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愛しのふくらはぎ
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「ピピッ、ピピッ、ピピッ……」
早朝の静寂を打ち破る、けたたましい目覚まし時計の音が慎吾の耳を劈いた。
――もう六時半か……あと十分だけ……。
寝ぼけ眼の慎吾は、欠伸をしながら時計の頭を叩くと、決まってもう一度布団を被る。
だが、決して寝坊をすることはない。
十分後、
「パタ、パタ、パタ……」
夢現の中で階段を上がって来る足音を聞く。
足音は中ほどでピタリと止まり、
「慎吾、起きなさい。バスに乗り遅れるよ」
と、母の声が掛かるのだ。
六時四十分。この時刻が限界だった。通学時間に一時間半ほど掛かるため、慎吾は七時ちょうど発、松江市行きのバスに乗らなければならなかった。
ここからが時間との闘いである。素早く学生服に着替え、慌しく洗顔を終えると、慎吾は朝食用のパンと牛乳パックの入った紙袋を片手に、停留所までの二分ほどを全力で突っ走る。
人気も疎らな早朝の海岸通り。
生まれたての柔らかな陽射しを浴び、海風が運ぶ潮の匂いを嗅ぎながら疾走する。実に爽快な気分だが、それも走り始めたときだけで、寝起きにいきなり激しい運動をするものだから、バスに乗り込むときにはすっかり息絶え絶えになっている。
「セーフ」
慎吾は小さなガッツポーズをして、後部座席の左端に座り込む。慎吾の定席である。 前方を確認すると、乗客はいつも通りだった。
慎吾の住んでいる村が始発地なので、たいていの場合、乗客は彼を含めて三人しかいない。三人とも島根県立湘北高校の生徒で、この時間帯に慎吾ら以外の一般客が乗っていることは滅多になかった。
津森慎吾、十六歳。この春から湘北高校に進学したばかりの高校一年生。
後の二人は二年生と三年生の、共に湘北高校の女子生徒である。
湘北高校の生徒以外の学生が乗り合わせていないのには理由があった。
湘北高校は松江市の北の入り口付近、つまり日本海に面した慎吾の村からは最短距離にあった。なので、慎吾は他高へ通う学生たちより一便遅いバスでも始業に間に合うのである。乗客が少ないお陰で、出発時刻ギリギリに乗り込んでも、お気に入りの座席を確保できた。
慎吾が乗車したのと同時にバスは出発する。始発地という慣習から、バスは十分前にドアを開けているので、一般客が居たとしてもすでに乗り込んでいる。だから、運転手も慎吾が最後の乗客だとわかっているのだ。
しばらくして、息が整った慎吾は紙袋からパンと牛乳を取り出し、誰の目も憚ることなく胃に流し込む作業に入った。
慎吾が生まれた村は、山陰の日本海に面した浜浦という小さな漁村である。その辺りは、いわゆるリアス式海岸のようになっており、それぞれの入江ごとに村が作られていた。
その数は大小合わせて三十もあり、近隣の村が幾つか集まって、それぞれ町を形成していた。
浜浦は、その中では一番大きな村であった。もっとも南北に約七百メートル、東西に約六百メートルの平地に、わずか三百八十世帯余り、約千七百人ほどが生活をしていたに過ぎなかったが……。
浜浦を出発してしばらくの間、バスは車一台が通れるほどの狭い海岸沿いの崖道を、七つの村の停留所を経由しながら西へ進み、やがて南下を始める。その七村のうち、三村から同級生が四人乗り込んで来る。つまり、慎吾の出身中学から湘北高校に進学した同級生は慎吾を含めて五人しかいなかった。
発車して一つ目の小さい峠を越えると、右手に日本海が飛び込んで来る。
日本海の波は、太平洋や瀬戸内のそれとは違い、初夏の凪であってもそれなりに荒い。岩礁にぶち当たると、白い波の花が一面に舞い上がり、冬ともなれば、簾のような降雪と見分けがつかなくなるほどだ。
広大な海面は、朝日を浴びて無数のダイヤの輝きを放ち、波間近くではかもめが飛び交い、その高きところでは鳶が悠々と旋回している。遠く地平線に目をやれば、波間にうっすらと隠岐諸島を望むことのできる情景は、真に壮大で優美だった。
この自然が織りなす絵画は、慎吾にとって見慣れたものだった。彼がついこの春まで通っていた北美保中学校は、片浜という五つ目に通る、この辺りでは二番目に大きな村にあったので、この海岸沿いの道は通学路だったからだ。もっとも、中学校までは二十分ほどの道のりだったので、一時間ほど後の便に乗れば良かったのだが……。
