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ジークフリート様と別れ、長い回廊を一人で歩く。
先ほど飲んだレモン水の爽やかな酸味が、口の中に微かに残っていた。その冷たさは熱を帯びていた思考を冷ましてくれる。
と同時に……ふと、古い記憶の蓋を開けさせた。
……ジェラルド殿下と初めてお会いした時のことだ。
まだお互いに幼かった頃。場所は王宮の薔薇園で……父に連れられて挨拶に向かった私は、そこで一人の少年が泣いているのを見つけた。
『どうしよう……兄上に笑われる……』
当時のジェラルド殿下は、優秀すぎる第一王子と常に比較され自信をなくしている気弱な少年だった。
その日も彼は、父王から課題として出された詩の暗唱ができず……植え込みの陰で膝を抱えていたのだ。
私は、泣いている彼にハンカチを差し出した。そうするべきだと思ったから。
『涙をおふきくださいませ、殿下』
私がそう声をかけると、彼は驚いた顔で顔を上げた。その瞳は怯えに揺れている。
足元には暗唱によく使われる、詩の教本が落ちている。
『……ぼくを笑いに来たのか?』
『まさか。ハンカチを持ってまいりました。それと……』
私は膝を折ってしゃがみ、ジェラルド様が暗じようとしている詩を示す。
『この詩でしたら……文のリズムをうかべてしまえば、かんたんに覚えられますわ』
私は彼に、暗記のコツを教えた。すると彼は目を閉じて何度か暗唱を繰り返し……それが性にあったのか、たどたどしくはあるが全てを諳んじるまでになった。
『こんなにすぐに覚えられるなんて……ヴィクトリア、君はすごいなっ』
『いいえ、あなた様ご自身の力です』
『……そうか!』
ジェラルド様は笑った。無邪気な笑顔だった。
その時、私は思ったのだ。この方は、決して無能ではない。ただ、少し自信がなくて……成長の機会すら失いそうになっているだけ。私が傍で支えて差し上げなければと。
けれど。
(……支えてあげなければ、など。傲慢だったのかもしれないわ)
それから十年。私たちの関係は……その日の薔薇園から一歩も進んでいなかったのかもしれない。
婚約が整い、私は彼のために全てを捧げた。
彼が苦手な勉強は私がノートをまとめた。彼が嫌がる公務は私が下準備を済ませた。彼が失言をしそうになれば、私が先回りしてフォローした。
『ヴィクトリア、助かったよ。ありがとう!』
最初のうちは、彼も感謝の言葉を口にしていた。 私も、彼が私を頼ってくれることが嬉しかった。
いつか彼が自信を持ち、私の手を離れて一人で歩ける日が来る。……そう信じて、インクで指を汚し続ける日々を誇りにすら思っていた。
……けれども、それは間違いだったのだ。
先ほど飲んだレモン水の爽やかな酸味が、口の中に微かに残っていた。その冷たさは熱を帯びていた思考を冷ましてくれる。
と同時に……ふと、古い記憶の蓋を開けさせた。
……ジェラルド殿下と初めてお会いした時のことだ。
まだお互いに幼かった頃。場所は王宮の薔薇園で……父に連れられて挨拶に向かった私は、そこで一人の少年が泣いているのを見つけた。
『どうしよう……兄上に笑われる……』
当時のジェラルド殿下は、優秀すぎる第一王子と常に比較され自信をなくしている気弱な少年だった。
その日も彼は、父王から課題として出された詩の暗唱ができず……植え込みの陰で膝を抱えていたのだ。
私は、泣いている彼にハンカチを差し出した。そうするべきだと思ったから。
『涙をおふきくださいませ、殿下』
私がそう声をかけると、彼は驚いた顔で顔を上げた。その瞳は怯えに揺れている。
足元には暗唱によく使われる、詩の教本が落ちている。
『……ぼくを笑いに来たのか?』
『まさか。ハンカチを持ってまいりました。それと……』
私は膝を折ってしゃがみ、ジェラルド様が暗じようとしている詩を示す。
『この詩でしたら……文のリズムをうかべてしまえば、かんたんに覚えられますわ』
私は彼に、暗記のコツを教えた。すると彼は目を閉じて何度か暗唱を繰り返し……それが性にあったのか、たどたどしくはあるが全てを諳んじるまでになった。
『こんなにすぐに覚えられるなんて……ヴィクトリア、君はすごいなっ』
『いいえ、あなた様ご自身の力です』
『……そうか!』
ジェラルド様は笑った。無邪気な笑顔だった。
その時、私は思ったのだ。この方は、決して無能ではない。ただ、少し自信がなくて……成長の機会すら失いそうになっているだけ。私が傍で支えて差し上げなければと。
けれど。
(……支えてあげなければ、など。傲慢だったのかもしれないわ)
それから十年。私たちの関係は……その日の薔薇園から一歩も進んでいなかったのかもしれない。
婚約が整い、私は彼のために全てを捧げた。
彼が苦手な勉強は私がノートをまとめた。彼が嫌がる公務は私が下準備を済ませた。彼が失言をしそうになれば、私が先回りしてフォローした。
『ヴィクトリア、助かったよ。ありがとう!』
最初のうちは、彼も感謝の言葉を口にしていた。 私も、彼が私を頼ってくれることが嬉しかった。
いつか彼が自信を持ち、私の手を離れて一人で歩ける日が来る。……そう信じて、インクで指を汚し続ける日々を誇りにすら思っていた。
……けれども、それは間違いだったのだ。
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