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第二章 ローザリア戦記
本当に欲しいもの
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数日後に、わたしは十三歳の誕生日を迎えた。
当日は大掛かりなお祝いが開かれるから、わたしも朝から準備をする。
派手なお祝いなんて、好きじゃなかった。誕生日っていうのは、家族で楽しく過ごす日のはずだ。大勢に囲まれて、愛想笑いの連続なんて、全然好きじゃない。
今日のためにお母様が張り切って注文したドレスは、白地に金の刺繍があしらわれたものだった。控えめで上品なドレスに合うようにと、お母様の指示に従い侍女たちはせっせとわたしを着飾った。
そうして準備を終え、鏡の前に立った時、侍女の一人がうっとりと言う。
「イリス様、ため息が出るほどにお美しいですわ」
まあね。それは確かに同意。
乗り気じゃないパーティだけど、今日のイリスの見た目はいつにもまして完璧だった。大きな瞳に小さな鼻、形のいい唇。白い肌に、薔薇色の頬。華奢な体に細い腰は、あと数年もしたら男の人の目を引きそうだ。
――本当にこの子は可愛い。
鏡の前でくるりと回ってみる。儚げな表情を浮かべてしなでも作ってみせれば、あと数年と言わず、たちまち皆、虜になりそう。少し開いたドレスの胸元には、ディマから貰った金の指輪と、クロードに貰った小さな水晶が光る。
「領地で開催したパーティを覚えてる?」
わたしの様子を見たお母様は、にこりと笑う。もちろん覚えている。
「あの時みたいに、とても可愛いわ」
そう言う彼女も、すごく綺麗だった。紺地の、絹のドレスが彼女の衣装だ。
「お父様とディマにも見せてあげたい。なんて言うかしら」
「世界で一番可愛いって、褒めるに決まってる。あなたを見れば、誰だって好きになるわ。今日はたくさんの人と会うけれど、いつも通りでいいのよ。去年も一昨年も、なんの問題もなかったんだもの。
終わったら、お風呂に入りましょう。部屋に浴槽を運ばせるわ」
お母様はそう言って、わたしの頭をそっと撫でた。
◇◆◇
わたしの誕生日パーティは、お城の広間で催されることになっていた。中には数日滞在する人たちもいて、パーティ開始前から城内はいつもより浮かれて賑やかだった。
会場に入る前に、サーリとオーランドに会いに行った。彼らも準備を終えて、皇太后の部屋にいた。わたしとお母様が部屋に入ると、座って待っていたサーリが、ぱっと顔を輝かせた。
「まあふたりとも、なんて素敵なのかしら――!」
それは彼女の本心だろう。お城で暮らし始めてからずっと、サーリはわたしたちに親切にしてくれていた。心の優しい彼女だから、宮廷に馴染めなくて体を壊してしまったんじゃないかと疑ってしまうほど、皇太后サーリは穏やかな女性だった。
オーランドは母親の隣に立ち、いつもの笑みを浮かべている。
「もう、十年以上も昔だけれど、元気がよくて賢い、本当に可愛らしい侍女がおりました。彼女はわたくしのとびきりお気に入りでしたよ。イリスは彼女にそっくりね。あの頃が戻ってきたみたいに思います」
お母様が顔を赤らめた。
「あなたはわたしの憧れでした、サーリ様」
サーリは頷き、オーランドに支えられながらも立ち上がる。日中、ベッドで過ごすことの多いサーリは、足が少し弱いらしい。
わたしの側までやって来て、彼女はわたしの手を取ると、やはりにっこりと笑った。
「十三歳、おめでとうイリス。今まで通り、陛下に尽くしてくださいね」
「はい、サーリ様。もちろんです」
わたしたちのやり取りを、オーランドは黙って見つめていた。
パーティは進んでいく。
場を仕切っているのはルカ・リオンテールだった。彼はオーランドが成人するまでの間、摂政を務めていた。サーリと顔は似ているけど、彼から温かみを感じたことはない。
だけどサーリはルカを信頼していた。
小説でルカの影が薄かったのは、小説開始時において、すでにオーランドは成人していて、摂政職は廃止されていたせいかもしれない。
このところ思う。
あの小説はすべて、アリアに都合の良い部分だけが切り取られていたのかもしれないと。だから、現実には知らない部分も多い。
たとえば、昔、ディマがテミス家に来たあの日。ミランダは本当は、ディマに攻撃したのかもしれない。幼いイリスが彼を助けることは当然なかった。
ディマは悲しみを家族と共有することなく、持て余し、一人、異国へと行ったんだ。
一方では思う。“本当”なんてあり得ない。イリスは小説の悲劇の舞台装置としてしかいないのだから。