中学校がこの界隈で一番大きな村である浜浦ではなく、片浜に置かれたのは、バスの始発地でもわかるように、浜浦は半島の東端にあったからである。
その片浜から同級生が乗車して来た。
「おはようさん」
男が笑顔で声を掛ける。
「おう」
慎吾は片手を上げて応じた。
この実にさわやかな笑顔が様になる坂崎遼平は、慎吾の中学時代からの親友で、慎吾の右隣がいつもの席だった。小学校は違った二人だが、同じクラスになったことで親しくなった。
遼平は学力優秀、運動神経抜群、俳優やアイドルも顔負けの二枚目で、そのうえ性格も良かった。もし自分が女だったら、絶対恋してしまうだろう、と慎吾が思うほど非の打ちどころのない好青年なのである。
海岸沿いの道から南下する道に入ると、慎吾はいつものように眠りに入る。ここからの約一時間が慎吾の至福の時なのだ。試験の最中は、それこそ最後の悪あがきで、教科書やノートを捲っているが、それ以外は失われた一時間を取り戻すことにしているのだった。
その至福の時が一週間前から十分ほど減った。
降車する『湘北高校前』停留所の十分前に、慎吾は自ら目を覚ますようになっていた。隣席の遼平に起こされるまで、熟睡していたそれまでからすれば珍しいことだった。
これには悩ましい理由があった。
ちょうど一週間前の月曜日のことである。
高校入学以来、慎吾は日本海の絶景を鑑賞するため、ずっと右端の席に座っていたが、週明けのその日は珍しく一般の乗客があって、しかも慎吾のお気に入りの席に座っていたため、やむなく左端に座った。
頭の座りがいつもと逆だったせいか、熟睡できなかった慎吾は、降車する十分前に目を覚ました。
これが慎吾に思わぬ幸運を齎した。
慎吾の眼になんとも麗しい女子学生が飛び込んできたのだ。といっても、後姿だけなのだが、彼は美しい彼女の顔を妄想した。
身長は百七十センチほどもあるだろうか。すらりとした体型で、背筋がピンと伸びていた。足の運びはモデルのように美しく、その均整のとれた歩調は肩甲骨まで垂れた艶やかな黒髪をリズム良く揺らしていた。
中でも慎吾の目を釘付けにしたのは、スカートから伸びたふくらはぎだった。
ほんの数瞬だったが、慎吾の脳にクッキリと焼き付いた。
太からず細からず、程好い丸みの曲線。肌は青白い血管を浮き上がらせるほど真っ白で、何よりも地面を踏みしめたときにできる筋肉の窪みが慎吾の脳髄を刺激した。
慎吾は一目でその脹脛の虜となった。こんなに見事な脹脛を持つ女性は、きっととんでもない美貌の持ち主に違いないと勝手に思い込んだ。
慎吾は追い越しざまに振り向いたが、彼女はその心中を見透かしているかのように俯いてしまった。
それからというもの、慎吾の頭の中は彼女の脹脛と未だ見えぬ美貌の妄想で一杯になった。授業もうわの空で、ノートの空白はいっこうに埋まらない。
翌火曜日も、その翌日の水曜日も、慎吾はバスの窓越しに彼女の顔を確認しようと試みたが、やはり彼女は同じ仕種をしたため、慎吾の願望が果たされることはなかった。慎吾は苛立ちを覚え始めたが、皮肉にもそれが却って彼の恋心をますます膨張させる結果となった。
思案を重ねた慎吾は、ある一つの結論を導き出した。
始業時間から考えれば、あの時刻にあの付近を歩いていた彼女は間違いなく湘北高校の生徒である。そうであれば、バスを降りた後、ゆっくりと歩みを進め、彼女が追い着いて来るのを待てば良いのではないか――。
翌日、慎吾はさっそく行動に移したが、不思議なことに彼女は追い着いて来なかった。
――まさか、麗しいのは後ろ姿だけで、本当はブスだったとか……。
慎吾は、後ろ姿に見とれて声を掛けたものの、振り向いた女性の容姿に愕然とするという、テレビドラマでよくあるシーンを思い浮かべた。
――いや、違う。
慎吾は二、三度頭を振った。
そもそも高身長の女性自体が見当たらなかったのだ、と自身を納得させた慎吾は、ある重大な点を見落としていたことに気づく。
湘北高校には正門の他にもう一つ南門があったのだ。
――どこかに知らない別れ道があって、彼女はその道を通り南門から入っているのかもしれない。
と慎吾は思った。
週末の金曜日、バスから降りた慎吾は、遼平に適当な理由を言って南門へと走った。
正門よりは遥かに少なかったが、思ったとおり通学者がいた。
彼らは門を入ってすぐ脇に立っている慎吾に、一瞥を投げながら通り過ぎて行った。慎吾は、そうした怪訝な眼差しに耐えて彼女を待ったが、やがて虚しく始業五分前の予告ベルを聞くことになった。
――なぜ彼女は消えたのか?
