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色は匂へど……
街宵 7
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自らの意志で、他人に火傷痕を見せるのは初めてだ。
震える手でボタンを一つ一つ外し、思い切って前を開いた。
「……ここだね。診てもいいかい?」
「はい、お願いします」
海里先生は、そのまま静かに火傷痕を見つめた。
先生の瞳の色は真っ黒ではなく青っぽいグレーをベースにヘーゼルカラーが入った複雑な色をしている。
とても深く穏やかな色で、僕の苦痛を包み込むように優しく診察して下さるので、それだけで泣いてしまいそうになる。
「傷痕に触れても?」
「はい」
「では失礼するよ」
白衣を着た海里先生は真剣な眼差しで、診察を続けて下さった。
彩乃さんにこの傷を初めて見せた時、彼女は「優等生さんが不良ごっこ? 意外ね」とせせら笑うだけで、不気味とは思わなかったようだが、僕には苦痛だった。
自分でも酷い有様だと思うので、もう誰にも見せたくなかった。これ以上傷つきたくなくて……
だが海里先生は別だ。
「翠くん、俺にこの傷を付けられた経緯を話してみないか。今まで誰にも言えなくて辛かっただろう……」
「あの……上手く話せるか分からないんです」
「独り言でいい。俺が拾うから」
「海里先生、僕は……」
「翠くん、君は背負い過ぎている。このままでは沈んでしまうぞ
「はい……」
ぽつりと吐き出してみると、不思議なことに言葉が溢れでてきた。
高校時代に出遭ってしまったこと。
親友の弟でうやむやにしてしまったこと。
流の卒業式で押し付けられた煙草。
その後、続いたこと。
耐えきれず、何もかも捨てて逃げ出したこと……
何もかも洗いざらい吐き出した。
海里先生の拳がぶるぶると震えている。
僕の屈辱に寄り添って下さっているのですか。
「……許せないな。最後にそいつに遭ったのはいつだ?」
「それは……視力を失った時です」
あの日、自暴自棄になってホテルのBARで流に似た男に身体を許そうとしてしまった。あの時、偶然見聞きした光景が押し寄せてくる。
克哉くんから逃げようと無我夢中で走っているうちに視力を失い、そのまま激しく転倒し救急車で運ばれた。
骨折と打撲で、気がついた時は病院のベッドで眠っていた。
母が枕元で泣いていたが、僕はまだ目を開けられず、そこに担当医が入ってきた。
……
「患者さんのお母様ですか」
「はい、この子は私の息子です。一体何が! 本当に事故なんですか。事件ではなく?」
「えぇ、一人で走ってきて転んだと」
「そうですか、一体どうしてあんな場所で……」
お母さん、心配かけてすみません。
心の中で謝っていると、医師が言い難そうに母に告げた。
「今回のは事件ではありませんが、息子さんの胸の火傷痕にお気づきでしたか? おそらく誰かにつけられたものでしょう。こちらの方が事件性がありそうです」
「え?」
「正直、何度も何度も執拗につけられたようで、かなり酷い火傷痕です。年月が経ちすぎていますので、一生治らないでしょう」
「そんな……」
一生治らない?
そうか、そうだったのか。
きっとそうだと思ってはいたが、深く絶望した。
もう消えないのか。
克哉くんに汚された身体は永遠にこのまま……
……
「翠くん、悲観するな。一生消えないはずはない。俺はそう思うよ。俺がもう少し若く現役の外科医だったら……君の傷のために動けるのに……」
海里先生は悔しそうに呟いた。
そのお言葉だけで充分です。
今までそこまで寄り添って下さるお医者さまはいなかった。
「俺はもう手術は無理なんだ。この通り手が少し不自由でね……」
海里先生が悔しそうに右手をあげると、小刻みに震えていた。
「そうだったのですね。ですが話を聞いていただけて、気持ちが軽くなりました」
「いや、俺以外にも誰か手術出来る人がいるはずだ。今はいなくてもきっとこの先出てくる。翠くん、だから諦めるな。少し俺なりに治療方法を考えさせてくれ」
「ありがとうございます」
希望なんて抱くだけ無駄だと思っていたのに、海里先生の言葉に引き上げられた。
「いいかい。万が一、その男ともう一度遭うことがあっても、もう背中は見せるな。そういう奴は逃げたら、興奮してどこまでも追ってくる。相手の恐怖が大好物なんだ。だから堂々としているんだよ。二度と寄せ付けるな。君は何も汚れていないのだから恥じることはない」
「あ……僕は逃げることしか考えていませんでした」
「君の気高さで跳ね飛ばすんだ。いいかい? その時は一人で解決しようとせずに、すぐに流くんを呼ぶんだぞ」
流のシャツの匂いを手繰り寄せた。
「はい、僕は流がいないと生きていけません」
「それでいい。君たちはもともと一つの魂だったのかもな。惹かれあって当然だ」
気高さで跳ね飛ばす。
そんな風に考えたことはなかった。
相手をしては駄目だ。
相手はまともじゃないのだから。
海里先生と話すことで、僕の気持ちは軽くなった。
「翠くんの傷も、いつか消える。君はまだ若く未来はまだ真っ白だ」
「はい! 僕にはすべきことがあります。月影寺に結界を張り巡らせ、大切な人が心置きなく安心して過ごせる世界を作ります」
「頑張れ! 翠くんになら出来る!」
これが海里先生と話した最後の会話だった。
次に僕が先生の所に行くと、病院はひっそりと閉院していた。
先生の行方は分からなかった。
柊一さんと一緒に『おとぎ話の世界』に戻って行かれたのかもしれない。
近い将来そうなると仰っていたので。
海里先生は、僕に沢山の『希望』を残して下さった。
