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第7話 ヒース・グリフィス
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その日の昼。レイズナーは、城にある図書室にいた。おそらくこの国で、最も魔法に関する書物が揃えられている場所だ。
朝食の席に、ヴィクトリカの姿はなく、昨晩以来、会ってもいない。
当然だ。あれほど明確に拒まれては、今晩も姿を見せないかもしれない。あるいは一生、あの笑みが向けられることはないかもしれない。暗澹たる思いに支配されそうだった。
歩み寄ろうとしていた彼女を振り払ったのは自分自身だ。己の右腕を引き裂くに等しい痛みを覚えていた。
体ではなく、この心に。
(奇跡だったんだ)
仕事の請負や小間使いではなく、貴族に混じり対等に仕事をするなど、あり得ない幸運だった。ましてやヴィクトリカを妻にするなど、その通り、奇跡だった。
宮廷魔法使いとして働き始めた十八の頃、彼女はまだほんの子供に過ぎず、当然、恋心など抱くはずがなかった。
女性として明確に意識したのは、数年後、とあるパーティの場で、言い寄っていた貴族の一人を弁論で打ち負かした姿を見てからだろうか。
扇子で隠すように覆われた口元に勝利の笑みを浮かべる姿を見て、電撃が走ったかのように目が離せなくなった。
以来、彼女をいつも目で追っていた。
気がついたのは、多くの場合、つまらなそうな表情をしているということだ。
当然、社交的に愛想笑いはするのだが、彼女の本心は違うのだろうと、いつも思っていた。既にヒース・グリフィスと婚約をしていいた彼女に、憂いなど何もないはずが、時折物憂げに俯く姿を見て、いたたまれなくなった。
心や感情など、数年前にあえて捨てたはずだった。ひたすらに成り上がり、貴族に自分を認めさせることだけを目的に生きてきた。だが彼女を見つめていると、胸の中で何かが疼いた。長い冬が終わり、春が訪れたかのように。
レイズナーが思ったのは、ただ一つのことだ。
――彼女を守ってやりたい。
救いたいと思った。またあの笑みを見せてくれるなら、何でもしよう。自分の隣に彼女がいたら、あんな表情は決してさせないのに。
庇護の情は、次第に愛情へと変化した。美しく可憐な高嶺の花。この手で手折ってしまいたい。
なのに、彼女を拒んだ。他に捨てられなかったもののせいで。
もう二度と、あの笑みが自分に向くことはないのかもしれない。だとしても、心の底から好いている。力になりたかった。
(時が巻き戻る、か――)
昨晩の彼女の話は驚くべきことだった。だが一方で納得もした。
まるで未来が分かっているようだと、彼女を見て思っていたからだ。それに時を戻す魔法は、理論上は可能であることを、レイズナーは知っていた。
それを調べるために、この図書室に来たのだ。
その本は、鍵がかかる棚の禁書欄にあった。古い本で、書かれている言語も同じく古い。並ぶ本には一通り目を通していたことがあり、記載を見たことがある。
記憶の通り、それはあった。
禁忌の魔法として書かれている。
目を走らせ、理解はする。
だがやはり、不可能なのではないかと思わずにはいられない。あくまで“理論上は”可能だという程度だ。何せ到底、人が作り出せる量を遙かに超える莫大なエネルギーが必要だった。おまけに、そもそも魔法が使えないと不可能だ。強大な魔法が。
「禁書を読み耽り、何の悪巧みだい。レイブン?」
人の気配に気がつかないほど収集していた。声をかけられ、はっと顔を上げる。
馬鹿にするような笑みを携え現れたのは、同じく宮廷魔法使いのヒース・グリフィスだった。内心うんざりしているのを隠し、レイズナーは答えた。
「グリフィス、君も調べ物か」
ふん、とヒースは鼻で笑う。
「君に文字が読めるとは驚きだ」
「こちらこそ、君に薬草を練る以外の興味があったとは驚きだ」
間を開けずそう言い、読んでいた本を差し出した。
「読むかい」
古い言葉で書かれており、ましてや魔法理論など、ヒースには理解できないことを知っている上でそう薦めた。瞬く間にヒースの顔は赤く染まっていく。
「奇跡の王女を娶ったからといっていい気になるなよレイブン、世が世なら君は奴隷階級だ」
「後半は否定しないが、俺が娶ったのは奇跡の王女ではなく、ヴィクトリカという実にかわいらしい女性だ」