慎吾は木曜日と金曜日もバスの中から彼女の後ろ姿を確認していた。
――それなのに、なぜ彼女は姿を現さないのだ? まさか、湘北高校の生徒ではないのか? いや、それは絶対に有り得ない。通学時刻、通学路だけでなく、胸に桜の刺繍が入ったブレザースーツは間違いなく湘北高校のものだ。
慎吾の頭は混乱を極めていた。
だがこの混乱もまた、恋の炎に油を注ぐ結果しか生まなかった。
土曜日と日曜日の二日間、慎吾は自分の部屋に閉じ籠って思案に耽った。
慎吾の部屋は離れになっていた。二階建てで一階が八畳の勉強部屋とトイレ、二階が十畳の寝室という何とも贅沢な建屋である。
生家の大敷屋(おおしきや:屋号)は、この界隈では大変に古い家柄で、かつては網元と庄屋を兼ねていたこともあって、この村だけでなくこの界隈では誰一人として知らぬ者がいないというほどの旧家であり、この村のほぼ中央に屋敷を構えていた。
約七百坪の敷地に、建坪が百三十坪の母屋があった。祖父母、父母と一人っ子の慎吾の五人家族である。母屋には十五の部屋があったので、慎吾の部屋に困るということはなかったが、いわゆる旧式の日本家屋だったので、全室が襖で仕切られていた。
洋室に憧れていた慎吾は、中学校入学と同時に、高校受験に向けて勉学に勤しむという約束で離れを新築してもらったのである。
むろん、単なる口実でしかなかった。家族の干渉から逃れた慎吾は、受験勉強などほとんどしなかった。漫画を読んだり、音楽を聴いたり、ゲームに没頭したりと自由気儘な生活を送っただけのことだった。
それでも県下に名高い湘北高校に進学できたのだから、それはそれで評価されるべきものだったのかもしれない。
慎吾は、その一階の勉強部屋で嘆息した。
――このままでは埒が明かない。
といって諦めるつもりはない。どうしても彼女の正体を知りたい。彼女の顔を確かめたい。そして、できることなら彼女と交際したい――。
――これが恋だ、これが本物の愛だ。
これまでの幼い恋とは違っていた。生まれて初めて胸の奥底から込み上げてくる欲望は、夏雲のように湧いては消え、消えては湧いた。そして、繰り返す度にどんどん膨らんで行った恋の渦は、ついにこれまでの慎吾からは考えられない大胆な結論を生んだ。
校内で彼女を探し出そう、というのである。
恋の力とは恐ろしいもので、どちらかといえば引っ込み思案だった慎吾にそこまでの無謀とも思える決断を促したのだった。
無謀、と言ったのは校内で彼女を探し出すことなど、言うほど容易いことではなかったからだ。
なんと言っても、湘北高校は県下一の名門進学校であり、生徒数は千五百名になんなんとするマンモス校だったのである。
各学年、定員五十名の普通科クラスが九クラスと、特別クラスである理数科クラスの、合わせて十クラスあった。普通科クラスは、一年次は入学試験の成績順によりクラス分けされ、二年次、三年次は年間を通じて実施された全てのテストの総合成績順によって再編成されていた。理数科クラスというのは湘北高校入学時に、すでに理科系学科への大学進学を決めている者が入るクラスである。
一年生は理数科の21R(ルーム)と、普通科の最上位クラスである22Rから、最下位クラスである30Rまであって、慎吾はちょうど真ん中の26Rに在席していた。
毎回のテスト結果は、理数科は上位二十名、普通科は上位二百名までの氏名と成績が廊下に張り出されるのだが、入学してまもなく実施された実力テストの結果一覧表の中に慎吾の名前はなかった。
