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色は匂へど……
街宵 5
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一通の手紙が、僕宛に届いた。
差出人は丈だった。
中には白いシンプルなカードが入っており、転居先の連絡先だけが書かれていた。
メッセージのない手紙だが、丈の気持ちは確かに届いた。
そこに流がやってきて、怪訝そうな顔で話しかけてきた。
「翠、どうした? 難しい顔をしているぞ。良くない知らせか」
「いや、そうじゃない。丈が就職にあたり引っ越しすると連絡してきたんだ」
「ふぅん……あいつ、今、どこで何をしてるんだ? ちゃんと生活出来ているのか」
「……たぶん」
僕たちは、丈が今どんな生活をしているのか知らない。
思い返せば、丈の中高の学生寮も大学時代の一人暮らし先のマンションにも行ったことがなかった。
丈は人に干渉されるのを好まないから、そっとしておいた。
だからこの住所に僕たちが行くこともおそらくないだろう。
だがこのまま一生、月影寺に戻って来ないつもりなのか。
ここは丈の実家でもあるんだよ。
僕は丈も傍にいてくれたら、心強いと思っている。
どんなことがあろうといつでも丈を受け入れるから、困ったことがあったら頼って欲しい。
僕たちは三兄弟だ。
あの日の言葉に嘘偽りはない。
だからどうか忘れないで欲しい。
あの日、丈に託した言葉はいつか実行される。
そんな予感を、心の深い場所で感じている。
だから僕は益々頑張れる。
その日のための結界を張り巡らせていくよ。
月影寺に安寧を――
丈の手が人々の病気を治すように、僕にもすべきことがある。
仏門を極めよう。
仏教で仏・菩薩が衆生を憐れみ、楽を与え、苦を除くことを慈悲という。
僕にも力を。
集う人の苦しみを包み込める強い人になりたい。
「ところで今日は休みだが、兄さんの予定は?」
「うん、実は久しぶりに海里先生に会こうと思って」
「じゃあ診療所まで送るよ」
「いつもありがとう」
僕は一年ほど前から、海里先生に心の主治医になっていただき時折訪れては誰にも言えない秘めたる気持ちをそっと置かせてもらっている。
それは僕が僕らしく生きていくために必要なこと。
由比ヶ浜の海里診療所に着くと、少しの違和感を感じた。
なんだろう? とても寂しい名残惜しさを感じるのは――
呼び鈴を押すと、柊一さんが出てきた。
「いらっしゃい。そろそろいらっしゃる頃かと」
「海里先生にお会いできますか」
「もちろんです。海里さんはあなたとの時間をいつも楽しみにしています」
今日は少し顔色が悪いのは何故だろう?
居間に通されると、海里先生が普段着姿で出てきた。
診療所はすっかり休みがちになっているようだ。
「やぁ、翠くん、よく来たね。待っていたよ」
「先生、ご無沙汰してすみません」
「いや、流くんは?」
「いつも通り、海で待つと」
「そうか、入りなさい」
海里先生と静かに向き合う。
僕がぽつりぽつりと近況を話すと、海里先生はその度に大きく頷いて下さる。
それでいい。
僕が流に抱く感情に蓋をしなくていいと――
「翠くんの心は、今は凪いでいるようだね。顔色もいいし本来の君らしさが戻っているようだ」
「ありがとうございます。実は同じ事を末の弟にも言われたのを思い出しました。とても落ち着いて調子が良さそうだと」
海里先生は目を細めて、今度は優しく頷いてくれた。
「いい見立てだ。ところで末の弟さんとは……君たちは三兄弟なのか」
「はい、4歳下の弟で『丈』と言います。弟も医師の卵でインターンを終えたばかりです」
「ほぅ? そうなのか。専攻は?」
「海里先生と同じく外科を目指しているとは聞いていますか」
「そうか……」
そこに柊一さんが紅茶を運んできた。
「柊一、君は調子が良くないのだから休んでいなさい。お茶なら俺が……」
「ですが……あっ」
僕の目の前で、柊一さんが立ちくらみを起こして、よろけてしまった。
海里先生が咄嗟に支えたが、柊一さんが手に持っていたティーカップの中見が僕の胸元に飛び散ってしまった。
「熱っ」
「まずいな。翠くん、すぐに服を脱ぎなさい」
「…ですが……」
「早く! すぐに冷やすべきだ」
海里先生は柊一さんをベッドに寝かすと、僕の火傷の心配をしてくれた。
「ぬっ、脱げません!」
「どうして?」
「見られたくないんです」
思わずシャツを握りしめて後退してしまった。
紅茶を被った胸元がヒリヒリしてきた。
だが……この醜い傷を見られたくなかった。
この経緯は屈辱の塊……
「そんなこと言ってる場合か! 火傷が痕になったらどうする?」
「あっ……」
その台詞に、僕は雷に打たれたように、いよいよ立ち尽くしてしまった。
双眸からボロボロと涙が溢れてくる。
自分では止められない涙が――
「もう……とっくに……もう取れないんです……もう手遅れで……僕は……とても……汚れて……醜い……」
「どうした? 翠くん、しっかりしなさい!」
海里先生の声が遠くに聞こえる。
僕もくらくらと立ちくらみを起こしたようだ。
