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本編
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その後カイエン様の言いつけ通り、メラニア様からいただいた契約書をバルト伯爵に提出した。1週間ほどでそれは手元に戻ってきた。
「継父はどこにも問題ないと言っていました。むしろ魔力なしのあなたにとっては破格の内容だと。おそらくメラニア嬢が手を回してよい待遇を用意してくれたのでしょう。安心してサインしてよいとのことです」
この契約書にサインしてメラニア様に提出すれば、私は殿下の誕生日を待って、すぐにマクレガー領に発つことになる。学院の卒業式には出られないのは寂しい気もするが、卒業式と安定した仕事は天秤にかけるまでもない。
「あなたは外出も難しいでしょうから、サインした契約書を私がメラニア嬢まで届けましょう」
「いえ、カイエン様のお手を煩わせるのは本意ではありません。それに、私、直接メラニア様にお渡ししたいのです。あと数日で後期課程も始まりますから、お会いする機会はあると思います」
「ふむ、そこまで言うのでしたら……。ですがなるべく早く契約を済ませた方がいいでしょう。メラニア嬢も、あなたのためだからこそお父上のマクレガー宰相を説得してまで待ってくださっているのです。そのご好意に甘えすぎるのはよくありませんよ」
「承知しています」
そんなやりとりを交わした後、部屋に戻った私は契約書と向き合っていた。
マクレガー家との契約は3年。メラニア様は延長も解除も自由だと言ってくれた。お給金も十分だし、住み込みで制服も支給とのことだから衣食住にも困らない。子どもたちと接するのは弟の世話で慣れているし、読み書きの指導なら魔力なしの私でもできること。仕事の条件としては悪いところが何もない。マクレガー領が遠いというのが難点と言えば難点だが、そもそも女性は結婚したら家を出るもので、実家に帰れないという状況も珍しくはないから、ぐずぐず思うのは情けない話だ。それに家族と離れる寂しさはこの6年で乗り越えた。
だからそれは本当の意味での難点ではない。私に契約を渋らせているのはただひとつの理由―――。
「殿下……」
口をついた言葉の音量が思った以上に大きすぎて、びくりとする。だが一度こぼれた気持ちは堰を切ったように溢れ、止まることがなかった。
「殿下、殿下……カーティス殿下」
一使用人の私は決して呼ぶことを許されない御名を、誰もおらぬ部屋の窓辺で口にする。私は殿下が好きだ。あの金の髪も、深い藍色の瞳も、私の腰に回される逞しい手も、鼓動が感じられる胸も、冷たい唇も、シトラスの香りも、苛立たしげに呼ぶ私の名の響きさえーーーすべてを愛している。抱くことの許されぬ思いで何年も燻り続けている心はすっかり焼き切れて、何も受け入れられぬほど荒廃してしまった。それでもなお求めてしまう自分の浅ましさに涙する。
あの人はメラニア様のもの。その髪も瞳も唇も、深い思いも、本当の意味で私に与えられることはない。
わかっていても思い切れない自分が本気で情けない。もしメラニア様のお誘いを断って、バルト伯爵に縋って王都で仕事をもらえたとしたら、殿下の傍にいられるだろうか。いや、仮にそれが叶ったとしても、殿下だけではなくメラニア様もご一緒だ。幸せな2人の姿を見つめながら生きていくのは辛い。それならいっそ、2人の姿がまったく見えず、2度と見えることのない場所で暮らした方がずっといい。
私は机に戻り、ペンを手にした。大きく深呼吸した後、マクレガー家の印が押されたその契約書に震える手でサインをした。最後の文字を綴った瞬間、頬から涙がこぼれ落ち、契約書の一部を濡らした。幸い文字にはかからなかったが、指先でその箇所をこするとますます染みが広がった。無駄にあがく自分の情けない姿そのもののようで、次から次へと溢れる涙を拭うことすら罪のように感じ、私はひとり、嗚咽を我慢した。
「継父はどこにも問題ないと言っていました。むしろ魔力なしのあなたにとっては破格の内容だと。おそらくメラニア嬢が手を回してよい待遇を用意してくれたのでしょう。安心してサインしてよいとのことです」
この契約書にサインしてメラニア様に提出すれば、私は殿下の誕生日を待って、すぐにマクレガー領に発つことになる。学院の卒業式には出られないのは寂しい気もするが、卒業式と安定した仕事は天秤にかけるまでもない。
「あなたは外出も難しいでしょうから、サインした契約書を私がメラニア嬢まで届けましょう」
「いえ、カイエン様のお手を煩わせるのは本意ではありません。それに、私、直接メラニア様にお渡ししたいのです。あと数日で後期課程も始まりますから、お会いする機会はあると思います」
「ふむ、そこまで言うのでしたら……。ですがなるべく早く契約を済ませた方がいいでしょう。メラニア嬢も、あなたのためだからこそお父上のマクレガー宰相を説得してまで待ってくださっているのです。そのご好意に甘えすぎるのはよくありませんよ」
「承知しています」
そんなやりとりを交わした後、部屋に戻った私は契約書と向き合っていた。
マクレガー家との契約は3年。メラニア様は延長も解除も自由だと言ってくれた。お給金も十分だし、住み込みで制服も支給とのことだから衣食住にも困らない。子どもたちと接するのは弟の世話で慣れているし、読み書きの指導なら魔力なしの私でもできること。仕事の条件としては悪いところが何もない。マクレガー領が遠いというのが難点と言えば難点だが、そもそも女性は結婚したら家を出るもので、実家に帰れないという状況も珍しくはないから、ぐずぐず思うのは情けない話だ。それに家族と離れる寂しさはこの6年で乗り越えた。
だからそれは本当の意味での難点ではない。私に契約を渋らせているのはただひとつの理由―――。
「殿下……」
口をついた言葉の音量が思った以上に大きすぎて、びくりとする。だが一度こぼれた気持ちは堰を切ったように溢れ、止まることがなかった。
「殿下、殿下……カーティス殿下」
一使用人の私は決して呼ぶことを許されない御名を、誰もおらぬ部屋の窓辺で口にする。私は殿下が好きだ。あの金の髪も、深い藍色の瞳も、私の腰に回される逞しい手も、鼓動が感じられる胸も、冷たい唇も、シトラスの香りも、苛立たしげに呼ぶ私の名の響きさえーーーすべてを愛している。抱くことの許されぬ思いで何年も燻り続けている心はすっかり焼き切れて、何も受け入れられぬほど荒廃してしまった。それでもなお求めてしまう自分の浅ましさに涙する。
あの人はメラニア様のもの。その髪も瞳も唇も、深い思いも、本当の意味で私に与えられることはない。
わかっていても思い切れない自分が本気で情けない。もしメラニア様のお誘いを断って、バルト伯爵に縋って王都で仕事をもらえたとしたら、殿下の傍にいられるだろうか。いや、仮にそれが叶ったとしても、殿下だけではなくメラニア様もご一緒だ。幸せな2人の姿を見つめながら生きていくのは辛い。それならいっそ、2人の姿がまったく見えず、2度と見えることのない場所で暮らした方がずっといい。
私は机に戻り、ペンを手にした。大きく深呼吸した後、マクレガー家の印が押されたその契約書に震える手でサインをした。最後の文字を綴った瞬間、頬から涙がこぼれ落ち、契約書の一部を濡らした。幸い文字にはかからなかったが、指先でその箇所をこするとますます染みが広がった。無駄にあがく自分の情けない姿そのもののようで、次から次へと溢れる涙を拭うことすら罪のように感じ、私はひとり、嗚咽を我慢した。
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