湘北高校は、学力だけが優秀というわけではなかった。
創立は一八七六年で、百四十年の歴史があった。前身は全国で六番目に古い旧制中学校で、翌年に今の東京大学が設立されたため、毎年入学式の校長の訓示では、決まって『我が校は天下の東大よりも歴史と伝統がある』と、口にするほど誇りにしていた。
創立以来、『質実剛健・文武両道』をモットーとしており、スポーツも盛んで、県下あるいは全国の大会でも好成績を残す運動部もあった。
また卒業生には、首相や大臣をはじめとする政界や、財界、学界、言論界、スポーツ界等々、様々な分野で活躍する俊英を数多く輩出していたため、湘北高校は知る人ぞ知る、全国にその名を馳せた名門高校だったのである。
それだけに厳然たる風紀があった。
その一つが、休み時間はトイレに行く以外、次の授業の準備をするためのものであり、廊下で雑談をしたり、遊んだりできないという暗黙のルールである。ましてや、たとえ昼休みであっても、他所のクラスをうろつくなど以ての外という不文律があったのだ。
携帯電話の持ち込みはできたが、校内での使用は原則禁止で、緊急時にしか認められなかった。違反をすれば即停学処分となった。
然様に人探しには厳しい環境だったが、慎吾の決心は揺るがなかった。むしろ、恋愛映画のように『困難であればあるほど、恋の炎は燃え上がる』などと、一人で舞い上がっていた。
早朝の静寂を打ち破る、けたたましい目覚まし時計の音が慎吾の耳を劈いた。
――もう六時半か……あと十分だけ……。
寝ぼけ眼の慎吾は、欠伸をしながら時計の頭を叩くと、決まってもう一度布団を被る。
だが、決して寝坊をすることはない。
十分後、
「パタ、パタ、パタ……」
夢現の中で階段を上がって来る足音を聞く。
足音は中ほどでピタリと止まり、
「慎吾、起きなさい。バスに乗り遅れるよ」
と、母の声が掛かるのだ。
六時四十分。この時刻が限界だった。通学時間に一時間半ほど掛かるため、慎吾は七時ちょうど発、松江市行きのバスに乗らなければならなかった。
ここからが時間との闘いである。素早く学生服に着替え、慌しく洗顔を終えると、慎吾は朝食用のパンと牛乳パックの入った紙袋を片手に、停留所までの二分ほどを全力で突っ走る。
人気も疎らな早朝の海岸通り。
生まれたての柔らかな陽射しを浴び、海風が運ぶ潮の匂いを嗅ぎながら疾走する。実に爽快な気分だが、それも走り始めたときだけで、寝起きにいきなり激しい運動をするものだから、バスに乗り込むときにはすっかり息絶え絶えになっている。
「セーフ」
慎吾は小さなガッツポーズをして、後部座席の左端に座り込む。慎吾の定席である。 前方を確認すると、乗客はいつも通りだった。
慎吾の住んでいる村が始発地なので、たいていの場合、乗客は彼を含めて三人しかいない。三人とも島根県立湘北高校の生徒で、この時間帯に慎吾ら以外の一般客が乗っていることは滅多になかった。
津森慎吾、十六歳。この春から湘北高校に進学したばかりの高校一年生。
後の二人は二年生と三年生の、共に湘北高校の女子生徒である。
湘北高校の生徒以外の学生が乗り合わせていないのには理由があった。
湘北高校は松江市の北の入り口付近、つまり日本海に面した慎吾の村からは最短距離にあった。なので、慎吾は他高へ通う学生たちより一便遅いバスでも始業に間に合うのである。乗客が少ないお陰で、出発時刻ギリギリに乗り込んでも、お気に入りの座席を確保できた。
