は生理的にしっかり反応してしまった。
「あぁ、僕はなんてことを」
後味の悪い後悔ばかりが押し寄せてくる情事だった。
しばらく窓辺で、外の景色を見つめ続けた。
どこまでもビルが連なる無機質な景色。
空の青さが遠い。
あの頃の僕のように、籠の中の鳥になった気分だ。
手を伸ばしても触れられない空を見上げて、込み上げてくるのは悲しい、哀しい、冷たい涙だった。
涙に濡れていると、彼方から僕を呼ぶ声がした。
「君はどうして……まだそんな所にいるんだ? 早く彼の元へ戻らないと……君たちは離れては駄目だ。どんなことがあっても、ずっと一緒にいないと」
「どうして、そのようなことを?」
「君たちは生きている。だから……今、何をすべきかよく考えて欲しい……」
生きている?
確かに僕は生きている。
今、何をすべきか。
流がずっと待っていてくれる。
流に会いたい。
こんな身になっても、僕は流を求めてしまう。
だが……流は僕を受け入れてくれるだろか。
こんなに醜い僕を……
躊躇って躊躇って、かなり時間が経過してから、おそるおそる流に電話をした。
****
翠との電話を終え、俺は急いで区役所の駐車場に戻った。
いいか、流、お前はずっとここにいた。
何も見てない、何も聞いてない。
どんな翠でも、俺の翠だ。
もう離れたくない!
やがて翠が寒そうに自分の身体を抱きしめながら、重い足取りで戻って来た。
「兄さん、こっちだ!」
「あっ……」
気まずそうな表情で、すぐに目を背けてしまう。
「流、待たせて……ごめん」
「いいって。さぁ帰ろう。疲れただろう」
「うん、とても……」
翠は助手席に座ると、自分から窓を開けた。
きっと移り香を気にしているのだろう。
翠からは行きとは違う香りがした。ホテルの備え付けのボディソープやシャンプー類のシトラス系の香りだ。俺の翠の匂いじゃないが、元妻の匂いではなかった。
「兄さん、音楽でもかけるか」
「……うん」
沈黙が気まずくて、洋楽を流してやった。
だが翠はずっと外を見つめたまま、会話は生まれない。
やがて海風を感じると、翠の頬に一筋の涙が伝ったのを見てしまった。さっきから小さく震えていたのは、涙を堪えていたからだったのか。
「兄さん、少し寄り道をしないか」
「え……どこへ」
「由比ヶ浜の海里先生の所に寄ろう」
「どうして……」
「海里先生は兄さんの心の主治医だから」
海里先生。
どうか、兄さんの心を静めてやって下さい。
俺じゃ駄目なんです。
どうか兄さんの心を保つ術を、兄さんに教えて下さい。
俺たちのいつかのために――
「どうして、こんなことになってしまったのか……」
ベッドに腰掛けると、一歩も動けなくなった。
両手で顔を覆い、項垂れた。
「……疲れた」
身体が怠い。
「彩乃さん、どうして君は……」
彩乃さんとの結婚は、確かに僕の意志だった。
彼女の溌剌とした自由な性格に惹かれたのだ。あの頃も僕は克也くんに追い詰められて疲れ果てており、流を守りたい気持ちとのバランスが取れなくなっていた。だからそういう強さを持つ女性に憧れた。
結婚当初は彼女のそんな奔放さも愛おしく感じ、僕らは深く愛しあった。
そんな時期もあった。
だから薙を授かった。
薙は愛から生まれてきた。
それだけは忘れないでいたい。
薙、愛しい僕の息子。
暗く長い溜息をつきながらカーテンを開けると、光が眩しかった。
同時に虚しくなった。
僕はなんと不甲斐なかったのか。
完全に彩乃さんに主導権を奪われて、いいように身体を弄ばれた気分だ。
男の矜恃を深く傷つけられた。
僕の身体は生理的にしっかり反応してしまった。
「あぁ、僕はなんてことを」
後味の悪い後悔ばかりが押し寄せてくる情事だった。
しばらく窓辺で、外の景色を見つめ続けた。
どこまでもビルが連なる無機質な景色。
空の青さが遠い。
あの頃の僕のように、籠の中の鳥になった気分だ。
手を伸ばしても触れられない空を見上げて、込み上げてくるのは悲しい、哀しい、冷たい涙だった。
涙に濡れていると、彼方から僕を呼ぶ声がした。
「君はどうして……まだそんな所にいるんだ? 早く彼の元へ戻らないと……君たちは離れては駄目だ。どんなことがあっても、ずっと一緒にいないと」
「どうして、そのようなことを?」
「君たちは生きている。だから……今、何をすべきかよく考えて欲しい……」
生きている?
確かに僕は生きている。
今、何をすべきか。
流がずっと待っていてくれる。
流に会いたい。
こんな身になっても、僕は流を求めてしまう。
だが……流は僕を受け入れてくれるだろか。
こんなに醜い僕を……
躊躇って躊躇って、かなり時間が経過してから、おそるおそる流に電話をした。
****
翠との電話を終え、俺は急いで区役所の駐車場に戻った。
いいか、流、お前はずっとここにいた。
何も見てない、何も聞いてない。
どんな翠でも、俺の翠だ。
もう離れたくない!
やがて翠が寒そうに自分の身体を抱きしめながら、重い足取りで戻って来た。
「兄さん、こっちだ!」
「あっ……」
気まずそうな表情で、すぐに目を背けてしまう。
「流、待たせて……ごめん」
「いいって。さぁ帰ろう。疲れただろう」
「うん、とても……」
翠は助手席に座ると、自分から窓を開けた。
きっと移り香を気にしているのだろう。
翠からは行きとは違う香りがした。ホテルの備え付けのボディソープやシャンプー類のシトラス系の香りだ。俺の翠の匂いじゃないが、元妻の匂いではなかった。
「兄さん、音楽でもかけるか」
「……うん」
沈黙が気まずくて、洋楽を流してやった。
だが翠はずっと外を見つめたまま、会話は生まれない。
やがて海風を感じると、翠の頬に一筋の涙が伝ったのを見てしまった。さっきから小さく震えていたのは、涙を堪えていたからだったのか。
「兄さん、少し寄り道をしないか」
「え……どこへ」
「由比ヶ浜の海里先生の所に寄ろう」
「どうして……」
「海里先生は兄さんの心の主治医だから」
海里先生。
どうか、兄さんの心を静めてやって下さい。
俺じゃ駄目なんです。
どうか兄さんの心を保つ術を、兄さんに教えて下さい。
俺たちのいつかのために――
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