レイズナーは本を机の上に戻した。ヒースはなおも言う。
「陛下がなぜ君に、ヴィクトリカを捧げたのか理解できない」
「陛下とは、十代の頃からの友人だからね。妹を任せるには適任だと思っていただけたと言うことだろう。……君よりも」
この男の当てこすりの相手をしている暇はない。目線を本へ戻すと、その仕草が気に入らなかったのかヒースは机を叩いた。
「彼女は、この僕をまだ愛しているぞ」
ヒースはまるで癇癪を起こした子供か、さもなくば威嚇を繰り返す小動物だ。
呆れていることを必死に隠しつつ、答えた。
「ならば彼女が大学への進学を夢見ていることも知っていたか?」
「知っているとも、諦めてもらったけどね。女性に学など必要ないだろう?」
目の前の男をぶん殴ってやりたい衝動が生じた。
ヒースが言う社会通念。それこそが、彼女を縛る鎖だ。解き放ってやりたいものだ。
(――愚かにも)
その感情が、己にとって諸刃の剣だったのだ。昨日の話が真実だとしたら、カーソンはレイズナーを逃さないための檻として、ヴィクトリカを献上したのだ。レイズナーは彼女を手放せず、この国から逃げ出せない。
「貴族という者たちは、馬鹿ばかりだ」
「君には分からないことが沢山あるんだよ」
勝ち誇ったかのような笑みを浮かべるヒースに、レイズナーは言い返したくなった。
「先代のブルクストンは一人で王宮魔法使いを務めたが、なぜ今二人なのか知っているか?」
さっとヒースの顔色が変わる。
「魔法が上手く練れず、家柄と政治能力だけで宮廷魔法使いになった男のサポートとして、真に実力のある人間が必要だったからさ」
「この――」
「俺相手に勝負を挑むか」
力量の差は歴然だ。ヒースもそれは熟知している。振りかぶった拳をすぐに下げる。だが怒りは未だ沸いているようだ。
「……まあいい! 最後に勝つのはこのヒース・グリフィスだ。覚悟しておけよ。死の際で、泣いて後悔するのは貴様だ、レイブン!」
死の際、という言葉が引っかかったが、尋ねようとした時には既にヒースは顔を真っ赤にしながら図書室を出て行くところだった。
ヴィクトリカはポーリーナの性格が突然変わってしまったようだと嘆いていたが、この男の影響を受けているに違いない。
まったく、ヒース・グリフィスの良いところは優れた顔面だけだろうな、とレイズナーは思った。
朝食の席に、ヴィクトリカの姿はなく、昨晩以来、会ってもいない。
当然だ。あれほど明確に拒まれては、今晩も姿を見せないかもしれない。あるいは一生、あの笑みが向けられることはないかもしれない。暗澹たる思いに支配されそうだった。
歩み寄ろうとしていた彼女を振り払ったのは自分自身だ。己の右腕を引き裂くに等しい痛みを覚えていた。
体ではなく、この心に。
(奇跡だったんだ)
仕事の請負や小間使いではなく、貴族に混じり対等に仕事をするなど、あり得ない幸運だった。ましてやヴィクトリカを妻にするなど、その通り、奇跡だった。
宮廷魔法使いとして働き始めた十八の頃、彼女はまだほんの子供に過ぎず、当然、恋心など抱くはずがなかった。
女性として明確に意識したのは、数年後、とあるパーティの場で、言い寄っていた貴族の一人を弁論で打ち負かした姿を見てからだろうか。
扇子で隠すように覆われた口元に勝利の笑みを浮かべる姿を見て、電撃が走ったかのように目が離せなくなった。
以来、彼女をいつも目で追っていた。
気がついたのは、多くの場合、つまらなそうな表情をしているということだ。
当然、社交的に愛想笑いはするのだが、彼女の本心は違うのだろうと、いつも思っていた。既にヒース・グリフィスと婚約をしていいた彼女に、憂いなど何もないはずが、時折物憂げに俯く姿を見て、いたたまれなくなった。
心や感情など、数年前にあえて捨てたはずだった。ひたすらに成り上がり、貴族に自分を認めさせることだけを目的に生きてきた。だが彼女を見つめていると、胸の中で何かが疼いた。長い冬が終わり、春が訪れたかのように。
レイズナーが思ったのは、ただ一つのことだ。
――彼女を守ってやりたい。
救いたいと思った。またあの笑みを見せてくれるなら、何でもしよう。自分の隣に彼女がいたら、あんな表情は決してさせないのに。
庇護の情は、次第に愛情へと変化した。美しく可憐な高嶺の花。この手で手折ってしまいたい。
なのに、彼女を拒んだ。他に捨てられなかったもののせいで。