慎吾が乗車したのと同時にバスは出発する。始発地という慣習から、バスは十分前にドアを開けているので、一般客が居たとしてもすでに乗り込んでいる。だから、運転手も慎吾が最後の乗客だとわかっているのだ。
しばらくして、息が整った慎吾は紙袋からパンと牛乳を取り出し、誰の目も憚ることなく胃に流し込む作業に入った。
慎吾が生まれた村は、山陰の日本海に面した浜浦という小さな漁村である。その辺りは、いわゆるリアス式海岸のようになっており、それぞれの入江ごとに村が作られていた。
その数は大小合わせて三十もあり、近隣の村が幾つか集まって、それぞれ町を形成していた。
浜浦は、その中では一番大きな村であった。もっとも南北に約七百メートル、東西に約六百メートルの平地に、わずか三百八十世帯余り、約千七百人ほどが生活をしていたに過ぎなかったが……。
浜浦を出発してしばらくの間、バスは車一台が通れるほどの狭い海岸沿いの崖道を、七つの村の停留所を経由しながら西へ進み、やがて南下を始める。その七村のうち、三村から同級生が四人乗り込んで来る。つまり、慎吾の出身中学から湘北高校に進学した同級生は慎吾を含めて五人しかいなかった。
発車して一つ目の小さい峠を越えると、右手に日本海が飛び込んで来る。
日本海の波は、太平洋や瀬戸内のそれとは違い、初夏の凪であってもそれなりに荒い。岩礁にぶち当たると、白い波の花が一面に舞い上がり、冬ともなれば、簾のような降雪と見分けがつかなくなるほどだ。
広大な海面は、朝日を浴びて無数のダイヤの輝きを放ち、波間近くではかもめが飛び交い、その高きところでは鳶が悠々と旋回している。遠く地平線に目をやれば、波間にうっすらと隠岐諸島を望むことのできる情景は、真に壮大で優美だった。
この自然が織りなす絵画は、慎吾にとって見慣れたものだった。彼がついこの春まで通っていた北美保中学校は、片浜という五つ目に通る、この辺りでは二番目に大きな村にあったので、この海岸沿いの道は通学路だったからだ。もっとも、中学校までは二十分ほどの道のりだったので、一時間ほど後の便に乗れば良かったのだが……。
中学校がこの界隈で一番大きな村である浜浦ではなく、片浜に置かれたのは、バスの始発地でもわかるように、浜浦は半島の東端にあったからである。
その片浜から同級生が乗車して来た。
「おはようさん」
男が笑顔で声を掛ける。
「おう」
慎吾は片手を上げて応じた。
この実にさわやかな笑顔が様になる坂崎遼平は、慎吾の中学時代からの親友で、慎吾の右隣がいつもの席だった。小学校は違った二人だが、同じクラスになったことで親しくなった。
遼平は学力優秀、運動神経抜群、俳優やアイドルも顔負けの二枚目で、そのうえ性格も良かった。もし自分が女だったら、絶対恋してしまうだろう、と慎吾が思うほど非の打ちどころのない好青年なのである。
海岸沿いの道から南下する道に入ると、慎吾はいつものように眠りに入る。ここからの約一時間が慎吾の至福の時なのだ。試験の最中は、それこそ最後の悪あがきで、教科書やノートを捲っているが、それ以外は失われた一時間を取り戻すことにしているのだった。
その至福の時が一週間前から十分ほど減った。