次々に目の前に現れる国内外の重鎮たちから順に祝福の言葉を受け、そうして聖女として、わたしも彼らに言葉をかけながら、頭の中ではそんなことばかり考えていた。
だからだろうか。
踊っているときに、オーランドが耳元で囁いた。
「あまり集中していないね。楽しくないのかい」
「とても楽しんでいますわ」
慌ててわたしは答える。
「あなたの誕生日に、一体なにが不満なんだ?」
オーランドはいつしか、わたしの張り付いた笑みの中に隠している本心に、気がつくようになっていた。
「不満などありません」
微笑みとともにそう答えても、オーランドは納得していない。
「贈り物が不満なのか。本当は、何が欲しい?」
欲しいものなんてないけど、ひとつだけ頭に浮かんだものがある。
「ミーシャ」
「誰だ?」
不審そうに眉を顰める彼がおかしくて、本当の笑いが漏れた。
「ミーシャはミーシャです。かわいいネコの、ぬいぐるみ」
幼い頃のわたしの相棒、ふわふわの猫のぬいぐるみ、ミーシャのことを思い出した。
お父様の領地は元々別の領地を割譲されていただけだから、今はまた、元の領地に統合された。お屋敷にも既に、他の人が住んでいるという。だからあのぬいぐるみは、もう失われてしまっているのかもしれない。
滞りなくパーティは進み、もう下がっていいとオーランドに言われたから、お言葉に甘えて先に休むことにした。わたしがきちんと職務を果たしたから、オーランドもサーリも機嫌がいい。
なのに侍女を引き連れ廊下を歩いていた時、ルカに呼び止められた。
「イリス、来なさい。他の者は下がっていい」
今日はお風呂の日だったから楽しみで、早く戻りたいから嫌だったけど、まさか断れない。心配そうなお母様に、大丈夫だと目で合図をし、せっかちにも既に歩き始めたルカの後に、付いて行った。
「一体なんです? 明日ではダメなのですか?」
ルカは横目でわたしをジロリと見て、ため息を吐いた。
「あなたは気の強い猫のようだな。見せたいものがあるだけだ」
特に会話があるはずもなく、並んで歩くと、外に出て、庭を抜ける。もう夜で、まだパーティを続けている人々の声が、聞こえて来ていた。
やがてある建物の前でルカは立ち止まった。こんな建物あったっけ? と考えている間にも、ルカは鍵穴に鍵を通して扉を開いた。中を見た途端、声が漏れた。
「まあ……!」
天井まで届きそうなほどの棚が何個も設置されていて、中には大量の本が入っている。壁にもずらりと、本が並んでいた。
それは図書室だ。
「すごい! 貴重なものまであるわ! どうやって集めたの?」
ルカの前だけど興奮を隠さなかった。本は好き。だから、嬉しかった。
「陛下があなたの誕生日に合わせて誂えた図書室だ。自由に使っていい。鍵はあなたと陛下が持つ」
そう言って、ルカはわたしに真鍮の鍵を手渡した。さすが皇帝家だわ、やることのスカールが大きい。
「だけど、ご自分でおっしゃってくださればいいのに」
初めてルカは口元を緩めた。冷血漢が浮かべるのは、意外にも優しい笑みのように思えた。
「陛下はあれで、あまり素直でないお方だ。あなたの反応が心配だったのだろう」
他人には冷たいルカだけど、オーランドの話をする時だけは、こんな表情になるのだ。
「ルカ様はオーランド様が本当に大切なのですね」
ルカはわたしの言葉には答えずに、別のことを言う。
「……そうして陛下は、あなたを大切に思っている。望めばなんでも手に入るあの方が、唯一手にできないものは、あなたの心くらいなものだろう。
私も、あなたの働きには本心から感謝している。陛下の孤独な心が、あなたによって癒やされていることも確かだ」
「それはどうかしら。わたしは憎まれ口ばかりきいていると思いますわ」
「……それでいいんだ。少なくとも、陛下にとっては。彼はそんなあなたを、心から必要としているのだから」
突然ルカは、わたしの胸元の、金の指輪に触れた。
驚いて身を引く。大切なわたしの指輪を、誰にも触られたくなかった。
一瞬の沈黙があった。
先に口を開いたのはルカだった。
「もう思い出は忘れなさい。あなたは小さな土地の領主の娘ではなく、帝国の聖女だ。いずれは皇妃になるのだから、どれほど望もうが、二度とそこには戻れない。母親を手元に残しただけでも、陛下に感謝するべきだ」
思い出を忘れるつもりはなかった。この男がディマを処刑しようとしたことも、忘れていない。
言いたいことは色々あった。だけど全てを飲み込み、曖昧な笑みを作ってみせる。
「もちろん、感謝しています。陛下にも、そうして、あなたにも」
大きな船の舵取りをしているのは誰? 甥? それとも伯父?
