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翌朝目覚めるとザフィルはすでにいなくなっていたが、寝台に微かに残ったぬくもりから少し前まではここにいたことが分かる。一緒に眠ったのは初めてかもしれないと思いながら、ファテナはゆっくりと身体を起こした。すぐにアディヤがやってきて、身体を清めたり着替えの手伝いをしてくれる。
捕虜という立場なのに、家族よりもアディヤの方がよっぽど親切に接してくれる。だけどそれはきっと、ファテナがザフィルの所有物だからだ。ザフィルに気に入られなければ、ファテナの命どころか元ウトリドの民の命すら脅かされる。少しでも彼の寵愛を得られるよう、努力しなければ。自分には不要だからと、閨事に関する知識を積極的に得てこなかったことが悔やまれる。
時々、森の中でウトリド族の若者たちが睦みあうのを見かけたことを、ファテナは思い出した。早朝や陽が落ちてから外を出歩くことの多かったファテナは、彼らのそういった場面に遭遇することも少なくなかったのだ。
恋人たちの逢瀬を邪魔するわけにはいかないので遠目に見ただけだが、彼らと同じようなことを自分がしている現状に、複雑な気持ちになる。
ぼんやりとそんなことを考えていると、アディヤが目の前に小さな札のようなものを置いた。白い布に包まれていて、革紐が通されている。
「これは?」
「ザフィル様からです。常に身につけておかれるように、と」
促されて、ファテナは札を手に取った。その瞬間甘い香りがたちのぼり、精霊の嫌う香と同じものであることが分かった。目を離している隙に勝手に精霊を呼ぶようなことがないように、という理由からだろう。
もっとも、今のファテナが精霊を呼べるとは思わないけれど。この甘い香りも、初めて嗅いだ時は吐き気を催すほどに嫌だと思ったのに今はそれほど不快に感じないのは、精霊との縁が切れたからなのか。
「分かりました」
うなずいて、ファテナは革紐を首にかけた。胸のあたりで揺れる小さな札は、ほんのりと甘い香りを振りまいてファテナの身体を包み込むようだ。
「今日は天気もいいし、庭に出てみませんか」
じっと札を見つめていたファテナは、ふいにアディヤに話しかけられて慌てて顔を上げた。
「庭に……。えぇ、ぜひ。どんな花が咲いているか見てみたいと思っていたの」
「あまり広くはありませんが、外でお茶を飲むのも気分転換になっていいかもしれませんね」
「それは素敵ね。ありがとう、アディヤさん」
「アディヤで結構ですよ、ファテナ様。では早速行きましょうか。一通り散策したあとは、お茶を淹れましょうね」
微笑んだアディヤに促されて、ファテナは立ち上がった。
庭はこじんまりとしていたものの、様々な植物が植えられていて華やかだった。雑草ひとつない花壇を見れば、アディヤが毎日丁寧に世話をしていることが分かる。
「綺麗ね。本当に素敵な庭だわ」
「そう言っていただけると嬉しいです。油断するとそこの蔓がどんどん伸びてきてしまうから、実は苦労してるんですよ。若い蔓は弾力があって、なかなか切れないんです」
あぁまただと言って、アディヤは塀に巻きつく蔓が手前の花壇に進出しかけているのを見て困ったように笑いながら小さくため息をついてみせる。
「それなら、私にも手伝わせて。畑仕事を手伝うこともあったし、こう見えて体力には自信があるのよ」
「お申し出は嬉しく思いますが、残念ながらそれは承知いたしかねます」
きっぱりとそう言って断られ、ファテナは少し残念な気持ちになる。少しでも何かの役に立ちたかったのだが、確かに蔓を切るための刃物を捕虜に扱わせるようなことは許されないだろう。ちらりと見上げた柵は高く、天辺には脱走防止のためか鋭い針のような装飾が施されている。結局ファテナにできるのは、おとなしくここで暮らしながらザフィルに抱かれることだけだと、何度目かも分からない現実を突きつけられる。