降車する『湘北高校前』停留所の十分前に、慎吾は自ら目を覚ますようになっていた。隣席の遼平に起こされるまで、熟睡していたそれまでからすれば珍しいことだった。
これには悩ましい理由があった。
ちょうど一週間前の月曜日のことである。
高校入学以来、慎吾は日本海の絶景を鑑賞するため、ずっと右端の席に座っていたが、週明けのその日は珍しく一般の乗客があって、しかも慎吾のお気に入りの席に座っていたため、やむなく左端に座った。
頭の座りがいつもと逆だったせいか、熟睡できなかった慎吾は、降車する十分前に目を覚ました。
これが慎吾に思わぬ幸運を齎した。
慎吾の眼になんとも麗しい女子学生が飛び込んできたのだ。といっても、後姿だけなのだが、彼は美しい彼女の顔を妄想した。
身長は百七十センチほどもあるだろうか。すらりとした体型で、背筋がピンと伸びていた。足の運びはモデルのように美しく、その均整のとれた歩調は肩甲骨まで垂れた艶やかな黒髪をリズム良く揺らしていた。
中でも慎吾の目を釘付けにしたのは、スカートから伸びたふくらはぎだった。
ほんの数瞬だったが、慎吾の脳にクッキリと焼き付いた。
太からず細からず、程好い丸みの曲線。肌は青白い血管を浮き上がらせるほど真っ白で、何よりも地面を踏みしめたときにできる筋肉の窪みが慎吾の脳髄を刺激した。
慎吾は一目でその脹脛の虜となった。こんなに見事な脹脛を持つ女性は、きっととんでもない美貌の持ち主に違いないと勝手に思い込んだ。
慎吾は追い越しざまに振り向いたが、彼女はその心中を見透かしているかのように俯いてしまった。
それからというもの、慎吾の頭の中は彼女の脹脛と未だ見えぬ美貌の妄想で一杯になった。授業もうわの空で、ノートの空白はいっこうに埋まらない。
翌火曜日も、その翌日の水曜日も、慎吾はバスの窓越しに彼女の顔を確認しようと試みたが、やはり彼女は同じ仕種をしたため、慎吾の願望が果たされることはなかった。慎吾は苛立ちを覚え始めたが、皮肉にもそれが却って彼の恋心をますます膨張させる結果となった。
思案を重ねた慎吾は、ある一つの結論を導き出した。
始業時間から考えれば、あの時刻にあの付近を歩いていた彼女は間違いなく湘北高校の生徒である。そうであれば、バスを降りた後、ゆっくりと歩みを進め、彼女が追い着いて来るのを待てば良いのではないか――。
翌日、慎吾はさっそく行動に移したが、不思議なことに彼女は追い着いて来なかった。
――まさか、麗しいのは後ろ姿だけで、本当はブスだったとか……。
慎吾は、後ろ姿に見とれて声を掛けたものの、振り向いた女性の容姿に愕然とするという、テレビドラマでよくあるシーンを思い浮かべた。
――いや、違う。
慎吾は二、三度頭を振った。
そもそも高身長の女性自体が見当たらなかったのだ、と自身を納得させた慎吾は、ある重大な点を見落としていたことに気づく。
湘北高校には正門の他にもう一つ南門があったのだ。
――どこかに知らない別れ道があって、彼女はその道を通り南門から入っているのかもしれない。
と慎吾は思った。
週末の金曜日、バスから降りた慎吾は、遼平に適当な理由を言って南門へと走った。
正門よりは遥かに少なかったが、思ったとおり通学者がいた。
彼らは門を入ってすぐ脇に立っている慎吾に、一瞥を投げながら通り過ぎて行った。慎吾は、そうした怪訝な眼差しに耐えて彼女を待ったが、やがて虚しく始業五分前の予告ベルを聞くことになった。
――なぜ彼女は消えたのか?
