たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音は忘れない

夕月

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彼女との出会いと、指先の魔法

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「――はい、診察の結果、特に問題ないと。……はい、大丈夫です。またレッスンよろしくお願いします」
 見えてもいないのに頭を下げて、れんは通話を終えた。幼い頃から通っているピアノ教室の先生だけど、未だにレッスン以外で話すのは緊張する。
 はぁっと大きなため息をひとつ落とすと、蓮はベンチに腰を下ろして右手を太陽に透かした。初夏の強い日差しが、手のひらに突き刺さるような気がする。

「何の問題もない……だって。ドクターストップになれば、棄権できるかなぁって思ったのになぁ」
 体育の授業で傷めたと思っていた右手は、何度か握ったり広げたりしてみても違和感なく動く。大学病院での診察結果に間違いがあるわけもないだろうし、実際痛みは何もないのだから、いい加減現実を受け入れるべきだろう。
 それでも何となくやる気が起きなくて、蓮は病院の中庭にあるベンチから動くことができない。小さな子供の座る車椅子を押す看護師の姿や、リハビリ中なのかスタッフと一緒に杖をついてゆっくりと歩く老人の姿を見るともなしに眺めながら、蓮はため息をつく。
 
 物心ついた頃から習っているピアノは、好きだ。幼い頃からコンクールでそれなりの成績を残してきたし、今だって音大目指してレッスンに通っている。
 だけど所詮それなり、なのだ。上には上がいるし、どうしても越えられない壁を感じている。幼い頃は下手でももっと音楽を楽しめていたのに、最近はそれが難しいと感じることの方が多い。賞を獲るためだけに練習しているような気がして、そんな現状に蓮は少し疲れている。
 
「……怪我で棄権なら仕方ない……なんて、言い訳する暇あるなら練習しろってな」
 自嘲気味につぶやいて、蓮は目の前で指先をぱらぱらと動かしてみる。そのうち頭の中に流れ出したメロディを指先が辿り始め、蓮は右手を太腿の上で踊るように走らせる。こうしていたら、頭の中では理想的な音が鳴らせるのに。

「すご……、魔法みたい」
 不意にそばで聞こえた声に、蓮はハッとして手を止めた。
「あ、ごめんなさい。目にも止まらぬ速さで指が動くから、びっくりして声かけちゃった」
 目の前に見たことのない顔があって、蓮は思わず無言で観察してしまう。
 顎のラインですっきりと切り揃えられた黒髪に、きらきらと好奇心に輝く猫のような瞳。初めて見る顔だけど、かなりの美少女だ。恐らくは蓮と同世代であろう彼女は、平日の午前中だというのに白いワンピースに小さなポシェットだけという身軽な格好をしている。誰かの見舞いに来たのだろうか。
 
「ねぇ、ピアノ弾けるの?」
 少女は、小さく首をかしげた。絹糸のような髪がさらりと揺れるのに、思わず目を奪われる。
「あ、うん。一応……」
 無邪気に話しかけてくる美少女に若干気後れしつつうなずくと、彼女はわぁっと歓声をあげて輝くような笑顔を浮かべた。
「やっぱり! すごいなぁ、ねぇ、もう一度指動かしてみせて」
「いや、さっきのは無意識っていうか、そんな人に見せるもんじゃないし」
 慌てて首を振る蓮を見て、少女はそっと蓮の手に触れた。ひんやりとした細い指先の感触に、思わず小さく息をのむ。
「だって、魔法みたいだったの。鍵盤もないのに、指先からきらきらした音が流れ出しているように見えたわ」
「……きらきらした、音」
 少女の言葉は、蓮の心の深いところに突き刺さった。
 このところ、もっときらきらとした音を出せるようにと頭を悩ませているのだ。本番が近いのに、蓮は未だに理想の音を掴めずにいる。
「ね、それなら実際に弾いてみせてよ」
 握った手をぐいっと引っ張られて、蓮は思わずベンチから立ち上がる。
「や、弾くったって、ピアノなんかどこにも」
「大丈夫、来て!」
 少女は蓮の手を引いたまま、軽やかに駆け出す。
「待っ……」
 止める間もなく、蓮も少女に引っ張られるようにして走り出した。
 

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