ルカは無表情のまま言った。
「あなたがこの贈り物を喜んでいたと、陛下に伝えよう」
「自分で伝えます。だって物言う口があるのですから」
部屋に戻ると、お母様が風呂を作ってくれていた。
湯船に浸かりながら、手鏡を見る。気弱そうな女の子が、不安げにわたしを見つめていた。心の中で、話しかける。
――大丈夫よイリス。あと数年の辛抱だわ。何もかも、元通りになるんだから。
壁のセオドアの絵は外し、当たり障りのない風景画に変えていた。今セオドアの絵は、物入れの中に布を被せてしまわれている。
数日後、部屋のテーブルの上に、上等な猫のぬいぐるみが置いてあった。ミーシャとは、似ても似つかない高級なぬいぐるみ。差出人はすぐに分かる。
「ちゃんと、伝えてくれればいいのに」
本当に欲しいものは、誰にも邪魔されないわたしの人生と、愛する家族との暮らしだけ。オーランドには、絶対に与えられないものだった。
当日は大掛かりなお祝いが開かれるから、わたしも朝から準備をする。
派手なお祝いなんて、好きじゃなかった。誕生日っていうのは、家族で楽しく過ごす日のはずだ。大勢に囲まれて、愛想笑いの連続なんて、全然好きじゃない。
今日のためにお母様が張り切って注文したドレスは、白地に金の刺繍があしらわれたものだった。控えめで上品なドレスに合うようにと、お母様の指示に従い侍女たちはせっせとわたしを着飾った。
そうして準備を終え、鏡の前に立った時、侍女の一人がうっとりと言う。
「イリス様、ため息が出るほどにお美しいですわ」
まあね。それは確かに同意。
乗り気じゃないパーティだけど、今日のイリスの見た目はいつにもまして完璧だった。大きな瞳に小さな鼻、形のいい唇。白い肌に、薔薇色の頬。華奢な体に細い腰は、あと数年もしたら男の人の目を引きそうだ。
――本当にこの子は可愛い。
鏡の前でくるりと回ってみる。儚げな表情を浮かべてしなでも作ってみせれば、あと数年と言わず、たちまち皆、虜になりそう。少し開いたドレスの胸元には、ディマから貰った金の指輪と、クロードに貰った小さな水晶が光る。
「領地で開催したパーティを覚えてる?」
わたしの様子を見たお母様は、にこりと笑う。もちろん覚えている。
「あの時みたいに、とても可愛いわ」
そう言う彼女も、すごく綺麗だった。紺地の、絹のドレスが彼女の衣装だ。
「お父様とディマにも見せてあげたい。なんて言うかしら」
「世界で一番可愛いって、褒めるに決まってる。あなたを見れば、誰だって好きになるわ。今日はたくさんの人と会うけれど、いつも通りでいいのよ。去年も一昨年も、なんの問題もなかったんだもの。
終わったら、お風呂に入りましょう。部屋に浴槽を運ばせるわ」
お母様はそう言って、わたしの頭をそっと撫でた。
◇◆◇
わたしの誕生日パーティは、お城の広間で催されることになっていた。中には数日滞在する人たちもいて、パーティ開始前から城内はいつもより浮かれて賑やかだった。
会場に入る前に、サーリとオーランドに会いに行った。彼らも準備を終えて、皇太后の部屋にいた。わたしとお母様が部屋に入ると、座って待っていたサーリが、ぱっと顔を輝かせた。
「まあふたりとも、なんて素敵なのかしら――!」
それは彼女の本心だろう。お城で暮らし始めてからずっと、サーリはわたしたちに親切にしてくれていた。心の優しい彼女だから、宮廷に馴染めなくて体を壊してしまったんじゃないかと疑ってしまうほど、皇太后サーリは穏やかな女性だった。