慎吾は木曜日と金曜日もバスの中から彼女の後ろ姿を確認していた。
――それなのに、なぜ彼女は姿を現さないのだ? まさか、湘北高校の生徒ではないのか? いや、それは絶対に有り得ない。通学時刻、通学路だけでなく、胸に桜の刺繍が入ったブレザースーツは間違いなく湘北高校のものだ。
慎吾の頭は混乱を極めていた。
だがこの混乱もまた、恋の炎に油を注ぐ結果しか生まなかった。
土曜日と日曜日の二日間、慎吾は自分の部屋に閉じ籠って思案に耽った。
慎吾の部屋は離れになっていた。二階建てで一階が八畳の勉強部屋とトイレ、二階が十畳の寝室という何とも贅沢な建屋である。
生家の大敷屋(おおしきや:屋号)は、この界隈では大変に古い家柄で、かつては網元と庄屋を兼ねていたこともあって、この村だけでなくこの界隈では誰一人として知らぬ者がいないというほどの旧家であり、この村のほぼ中央に屋敷を構えていた。
約七百坪の敷地に、建坪が百三十坪の母屋があった。祖父母、父母と一人っ子の慎吾の五人家族である。母屋には十五の部屋があったので、慎吾の部屋に困るということはなかったが、いわゆる旧式の日本家屋だったので、全室が襖で仕切られていた。
洋室に憧れていた慎吾は、中学校入学と同時に、高校受験に向けて勉学に勤しむという約束で離れを新築してもらったのである。
むろん、単なる口実でしかなかった。家族の干渉から逃れた慎吾は、受験勉強などほとんどしなかった。漫画を読んだり、音楽を聴いたり、ゲームに没頭したりと自由気儘な生活を送っただけのことだった。
それでも県下に名高い湘北高校に進学できたのだから、それはそれで評価されるべきものだったのかもしれない。
慎吾は、その一階の勉強部屋で嘆息した。
――このままでは埒が明かない。
といって諦めるつもりはない。どうしても彼女の正体を知りたい。彼女の顔を確かめたい。そして、できることなら彼女と交際したい――。
――これが恋だ、これが本物の愛だ。
これまでの幼い恋とは違っていた。生まれて初めて胸の奥底から込み上げてくる欲望は、夏雲のように湧いては消え、消えては湧いた。そして、繰り返す度にどんどん膨らんで行った恋の渦は、ついにこれまでの慎吾からは考えられない大胆な結論を生んだ。
校内で彼女を探し出そう、というのである。
恋の力とは恐ろしいもので、どちらかといえば引っ込み思案だった慎吾にそこまでの無謀とも思える決断を促したのだった。
無謀、と言ったのは校内で彼女を探し出すことなど、言うほど容易いことではなかったからだ。
なんと言っても、湘北高校は県下一の名門進学校であり、生徒数は千五百名になんなんとするマンモス校だったのである。
各学年、定員五十名の普通科クラスが九クラスと、特別クラスである理数科クラスの、合わせて十クラスあった。普通科クラスは、一年次は入学試験の成績順によりクラス分けされ、二年次、三年次は年間を通じて実施された全てのテストの総合成績順によって再編成されていた。理数科クラスというのは湘北高校入学時に、すでに理科系学科への大学進学を決めている者が入るクラスである。
一年生は理数科の21R(ルーム)と、普通科の最上位クラスである22Rから、最下位クラスである30Rまであって、慎吾はちょうど真ん中の26Rに在席していた。
毎回のテスト結果は、理数科は上位二十名、普通科は上位二百名までの氏名と成績が廊下に張り出されるのだが、入学してまもなく実施された実力テストの結果一覧表の中に慎吾の名前はなかった。
湘北高校は、学力だけが優秀というわけではなかった。
創立は一八七六年で、百四十年の歴史があった。前身は全国で六番目に古い旧制中学校で、翌年に今の東京大学が設立されたため、毎年入学式の校長の訓示では、決まって『我が校は天下の東大よりも歴史と伝統がある』と、口にするほど誇りにしていた。
創立以来、『質実剛健・文武両道』をモットーとしており、スポーツも盛んで、県下あるいは全国の大会でも好成績を残す運動部もあった。
また卒業生には、首相や大臣をはじめとする政界や、財界、学界、言論界、スポーツ界等々、様々な分野で活躍する俊英を数多く輩出していたため、湘北高校は知る人ぞ知る、全国にその名を馳せた名門高校だったのである。
それだけに厳然たる風紀があった。
その一つが、休み時間はトイレに行く以外、次の授業の準備をするためのものであり、廊下で雑談をしたり、遊んだりできないという暗黙のルールである。ましてや、たとえ昼休みであっても、他所のクラスをうろつくなど以ての外という不文律があったのだ。
携帯電話の持ち込みはできたが、校内での使用は原則禁止で、緊急時にしか認められなかった。違反をすれば即停学処分となった。
然様に人探しには厳しい環境だったが、慎吾の決心は揺るがなかった。むしろ、恋愛映画のように『困難であればあるほど、恋の炎は燃え上がる』などと、一人で舞い上がっていた。
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蔵屋
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