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きみのために紡ぐ音
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翌朝、蓮は朝早くに目覚めた。
枕元に置いた携帯電話を確認すると、雛子からのメッセージが入っている。
寝ずに夜を明かしたこと、そしてやはり眠らなければ詩音の記憶は保たれるようで、蓮のことも昨日出会った雛子のことも覚えているようだと綴られている。
詩音が、まだ蓮のことを覚えていてくれることに少し安心する気持ちはあるけれど、いつまでも睡眠をとらずにいるわけにはいかない。
きっと今日が、詩音が蓮を覚えている最後の日になるだろう。
彼女の記憶の中に、蓮の弾くピアノだけでも残ればいいなと思いながら、携帯電話を置くと蓮は着替え始めた。
コンクールの会場は、隣の市にある大きなホール。綺麗なドレスで溢れる出場者の人波を縫いながら、蓮はロビーで詩音を探す。
「蓮くん!」
その声に振り向くと、手を振る詩音と付き添いの雛子と相馬の姿があった。
「来てくれてありがとう。ヒナちゃんも、相馬先生も、ありがとうございます」
駆け寄った蓮の前に、にこにこと笑顔の詩音が飛び出してきた。
「ひなちゃんと、頑張って起きてたんだ。でも、興奮してるのか全然眠くないの。すごく楽しみ!」
先日のデートの時にも着ていた青いギンガムチェックのワンピースを身に纏った詩音は、一睡もしていないはずなのに体調は良さそうだ。
「スーツ姿の蓮くんもかっこいいねぇ。すごく似合ってる」
プログラムを見たり、蓮の服装を褒めてくれたりと、詩音はご機嫌な様子だ。そんな彼女を、雛子と相馬が黙って見守っている。
◇
「頑張ってね、蓮くん」
詩音の言葉に見送られて、蓮は舞台袖へと向かう。出番は4番目。蓮の前に弾いた誰もが間違いなく上手で、本当にすごいなぁと感嘆のため息が落ちる。
心を落ち着かせようとゆっくりと深呼吸を繰り返していると、舞台袖に付き添ってくれた本間が、黙って肩を叩いてくれた。
名前を呼ばれて、明るい舞台へとゆっくり足を踏み出す。しんと静まり返った中、客席の中央に詩音が緊張した面持ちで座っているのが見えて、蓮の顔に少しだけ笑みが浮かんだ。
ホールの真ん中に置かれたグランドピアノは、ライトに照らされてきらきらと輝きながら蓮を待っている。
椅子に座り、ペダルに足を置いて高さを確かめる。自分にとってのベストなポジションに椅子の位置を調整するのは、心を落ち着かせるための蓮のいつものルーティン。
ふうっと息を吐いて一度目を閉じ、集中力を高めてからそっと指を鍵盤の上に置く。
――詩音ちゃん、聴いてて。
そう想いを込めて鳴らした一音目は、低く深い音を響かせる。
静かなホールに広がっていく、アルペジオ。
と同時に、客席が微かにざわついたのが分かり、蓮は小さく苦笑を浮かべた。
蓮が弾き始めたのはコンクールの課題曲ではなく、詩音が好きな、リストの『ため息』。
途中で止められるかもしれない。本間にはきっと怒られるだろう。
だけど、詩音に最後に聴いてもらう曲は、やっぱりどうしてもこの曲でありたかったのだ。
切なく美しいメロディに、蓮は詩音への想いを乗せて奏でる。
出会った時からずっと、いつも輝くような笑顔を見せてくれていた詩音。記憶を失くすという恐怖に怯えないはずはないのに、ほとんど涙を見せずに明るく生きていた詩音。
彼女が蓮の名前を呼ぶ時の柔らかな声が、たまらなく好きだ。蓮の弾くピアノを、頬を紅潮させて喜んでくれるその笑顔に、どれほど救われただろう。
蓮が詩音のためにできることなんて、ほとんどない。
だから、せめてこの音だけは彼女の心に残るように。
きらきらとした光のような音だと言ってくれた詩音のためだけに、蓮は鍵盤の上に指を走らせる。
指先が奏でた音は、きらきらと輝きながら詩音の方へと向かっていく。想いを込めたこの音が、詩音の心の中に染み込んでいくようにと願いながら、蓮は壊れそうなほどに繊細な響きで高音を鳴らした。
――俺のことを忘れても、この音だけは覚えていて。
直接伝えたことはないけれど、誰よりも大切な人なんだという気持ちを込めて。
愛してるなんて、言葉にしたら恥ずかしくてたまらないけれど、こうして音に込めることならいくらでもできる。
誰もいなくなった彼女の世界に、この音がどうか響いていますように。
そう祈りながら、蓮はひたすらにピアノを弾く。
幸いにも、途中で制止されることなく、蓮は最後の音をゆっくりと鳴らした。
立ち上がって座席を見つめると、嗚咽を堪えるように口元に手をやった詩音と目が合った。その瞬間、彼女が泣き笑いのような表情を浮かべるから、蓮は詩音に向かって深く頭を下げた。
戸惑ったようにパラパラと生じた拍手の音は、やがて会場全体に広がっていく。
