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水の精霊 1
しおりを挟む「おまえの前に姿を見せるのは初めてだね。すっかり人の子に戻ってしまって。また一から染め直さねばならない」
そう囁いて、精霊がファテナの髪を一房掬い上げて口づける。唇が触れた場所から、濃紺の髪が白く色を変えていくのを見て、ファテナは息をのんだ。
やはりこの人は精霊なのだという確信と、精霊によって髪の色を変えられていたというザフィルの言葉も真実だったのだと、あらためて実感する。
「あの……」
「ヤーファルだ。いつも泉に祈りを捧げてくれていたおまえには、名を呼ぶことを許そう、ファテナ」
「ヤーファル様……。あの、どうしてここに」
「おまえの気配を求めて、探していたのだよ。このあたりにいることは分かっていたのだけど、嫌な臭いがして近寄るのを躊躇っていた。今日は臭いが幾分か、ましだね」
その言葉に、今日はザフィルからもらった札を身につけていないことをファテナは思い出す。そのせいで、精霊はここに来ることができたのだろうか。
「あの泉から離れて、おまえも随分と穢れてしまったようだ。だけど心配することはない、一緒においで、ファテナ。森に行けば、おまえのその穢れもすぐに消えるだろう」
慈しむように頬を撫でながら、ヤーファルは微笑む。吸い込まれそうな瞳の色と発言の内容から、目の前の人は水の精霊であることが分かる。こちらを見つめる顔はうっとりするほど美しく、ファテナは魅入られたようにその瞳を見つめ返した。
「森へ行こう、ファテナ。我々はおまえを歓迎するよ」
「で、でも、私……あの、純潔を失ってしまって……」
躊躇いがちに申し出たファテナに、ヤーファルは笑顔のままうなずいた。
「知っているよ。だけど、構わない。純潔であることが望ましくはあるけれど、おまえの魂は今なお無垢で美しい。我ら精霊に相応しい」
一部分だけ白く色を変えた髪を撫でると、ヤーファルは笑ってファテナの手をとった。ひんやりと冷たい指先は、触れている感覚があるのに微かに透き通って見える。
手を引かれてふらりと一歩前に踏み出そうとした時、背後から強く抱き寄せられてファテナは足を止めた。
「誰だ、おまえは」
同時に耳元で聞こえた低い声はザフィルのものだった。腰に回した腕でしっかりとファテナを抱き寄せつつ、ヤーファルに向けてまっすぐ剣を向けている。
ヤーファルは、一瞬驚いたように目を見開いたものの、剣には目もくれずにうなずいた。
「あぁ、穢れの原因はおまえだね。肉を食らい、人を殺した臭いがする。やはりここは野蛮だ。我が愛し子のいるべき場所ではない」
「どこから入った。ここには、誰も立ち入ることができないはずだ」
地を這うようなザフィルの声は微かに震えていて、怒りを隠しきれていない。
ヤーファルに握られた手とは反対に、腰に回されたザフィルの腕はとても熱い。引かれた手を取るべきなのか、それともここへ残るべきなのか分からなくなり、ファテナは動けなくなってしまった。
「ふむ、困ったものだね。せっかく染めたのに、また戻ってしまった」
ザフィルの怒りなど気にするそぶりもなく、ヤーファルはファテナの髪に触れた。先程白く染まっていたはずの一房が、いつの間にか元の濃紺に戻っている。
「ファテナに触れるな。――おまえは、精霊か」
「彼女は、我々精霊のものにすると決めている。純潔を奪って遠ざけたつもりかもしれないが、そんな些細なことで我々はファテナを諦めはしないよ」
さぁおいでと、ヤーファルがファテナの手を引く。ザフィルが離すまいとしっかりと腰を抱くのを見て、すうっと目を細めた。表情は穏やかに見えるのに、一瞬で凍りつくような冷たい空気を纏ったヤーファルに、逆らってはならないとファテナは本能的な恐怖を覚えた。
だが、ザフィルはそれに怯む様子もなく更に強くファテナを引き寄せ、再び剣を向け直した。
「なるほど、我が愛し子に手を出したのはおまえだね。随分と身体の深いところまで、おまえの臭いが染みついている」
「あぁそうだ。だから精霊だろうが何だろうが、ファテナは渡さない」
絶対に離さないとでもいうように力のこもった腕を見て、ヤーファルは小さくため息をついた。
「少し目を離した隙に、野蛮な人の子に取り込まれるとは。まぁいい、今日のところはおまえの居場所を確認できたことで良しとしよう。あらためて迎えに来るよ、ファテナ」
ファテナの頬を一度撫でて、ヤーファルはくるりと踵を返す。次の瞬間、その姿は風に溶けるように消えた。
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