たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音は忘れない

夕月

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そして誰もいなくなった

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「まったく、何をしでかすかと思ったら。……こっちの寿命が縮んでしまうわ」
 舞台袖に戻った蓮を、苦笑混じりの本間が出迎えてくれた。
 蓮と入れ替わりに舞台に出て行った少女も、そして出番を待つ出場者たちも、ちらちらと蓮を見ている。
「すみません。どうしても、あの曲じゃないとだめだったんです」
 頭を下げた蓮に、本間のため息混じりの笑い声が降ってくる。
「誰かのために……って言ったのは、こういう意味じゃなかったんだけど」
「すみません」
 もう一度頭を下げて、蓮は客席に戻るべく歩き出す。
 動揺させてしまった他の出場者に申し訳ない気持ちは少しあるけれど、これくらいで動じてミスをするような人はここにはいない。むしろ、ライバルが一人減ったと思ってくれればいい。
 ロビーに出る頃には、次の演奏が始まっていた。動揺など感じさせない軽やかな演奏が、微かに聴こえてくる。

「あの演奏を聴かせたい相手が、今日ここにいたのね」
 本間が、ぽつりとつぶやく。無言でうなずいた蓮に、彼女は小さく笑みを浮かべた。
「壮大なラブレターみたいな演奏だったわ。正直、ちょっと泣けたわよ。蓮があんな情熱を秘めていたなんて、知らなかったわ」
 まぁ、失格は間違いなしだけどと言いながらも、本間は笑顔だ。
「すみません」
 何度目かも分からない謝罪の言葉を口にしながら頭を下げた蓮の肩を、本間は笑いながら叩く。
「案外話題になるかもよ。すごくいい演奏だったから。それはともかく、来週もレッスンはあるんだから、しっかりと練習しておいてね」
 教本の譜読みをしておいてと命じられ、蓮は苦笑いしつつうなずいた。

 本間と別れ、演奏が途切れたタイミングでホールへ入ろうと蓮がドアを開けたところで、雛子が飛び出してきた。その表情は、泣く寸前のように歪んでいる。
「蓮……っ、詩音が……」
「え……」
「来て」
 雛子に腕を引かれ、蓮は詩音の座る座席へと向かう。
 振り返った相馬が、唇を噛んで視線で詩音を見ろと促した。
 ゆっくりと詩音の方に視線を向けた蓮は、思わず息をのむ。

 座席にもたれかかるようにして、穏やかな表情で眠る詩音。その頬には、幾筋もの涙の跡が残っている。
「蓮くんの演奏が終わってすぐ、眠ってしまった」
 相馬の言葉を聞きながら、蓮は詩音の隣に座ってその手を握った。あたたかいけれど、握り返してくれることのない手に、胸が詰まる。
 昨晩は一睡もしていないのだから、きっと限界だったのだろう。蓮の演奏が終わるまではと、必死に起きていてくれたのかもしれない。
 だけどきっと、目覚めた詩音は、蓮のことを覚えていないだろう。
 最後に向けられた、泣き笑いのような表情を思い出して、蓮はこみ上げた涙を堪えてうつむいた。

 ◇

 休憩時間を利用して、蓮たちは会場を出た。
 穏やかな表情で目を閉じる詩音は、相馬に抱き上げられても、車に乗せられても、一向に目を覚さない。
 蓮は、ただそばにいて手を握ることしかできない。

 病院に戻り、ベッドに横たえられても詩音が目覚めることはなく、診察にやってきた金居も、ただ深い眠りにあるとしか言えないとため息をついた。
 昨晩の徹夜のせいで、ただ眠っているだけだと思いたい。
 だけど、全ての人物の記憶を失ったあとは眠り続ける症例もあると聞かされているから、詩音が目覚めないことが恐ろしくてたまらない。
「詩音ちゃん、起きて。俺のことを覚えていなくても構わないから、起きて」
 動かない手を握って、蓮は囁く。
 目覚めて欲しいと願いながらも、もしかしたらこのまま眠り続けていた方が、詩音は幸せなのかもしれないと、蓮はぼんやりと考えていた。
 誰も知っている人のいない孤独な世界で生きるよりも、優しい夢の中にいた方が、詩音のためかもしれない。
 目を覚まして欲しいなんて、蓮の勝手な我儘なのかもしれない。
 相反する感情を抱えながら詩音の手を握っていると、不意にその指先が微かに震えた。
「……っ、詩音ちゃん?」
 思わず立ち上がった蓮の目の前で、詩音の目蓋がゆっくりと開いていく。

 ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返したあと、黒い瞳がぼんやりと蓮を見つめる。
「詩音、ちゃん」
 掠れた声で名前を呼ぶと、詩音がふわりと笑みを浮かべた。
 もしかして、と目の前が明るくなったように感じた次の瞬間、詩音の唇は残酷な真実を紡ぐ。

「……だれ?」
 ゆっくりと身体を起こした詩音は、蓮を見つめて小さく首をかしげた。ほとんど寝癖のつかないまっすぐな髪が、さらりと揺れる。
 蓮は、詩音の手を握りしめると笑顔を浮かべた。彼女が警戒しないように、優しい表情になっていますようにと願いながら。
「佐倉 蓮、といいます。詩音ちゃんのことが、大好きなんだ」
「蓮くん」
 噛みしめるようにつぶやいた詩音は、戸惑ったように蓮の方に手を伸ばした。
「どうして泣いてるの?」
 少し冷たい、ほっそりとした指先が蓮の頬にそっと触れる。涙を拭ってくれる指の優しさに、新たな涙がこぼれ落ちるのを感じながら、蓮は泣き笑いの表情を浮かべた。
「うん、ごめん。大好きな気持ちがあふれちゃった」
「ふふ、変な人」
 くすりと笑った詩音が、ベッドサイドに置かれたティッシュを差し出してくれる。
 あとからあとから流れてくる涙を拭き取りながら、蓮は必死に笑顔を浮かべた。
「そんなに泣かないで」
 困ったように蓮を見上げた詩音は、まるで小さな子供にするように頭を撫でてくれる。その手の優しさに、また涙が止まらなくなると思っていると、ふとその手が止まった。

「蓮くん……に、手紙。手帳の中」
 戸惑ったような口調でつぶやく詩音を見ると、彼女は自分の左腕を見つめていた。そこにはペンで何やら文字が書かれている。
 白いカーディガンを羽織っていたので気づかなかったけれど、腕を伸ばしたことで袖口が捲れ上がって文字が見えるようになったらしい。
 きっと、記憶が残っているうちに書かれたその文字を、詩音は指先でなぞったあと、そばに置かれた手帳に手を伸ばした。

「手紙って、これかな」
 詩音が取り出したのは、青空模様の封筒。そこには確かに詩音の筆跡で、『蓮くんへ』と書かれている。
 一緒に挟まれていたのは、以前に二人で撮った写真。
 楽しそうに顔を寄せ合って笑う二人の顔に指先で触れて、詩音がため息をつきながら笑った。
「ごめんね、きっと蓮くんは私の大事な人だったんだよね。だけどもう、何も覚えていないの」
 うつむいてつぶやいたあと、詩音はゆっくりと封筒を蓮に差し出した。
「多分、覚えてるうちにって何か書いたんじゃないかな。読んでもらえたら、嬉しいな」
「ありがとう」
 少し震えた手が握りしめる手紙を、蓮はそっと受け取った。

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