「えぇと、ほら、万が一怪我なんてさせてしまったら、ザフィル様にどんな叱責を受けるか分かりませんもの。何か他の……危険のない過ごし方を考えましょう」
ファテナの表情が暗くなったことに気づいたのか、アディヤが殊更に明るい声をあげる。それに礼を言って、ファテナは笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、余計なことを言ってしまったわ。日差しが強いから……部屋に戻るわね」
そう言ってファテナはアディヤに背を向けた。夜になればまた、ザフィルが来るだろう。昼のうちは眠って体力を温存していた方がいいのかもしれない。再び寝台に横になったファテナを見てアディヤはしばらく黙っていたが、やがてすぐ戻ると言い置いて部屋を出て行った。
何をするでもなくぼんやりと横になって天井を眺めていたファテナのもとに息を切らしたアディヤが戻ってきたのは、陽が高く昇った昼前だった。
「こういうのがお好きかどうかは、分からないんですけど」
そう言って差し出されたのはたくさんの本、そして針と糸だった。
「私、昔から身体を動かす方が好きで、こういったものに疎いんです。だから本も何がいいか分からなかったんですけど」
「ありがとう。読書は好きだし、刺繍も得意なの。でも、針とはいえ凶器になりうるものを私が扱っても大丈夫なのかしら。もちろん、縫い物以外に使うつもりはないけど」
「それは、問題ないかと。たとえファテナ様がそれを武器として扱おうとも、私が負けることはありませんし、そんなことが起こりえないことも分かっておりますから」
にっこりと笑ったアディヤは、ファテナに見せつけるようにしながら腕に力を込めた。細身に見えてしっかりとついた筋肉が隆起して、確かに戦ったことのないファテナに敵うわけがないと思う。
「じゃあ……空いた時間は刺繍や読書をさせてもらえたら、嬉しい」
「もちろんです。あぁ、お分かりかと思いますが、私に針を持たせたら糸を通す段階で日が暮れること間違いなしですから、手伝いは期待しないでくださいね」
悪戯っぽい表情でそんなことを言うアディヤにつられて、ファテナもつい笑みを浮かべた。
捕虜という立場なのに、家族よりもアディヤの方がよっぽど親切に接してくれる。だけどそれはきっと、ファテナがザフィルの所有物だからだ。ザフィルに気に入られなければ、ファテナの命どころか元ウトリドの民の命すら脅かされる。少しでも彼の寵愛を得られるよう、努力しなければ。自分には不要だからと、閨事に関する知識を積極的に得てこなかったことが悔やまれる。
時々、森の中でウトリド族の若者たちが睦みあうのを見かけたことを、ファテナは思い出した。早朝や陽が落ちてから外を出歩くことの多かったファテナは、彼らのそういった場面に遭遇することも少なくなかったのだ。
恋人たちの逢瀬を邪魔するわけにはいかないので遠目に見ただけだが、彼らと同じようなことを自分がしている現状に、複雑な気持ちになる。
ぼんやりとそんなことを考えていると、アディヤが目の前に小さな札のようなものを置いた。白い布に包まれていて、革紐が通されている。
「これは?」
「ザフィル様からです。常に身につけておかれるように、と」
促されて、ファテナは札を手に取った。その瞬間甘い香りがたちのぼり、精霊の嫌う香と同じものであることが分かった。目を離している隙に勝手に精霊を呼ぶようなことがないように、という理由からだろう。
もっとも、今のファテナが精霊を呼べるとは思わないけれど。この甘い香りも、初めて嗅いだ時は吐き気を催すほどに嫌だと思ったのに今はそれほど不快に感じないのは、精霊との縁が切れたからなのか。
「分かりました」
うなずいて、ファテナは革紐を首にかけた。胸のあたりで揺れる小さな札は、ほんのりと甘い香りを振りまいてファテナの身体を包み込むようだ。
「今日は天気もいいし、庭に出てみませんか」
じっと札を見つめていたファテナは、ふいにアディヤに話しかけられて慌てて顔を上げた。