僕はその希望を胸に、流と歩んで行く。
いつか辿り着きたい場所があるから。
震える手でボタンを一つ一つ外し、思い切って前を開いた。
「……ここだね。診てもいいかい?」
「はい、お願いします」
海里先生は、そのまま静かに火傷痕を見つめた。
先生の瞳の色は真っ黒ではなく青っぽいグレーをベースにヘーゼルカラーが入った複雑な色をしている。
とても深く穏やかな色で、僕の苦痛を包み込むように優しく診察して下さるので、それだけで泣いてしまいそうになる。
「傷痕に触れても?」
「はい」
「では失礼するよ」
白衣を着た海里先生は真剣な眼差しで、診察を続けて下さった。
彩乃さんにこの傷を初めて見せた時、彼女は「優等生さんが不良ごっこ? 意外ね」とせせら笑うだけで、不気味とは思わなかったようだが、僕には苦痛だった。
自分でも酷い有様だと思うので、もう誰にも見せたくなかった。これ以上傷つきたくなくて……
だが海里先生は別だ。
「翠くん、俺にこの傷を付けられた経緯を話してみないか。今まで誰にも言えなくて辛かっただろう……」
「あの……上手く話せるか分からないんです」
「独り言でいい。俺が拾うから」
「海里先生、僕は……」
「翠くん、君は背負い過ぎている。このままでは沈んでしまうぞ
「はい……」
ぽつりと吐き出してみると、不思議なことに言葉が溢れでてきた。
高校時代に出遭ってしまったこと。
親友の弟でうやむやにしてしまったこと。
流の卒業式で押し付けられた煙草。
その後、続いたこと。
耐えきれず、何もかも捨てて逃げ出したこと……
何もかも洗いざらい吐き出した。
海里先生の拳がぶるぶると震えている。
僕の屈辱に寄り添って下さっているのですか。
「……許せないな。最後にそいつに遭ったのはいつだ?」
「それは……視力を失った時です」
あの日、自暴自棄になってホテルのBARで流に似た男に身体を許そうとしてしまった。あの時、偶然見聞きした光景が押し寄せてくる。
克哉くんから逃げようと無我夢中で走っているうちに視力を失い、そのまま激しく転倒し救急車で運ばれた。
骨折と打撲で、気がついた時は病院のベッドで眠っていた。
母が枕元で泣いていたが、僕はまだ目を開けられず、そこに担当医が入ってきた。
……
「患者さんのお母様ですか」
「はい、この子は私の息子です。一体何が! 本当に事故なんですか。事件ではなく?」
「えぇ、一人で走ってきて転んだと」
「そうですか、一体どうしてあんな場所で……」
お母さん、心配かけてすみません。
心の中で謝っていると、医師が言い難そうに母に告げた。
「今回のは事件ではありませんが、息子さんの胸の火傷痕にお気づきでしたか? おそらく誰かにつけられたものでしょう。こちらの方が事件性がありそうです」
「え?」
「正直、何度も何度も執拗につけられたようで、かなり酷い火傷痕です。年月が経ちすぎていますので、一生治らないでしょう」
「そんな……」
一生治らない?
そうか、そうだったのか。
きっとそうだと思ってはいたが、深く絶望した。
もう消えないのか。
克哉くんに汚された身体は永遠にこのまま……
……
「翠くん、悲観するな。一生消えないはずはない。俺はそう思うよ。俺がもう少し若く現役の外科医だったら……君の傷のために動けるのに……」
海里先生は悔しそうに呟いた。
そのお言葉だけで充分です。
今までそこまで寄り添って下さるお医者さまはいなかった。
「俺はもう手術は無理なんだ。この通り手が少し不自由でね……」
海里先生が悔しそうに右手をあげると、小刻みに震えていた。
「そうだったのですね。ですが話を聞いていただけて、気持ちが軽くなりました」
「いや、俺以外にも誰か手術出来る人がいるはずだ。今はいなくてもきっとこの先出てくる。翠くん、だから諦めるな。少し俺なりに治療方法を考えさせてくれ」
「ありがとうございます」
希望なんて抱くだけ無駄だと思っていたのに、海里先生の言葉に引き上げられた。
「いいかい。万が一、その男ともう一度遭うことがあっても、もう背中は見せるな。そういう奴は逃げたら、興奮してどこまでも追ってくる。相手の恐怖が大好物なんだ。だから堂々としているんだよ。二度と寄せ付けるな。君は何も汚れていないのだから恥じることはない」
「あ……僕は逃げることしか考えていませんでした」
「君の気高さで跳ね飛ばすんだ。いいかい? その時は一人で解決しようとせずに、すぐに流くんを呼ぶんだぞ」
流のシャツの匂いを手繰り寄せた。
「はい、僕は流がいないと生きていけません」
「それでいい。君たちはもともと一つの魂だったのかもな。惹かれあって当然だ」
気高さで跳ね飛ばす。
そんな風に考えたことはなかった。
相手をしては駄目だ。
相手はまともじゃないのだから。
海里先生と話すことで、僕の気持ちは軽くなった。
「翠くんの傷も、いつか消える。君はまだ若く未来はまだ真っ白だ」
「はい! 僕にはすべきことがあります。月影寺に結界を張り巡らせ、大切な人が心置きなく安心して過ごせる世界を作ります」
「頑張れ! 翠くんになら出来る!」
これが海里先生と話した最後の会話だった。
次に僕が先生の所に行くと、病院はひっそりと閉院していた。
先生の行方は分からなかった。
柊一さんと一緒に『おとぎ話の世界』に戻って行かれたのかもしれない。
近い将来そうなると仰っていたので。
海里先生は、僕に沢山の『希望』を残して下さった。
僕はその希望を胸に、流と歩んで行く。
いつか辿り着きたい場所があるから。
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