「翠くん! しっかり!」
海里先生、助けて……助けて下さい。
差出人は丈だった。
中には白いシンプルなカードが入っており、転居先の連絡先だけが書かれていた。
メッセージのない手紙だが、丈の気持ちは確かに届いた。
そこに流がやってきて、怪訝そうな顔で話しかけてきた。
「翠、どうした? 難しい顔をしているぞ。良くない知らせか」
「いや、そうじゃない。丈が就職にあたり引っ越しすると連絡してきたんだ」
「ふぅん……あいつ、今、どこで何をしてるんだ? ちゃんと生活出来ているのか」
「……たぶん」
僕たちは、丈が今どんな生活をしているのか知らない。
思い返せば、丈の中高の学生寮も大学時代の一人暮らし先のマンションにも行ったことがなかった。
丈は人に干渉されるのを好まないから、そっとしておいた。
だからこの住所に僕たちが行くこともおそらくないだろう。
だがこのまま一生、月影寺に戻って来ないつもりなのか。
ここは丈の実家でもあるんだよ。
僕は丈も傍にいてくれたら、心強いと思っている。
どんなことがあろうといつでも丈を受け入れるから、困ったことがあったら頼って欲しい。
僕たちは三兄弟だ。
あの日の言葉に嘘偽りはない。
だからどうか忘れないで欲しい。
あの日、丈に託した言葉はいつか実行される。
そんな予感を、心の深い場所で感じている。
だから僕は益々頑張れる。
その日のための結界を張り巡らせていくよ。
月影寺に安寧を――
丈の手が人々の病気を治すように、僕にもすべきことがある。
仏門を極めよう。
仏教で仏・菩薩が衆生を憐れみ、楽を与え、苦を除くことを慈悲という。
僕にも力を。
集う人の苦しみを包み込める強い人になりたい。
「ところで今日は休みだが、兄さんの予定は?」
「うん、実は久しぶりに海里先生に会こうと思って」
「じゃあ診療所まで送るよ」
「いつもありがとう」
僕は一年ほど前から、海里先生に心の主治医になっていただき時折訪れては誰にも言えない秘めたる気持ちをそっと置かせてもらっている。
それは僕が僕らしく生きていくために必要なこと。
由比ヶ浜の海里診療所に着くと、少しの違和感を感じた。
なんだろう? とても寂しい名残惜しさを感じるのは――
呼び鈴を押すと、柊一さんが出てきた。
「いらっしゃい。そろそろいらっしゃる頃かと」
「海里先生にお会いできますか」
「もちろんです。海里さんはあなたとの時間をいつも楽しみにしています」
今日は少し顔色が悪いのは何故だろう?
居間に通されると、海里先生が普段着姿で出てきた。
診療所はすっかり休みがちになっているようだ。
「やぁ、翠くん、よく来たね。待っていたよ」
「先生、ご無沙汰してすみません」
「いや、流くんは?」
「いつも通り、海で待つと」
「そうか、入りなさい」
海里先生と静かに向き合う。
僕がぽつりぽつりと近況を話すと、海里先生はその度に大きく頷いて下さる。
それでいい。
僕が流に抱く感情に蓋をしなくていいと――
「翠くんの心は、今は凪いでいるようだね。顔色もいいし本来の君らしさが戻っているようだ」
「ありがとうございます。実は同じ事を末の弟にも言われたのを思い出しました。とても落ち着いて調子が良さそうだと」
海里先生は目を細めて、今度は優しく頷いてくれた。
「いい見立てだ。ところで末の弟さんとは……君たちは三兄弟なのか」
「はい、4歳下の弟で『丈』と言います。弟も医師の卵でインターンを終えたばかりです」
「ほぅ? そうなのか。専攻は?」
「海里先生と同じく外科を目指しているとは聞いていますか」
「そうか……」
そこに柊一さんが紅茶を運んできた。
「柊一、君は調子が良くないのだから休んでいなさい。お茶なら俺が……」
「ですが……あっ」
僕の目の前で、柊一さんが立ちくらみを起こして、よろけてしまった。
海里先生が咄嗟に支えたが、柊一さんが手に持っていたティーカップの中見が僕の胸元に飛び散ってしまった。
「熱っ」
「まずいな。翠くん、すぐに服を脱ぎなさい」
「…ですが……」
「早く! すぐに冷やすべきだ」
海里先生は柊一さんをベッドに寝かすと、僕の火傷の心配をしてくれた。
「ぬっ、脱げません!」
「どうして?」
「見られたくないんです」
思わずシャツを握りしめて後退してしまった。
紅茶を被った胸元がヒリヒリしてきた。
だが……この醜い傷を見られたくなかった。
この経緯は屈辱の塊……
「そんなこと言ってる場合か! 火傷が痕になったらどうする?」
「あっ……」
その台詞に、僕は雷に打たれたように、いよいよ立ち尽くしてしまった。
双眸からボロボロと涙が溢れてくる。
自分では止められない涙が――
「もう……とっくに……もう取れないんです……もう手遅れで……僕は……とても……汚れて……醜い……」
「どうした? 翠くん、しっかりしなさい!」
海里先生の声が遠くに聞こえる。
僕もくらくらと立ちくらみを起こしたようだ。
「翠くん! しっかり!」
海里先生、助けて……助けて下さい。
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