もう二度と、あの笑みが自分に向くことはないのかもしれない。だとしても、心の底から好いている。力になりたかった。
(時が巻き戻る、か――)
昨晩の彼女の話は驚くべきことだった。だが一方で納得もした。
まるで未来が分かっているようだと、彼女を見て思っていたからだ。それに時を戻す魔法は、理論上は可能であることを、レイズナーは知っていた。
それを調べるために、この図書室に来たのだ。
その本は、鍵がかかる棚の禁書欄にあった。古い本で、書かれている言語も同じく古い。並ぶ本には一通り目を通していたことがあり、記載を見たことがある。
記憶の通り、それはあった。
禁忌の魔法として書かれている。
目を走らせ、理解はする。
だがやはり、不可能なのではないかと思わずにはいられない。あくまで“理論上は”可能だという程度だ。何せ到底、人が作り出せる量を遙かに超える莫大なエネルギーが必要だった。おまけに、そもそも魔法が使えないと不可能だ。強大な魔法が。
「禁書を読み耽り、何の悪巧みだい。レイブン?」
人の気配に気がつかないほど収集していた。声をかけられ、はっと顔を上げる。
馬鹿にするような笑みを携え現れたのは、同じく宮廷魔法使いのヒース・グリフィスだった。内心うんざりしているのを隠し、レイズナーは答えた。
「グリフィス、君も調べ物か」
ふん、とヒースは鼻で笑う。
「君に文字が読めるとは驚きだ」
「こちらこそ、君に薬草を練る以外の興味があったとは驚きだ」
間を開けずそう言い、読んでいた本を差し出した。
「読むかい」
古い言葉で書かれており、ましてや魔法理論など、ヒースには理解できないことを知っている上でそう薦めた。瞬く間にヒースの顔は赤く染まっていく。
「奇跡の王女を娶ったからといっていい気になるなよレイブン、世が世なら君は奴隷階級だ」
「後半は否定しないが、俺が娶ったのは奇跡の王女ではなく、ヴィクトリカという実にかわいらしい女性だ」
レイズナーは本を机の上に戻した。ヒースはなおも言う。
「陛下がなぜ君に、ヴィクトリカを捧げたのか理解できない」
「陛下とは、十代の頃からの友人だからね。妹を任せるには適任だと思っていただけたと言うことだろう。……君よりも」
この男の当てこすりの相手をしている暇はない。目線を本へ戻すと、その仕草が気に入らなかったのかヒースは机を叩いた。
「彼女は、この僕をまだ愛しているぞ」
ヒースはまるで癇癪を起こした子供か、さもなくば威嚇を繰り返す小動物だ。
呆れていることを必死に隠しつつ、答えた。
「ならば彼女が大学への進学を夢見ていることも知っていたか?」
「知っているとも、諦めてもらったけどね。女性に学など必要ないだろう?」
目の前の男をぶん殴ってやりたい衝動が生じた。
ヒースが言う社会通念。それこそが、彼女を縛る鎖だ。解き放ってやりたいものだ。
(――愚かにも)
その感情が、己にとって諸刃の剣だったのだ。昨日の話が真実だとしたら、カーソンはレイズナーを逃さないための檻として、ヴィクトリカを献上したのだ。レイズナーは彼女を手放せず、この国から逃げ出せない。
「貴族という者たちは、馬鹿ばかりだ」
「君には分からないことが沢山あるんだよ」
勝ち誇ったかのような笑みを浮かべるヒースに、レイズナーは言い返したくなった。
「先代のブルクストンは一人で王宮魔法使いを務めたが、なぜ今二人なのか知っているか?」
さっとヒースの顔色が変わる。
「魔法が上手く練れず、家柄と政治能力だけで宮廷魔法使いになった男のサポートとして、真に実力のある人間が必要だったからさ」
「この――」
「俺相手に勝負を挑むか」
力量の差は歴然だ。ヒースもそれは熟知している。振りかぶった拳をすぐに下げる。だが怒りは未だ沸いているようだ。
「……まあいい! 最後に勝つのはこのヒース・グリフィスだ。覚悟しておけよ。死の際で、泣いて後悔するのは貴様だ、レイブン!」
死の際、という言葉が引っかかったが、尋ねようとした時には既にヒースは顔を真っ赤にしながら図書室を出て行くところだった。
ヴィクトリカはポーリーナの性格が突然変わってしまったようだと嘆いていたが、この男の影響を受けているに違いない。
まったく、ヒース・グリフィスの良いところは優れた顔面だけだろうな、とレイズナーは思った。
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