失格は間違いないけれど、やりきった感はあるから、後悔はしていない。
蓮は堂々とステージをあとにした。
枕元に置いた携帯電話を確認すると、雛子からのメッセージが入っている。
寝ずに夜を明かしたこと、そしてやはり眠らなければ詩音の記憶は保たれるようで、蓮のことも昨日出会った雛子のことも覚えているようだと綴られている。
詩音が、まだ蓮のことを覚えていてくれることに少し安心する気持ちはあるけれど、いつまでも睡眠をとらずにいるわけにはいかない。
きっと今日が、詩音が蓮を覚えている最後の日になるだろう。
彼女の記憶の中に、蓮の弾くピアノだけでも残ればいいなと思いながら、携帯電話を置くと蓮は着替え始めた。
コンクールの会場は、隣の市にある大きなホール。綺麗なドレスで溢れる出場者の人波を縫いながら、蓮はロビーで詩音を探す。
「蓮くん!」
その声に振り向くと、手を振る詩音と付き添いの雛子と相馬の姿があった。
「来てくれてありがとう。ヒナちゃんも、相馬先生も、ありがとうございます」
駆け寄った蓮の前に、にこにこと笑顔の詩音が飛び出してきた。
「ひなちゃんと、頑張って起きてたんだ。でも、興奮してるのか全然眠くないの。すごく楽しみ!」
先日のデートの時にも着ていた青いギンガムチェックのワンピースを身に纏った詩音は、一睡もしていないはずなのに体調は良さそうだ。
「スーツ姿の蓮くんもかっこいいねぇ。すごく似合ってる」
プログラムを見たり、蓮の服装を褒めてくれたりと、詩音はご機嫌な様子だ。そんな彼女を、雛子と相馬が黙って見守っている。
◇
「頑張ってね、蓮くん」
詩音の言葉に見送られて、蓮は舞台袖へと向かう。出番は4番目。蓮の前に弾いた誰もが間違いなく上手で、本当にすごいなぁと感嘆のため息が落ちる。
心を落ち着かせようとゆっくりと深呼吸を繰り返していると、舞台袖に付き添ってくれた本間が、黙って肩を叩いてくれた。
名前を呼ばれて、明るい舞台へとゆっくり足を踏み出す。しんと静まり返った中、客席の中央に詩音が緊張した面持ちで座っているのが見えて、蓮の顔に少しだけ笑みが浮かんだ。
ホールの真ん中に置かれたグランドピアノは、ライトに照らされてきらきらと輝きながら蓮を待っている。
椅子に座り、ペダルに足を置いて高さを確かめる。自分にとってのベストなポジションに椅子の位置を調整するのは、心を落ち着かせるための蓮のいつものルーティン。
ふうっと息を吐いて一度目を閉じ、集中力を高めてからそっと指を鍵盤の上に置く。
――詩音ちゃん、聴いてて。
そう想いを込めて鳴らした一音目は、低く深い音を響かせる。
静かなホールに広がっていく、アルペジオ。
と同時に、客席が微かにざわついたのが分かり、蓮は小さく苦笑を浮かべた。
蓮が弾き始めたのはコンクールの課題曲ではなく、詩音が好きな、リストの『ため息』。
途中で止められるかもしれない。本間にはきっと怒られるだろう。
だけど、詩音に最後に聴いてもらう曲は、やっぱりどうしてもこの曲でありたかったのだ。
切なく美しいメロディに、蓮は詩音への想いを乗せて奏でる。
出会った時からずっと、いつも輝くような笑顔を見せてくれていた詩音。記憶を失くすという恐怖に怯えないはずはないのに、ほとんど涙を見せずに明るく生きていた詩音。
彼女が蓮の名前を呼ぶ時の柔らかな声が、たまらなく好きだ。蓮の弾くピアノを、頬を紅潮させて喜んでくれるその笑顔に、どれほど救われただろう。
蓮が詩音のためにできることなんて、ほとんどない。
だから、せめてこの音だけは彼女の心に残るように。
きらきらとした光のような音だと言ってくれた詩音のためだけに、蓮は鍵盤の上に指を走らせる。
指先が奏でた音は、きらきらと輝きながら詩音の方へと向かっていく。想いを込めたこの音が、詩音の心の中に染み込んでいくようにと願いながら、蓮は壊れそうなほどに繊細な響きで高音を鳴らした。
――俺のことを忘れても、この音だけは覚えていて。
直接伝えたことはないけれど、誰よりも大切な人なんだという気持ちを込めて。
愛してるなんて、言葉にしたら恥ずかしくてたまらないけれど、こうして音に込めることならいくらでもできる。
誰もいなくなった彼女の世界に、この音がどうか響いていますように。
そう祈りながら、蓮はひたすらにピアノを弾く。
幸いにも、途中で制止されることなく、蓮は最後の音をゆっくりと鳴らした。
立ち上がって座席を見つめると、嗚咽を堪えるように口元に手をやった詩音と目が合った。その瞬間、彼女が泣き笑いのような表情を浮かべるから、蓮は詩音に向かって深く頭を下げた。
戸惑ったようにパラパラと生じた拍手の音は、やがて会場全体に広がっていく。
失格は間違いないけれど、やりきった感はあるから、後悔はしていない。
蓮は堂々とステージをあとにした。
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