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 門の前の衛士に挨拶をしたあと、ファテナは館の中へと足を進めた。すれ違う村人が深く頭を下げるのに会釈を返しながら、あちこちにある灯りの下で精霊に願って火を灯す。
 最後にたどり着いたのは、館の最奥。精霊の言葉通り、窓から見える空はすでに暗く、今にも雨が降り出しそうだ。
大きな扉の前でファテナは小さく深呼吸をすると、ゆっくりと中に足を踏み入れた。
「失礼します、お父様。火を灯しに参りました」
 広い部屋の中には、両親と妹の姿があった。どうやら食事の時間だったらしく、テーブルの上には数えきれないほどのごちそうが並んでいる。肉の焼ける香ばしい匂いや、香草で蒸した魚の匂いに、知らずファテナは唾を飲み込んでいた。
「挨拶なんぞどうでもいい、早く火を灯せ。こう暗くては何も見えん。日が暮れるまでに来いといつも言っているだろう」
「……申し訳ありません」
 小さく謝罪の言葉をつぶやいて、ファテナは部屋の中に火を灯していく。本来ならまだ日暮れの時間ではないこと、今日は天候のせいでいつもより暗くなるのが早いことなど、説明しても分かってもらえるはずがない。言い訳をして叱られるくらいなら、黙って仕事をこなした方がいい。
 両親や妹も、精霊の力を使うことができるはずなのだが、彼らは決してその力を使おうとしない。誰よりもうまく精霊の力を使えるファテナがいるのだから、わざわざ自分たちが力を使うまでもないと、父親はいつも言う。
 部屋の中にはたくさんの蝋燭があるので、全てに火を灯すだけでもかなりの時間がかかる。ひとつひとつの燭台の下で精霊に願いながら火を灯すファテナのことなど、まるで見えていないかのように、家族は楽しそうに笑いながら食事を続けていた。
 
「ファテナ、ここにも火を灯してちょうだい」
 鮮やかな色の羽扇子を優雅に揺らしながら、母親が手招きをする。彼女専用の金色の燭台を指さされて、ファテナは黙ってそれに従う。
「お姉様、こちらにも火をいただける?」
 テーブルの反対側に座った妹のディアドが、同じように手招きをした。部屋の中もテーブルの上も、すでにまぶしいほどに明るいのに、彼女らはいつも自分だけの灯りを要求する。
 妹のそばまで行き、宝石がいくつもはめ込まれた高価そうな燭台に火を灯そうと目を閉じた瞬間、肩から下げた布鞄をぐいっと引っ張られた。
 よろめきかけたのを何とかこらえて火を灯し、目を開けたファテナの前でディアドが鞄の中から黄色い果実を取り上げていた。真っ赤な紅を塗った唇が、にぃっと上がるのを見て、ファテナは一瞬だけ顔をしかめる。いつもは一度小屋に戻って荷物を置いてから館に向かうのに、今日は天候を気にして鞄を持ったままにしていたのを忘れていた。
「ねぇ、お姉様。これはなぁに?」
 全ての指にぎらぎらと輝く指輪をはめた手で果実を検分するようにしながら、ディアドがにやにやと笑ってファテナの顔をのぞき込む。
「それ、は」
「シュクリの実よねぇ。今年の初物かしら。まだお父様のもとにも献上されていないものを、どうしてお姉様が持っているの?」
 村人はファテナに収穫した野菜や果実をくれることがあるが、家族はそれをよく思っていない。一番敬われるのは長であるべきだという理由からだ。
 こうして抜き打ちで荷物を確認され、分けてもらった食べ物を没収されるのはよくあることだ。
 それでもこの果実だけは隠し通したかったのにと、ファテナはうつむいて唇を噛む。自分が収穫したのだと誇らしげに笑う少女の顔が、脳裏をよぎる。
「もしかしてこれ、誰かがお姉様にくれたのかしら。そんなわけないわよねぇ? 長であるお父様よりも先に、お姉様にシュクリの実を渡す者なんて、いるはずないものね?」
 ディアドの言葉に、ファテナは慌てて首を横に振る。あの親子が罰を受けるようなことは避けなければならない。
 ファテナはゆっくりとその場に膝をつくと、深く頭を下げた。
「申し訳、ありません。あの、お腹が……空いて、ひとつ勝手にいただきました」
「まぁお姉様ったら、卑しいわ。空腹に耐えかねて盗んだというの? 精霊の怒りをかうような真似をされては困るのよ。お姉様は、大事な大事な巫女姫様なんだから」
 大袈裟な声音でそう言ったディアドが呆れたようにため息をつく。強く目を閉じ、ファテナは黙って頭を下げ続けた。
 目立つことが大好きな妹は、ファテナが精霊に愛され、村人に慕われていることが我慢ならないのだ。大事な巫女姫様と言いながら、会うたびにディアドはファテナに様々な嫌がらせをしてくる。
 もしもあの親子から果物をもらったことを知られれば、彼女はきっとあの子にも酷い罰を与えるに違いない。
「ディアド、そのくらいにしておきなさいな。ファテナだって謝っているじゃない。お腹が空いていたなんて、哀れでしょう」
 とりなすような母親の声も聞こえるが、その声音は笑みを隠せていない。ファテナを産んですぐに亡くなった先妻の娘であるファテナよりも、血を分けた娘であるディアドを可愛がるのは昔からのことだ。
「そうよね、お腹を空かせた巫女姫様だなんて、可哀想だものね。お姉様、良かったらこちらをお食べになる?」
 くすくすと笑いながら、ディアドが皿の上から食べかけの骨つき肉を取り上げるとファテナの目の前に差し出した。それでも動こうとしないファテナを見て、ディアドはわざとらしい表情であぁそうだと声をあげた。
「あらいやだ、あたしったらうっかりしていたわ。巫女姫様は、肉を食べられないんだったわね。精霊は殺生を嫌うもの、肉や魚を口にするなんてできないわよね。ごめんなさいね、お姉様」 
「私たちだって、あなたが憎くて食事を制限しているわけではないのよ。だけど何より優先されるべきは精霊でしょう。分かるわよね、ファテナ」
「はい、お母様」
 うなずいて頭を下げたファテナを見て、母親は満足そうに微笑んだ。
「仕方ないから、そのシュクリの実を恵んであげなさいな。いいでしょう、あなた」
 母親の問いかけに、長である父はファテナの方を見ようともせずに好きにしろと言った。
「お母様の優しさに感謝してね、お姉様」
 微笑みを浮かべながら、ディアドは手に持ったシュクリの実をぽいと床に転がした。よく熟れた柔らかな果実は、その衝撃でひしゃげてしまう。
「……ありがとうございます」
 平坦な声でつぶやくと、ファテナはシュクリの実を拾って部屋をあとにした。
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