「庭に……。えぇ、ぜひ。どんな花が咲いているか見てみたいと思っていたの」
「あまり広くはありませんが、外でお茶を飲むのも気分転換になっていいかもしれませんね」
「それは素敵ね。ありがとう、アディヤさん」
「アディヤで結構ですよ、ファテナ様。では早速行きましょうか。一通り散策したあとは、お茶を淹れましょうね」
微笑んだアディヤに促されて、ファテナは立ち上がった。
庭はこじんまりとしていたものの、様々な植物が植えられていて華やかだった。雑草ひとつない花壇を見れば、アディヤが毎日丁寧に世話をしていることが分かる。
「綺麗ね。本当に素敵な庭だわ」
「そう言っていただけると嬉しいです。油断するとそこの蔓がどんどん伸びてきてしまうから、実は苦労してるんですよ。若い蔓は弾力があって、なかなか切れないんです」
あぁまただと言って、アディヤは塀に巻きつく蔓が手前の花壇に進出しかけているのを見て困ったように笑いながら小さくため息をついてみせる。
「それなら、私にも手伝わせて。畑仕事を手伝うこともあったし、こう見えて体力には自信があるのよ」
「お申し出は嬉しく思いますが、残念ながらそれは承知いたしかねます」
きっぱりとそう言って断られ、ファテナは少し残念な気持ちになる。少しでも何かの役に立ちたかったのだが、確かに蔓を切るための刃物を捕虜に扱わせるようなことは許されないだろう。ちらりと見上げた柵は高く、天辺には脱走防止のためか鋭い針のような装飾が施されている。結局ファテナにできるのは、おとなしくここで暮らしながらザフィルに抱かれることだけだと、何度目かも分からない現実を突きつけられる。
「えぇと、ほら、万が一怪我なんてさせてしまったら、ザフィル様にどんな叱責を受けるか分かりませんもの。何か他の……危険のない過ごし方を考えましょう」
ファテナの表情が暗くなったことに気づいたのか、アディヤが殊更に明るい声をあげる。それに礼を言って、ファテナは笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、余計なことを言ってしまったわ。日差しが強いから……部屋に戻るわね」
そう言ってファテナはアディヤに背を向けた。夜になればまた、ザフィルが来るだろう。昼のうちは眠って体力を温存していた方がいいのかもしれない。再び寝台に横になったファテナを見てアディヤはしばらく黙っていたが、やがてすぐ戻ると言い置いて部屋を出て行った。
何をするでもなくぼんやりと横になって天井を眺めていたファテナのもとに息を切らしたアディヤが戻ってきたのは、陽が高く昇った昼前だった。
「こういうのがお好きかどうかは、分からないんですけど」
そう言って差し出されたのはたくさんの本、そして針と糸だった。
「私、昔から身体を動かす方が好きで、こういったものに疎いんです。だから本も何がいいか分からなかったんですけど」
「ありがとう。読書は好きだし、刺繍も得意なの。でも、針とはいえ凶器になりうるものを私が扱っても大丈夫なのかしら。もちろん、縫い物以外に使うつもりはないけど」
「それは、問題ないかと。たとえファテナ様がそれを武器として扱おうとも、私が負けることはありませんし、そんなことが起こりえないことも分かっておりますから」
にっこりと笑ったアディヤは、ファテナに見せつけるようにしながら腕に力を込めた。細身に見えてしっかりとついた筋肉が隆起して、確かに戦ったことのないファテナに敵うわけがないと思う。
「じゃあ……空いた時間は刺繍や読書をさせてもらえたら、嬉しい」
「もちろんです。あぁ、お分かりかと思いますが、私に針を持たせたら糸を通す段階で日が暮れること間違いなしですから、手伝いは期待しないでくださいね」
悪戯っぽい表情でそんなことを言うアディヤにつられて、ファテナもつい笑みを浮かべた。
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