オーランドは母親の隣に立ち、いつもの笑みを浮かべている。
「もう、十年以上も昔だけれど、元気がよくて賢い、本当に可愛らしい侍女がおりました。彼女はわたくしのとびきりお気に入りでしたよ。イリスは彼女にそっくりね。あの頃が戻ってきたみたいに思います」
お母様が顔を赤らめた。
「あなたはわたしの憧れでした、サーリ様」
サーリは頷き、オーランドに支えられながらも立ち上がる。日中、ベッドで過ごすことの多いサーリは、足が少し弱いらしい。
わたしの側までやって来て、彼女はわたしの手を取ると、やはりにっこりと笑った。
「十三歳、おめでとうイリス。今まで通り、陛下に尽くしてくださいね」
「はい、サーリ様。もちろんです」
わたしたちのやり取りを、オーランドは黙って見つめていた。
パーティは進んでいく。
場を仕切っているのはルカ・リオンテールだった。彼はオーランドが成人するまでの間、摂政を務めていた。サーリと顔は似ているけど、彼から温かみを感じたことはない。
だけどサーリはルカを信頼していた。
小説でルカの影が薄かったのは、小説開始時において、すでにオーランドは成人していて、摂政職は廃止されていたせいかもしれない。
このところ思う。
あの小説はすべて、アリアに都合の良い部分だけが切り取られていたのかもしれないと。だから、現実には知らない部分も多い。
たとえば、昔、ディマがテミス家に来たあの日。ミランダは本当は、ディマに攻撃したのかもしれない。幼いイリスが彼を助けることは当然なかった。
ディマは悲しみを家族と共有することなく、持て余し、一人、異国へと行ったんだ。
一方では思う。“本当”なんてあり得ない。イリスは小説の悲劇の舞台装置としてしかいないのだから。
次々に目の前に現れる国内外の重鎮たちから順に祝福の言葉を受け、そうして聖女として、わたしも彼らに言葉をかけながら、頭の中ではそんなことばかり考えていた。
だからだろうか。
踊っているときに、オーランドが耳元で囁いた。
「あまり集中していないね。楽しくないのかい」
「とても楽しんでいますわ」
慌ててわたしは答える。
「あなたの誕生日に、一体なにが不満なんだ?」
オーランドはいつしか、わたしの張り付いた笑みの中に隠している本心に、気がつくようになっていた。
「不満などありません」
微笑みとともにそう答えても、オーランドは納得していない。
「贈り物が不満なのか。本当は、何が欲しい?」
欲しいものなんてないけど、ひとつだけ頭に浮かんだものがある。
「ミーシャ」
「誰だ?」
不審そうに眉を顰める彼がおかしくて、本当の笑いが漏れた。
「ミーシャはミーシャです。かわいいネコの、ぬいぐるみ」
幼い頃のわたしの相棒、ふわふわの猫のぬいぐるみ、ミーシャのことを思い出した。
お父様の領地は元々別の領地を割譲されていただけだから、今はまた、元の領地に統合された。お屋敷にも既に、他の人が住んでいるという。だからあのぬいぐるみは、もう失われてしまっているのかもしれない。
滞りなくパーティは進み、もう下がっていいとオーランドに言われたから、お言葉に甘えて先に休むことにした。わたしがきちんと職務を果たしたから、オーランドもサーリも機嫌がいい。
なのに侍女を引き連れ廊下を歩いていた時、ルカに呼び止められた。
「イリス、来なさい。他の者は下がっていい」
今日はお風呂の日だったから楽しみで、早く戻りたいから嫌だったけど、まさか断れない。心配そうなお母様に、大丈夫だと目で合図をし、せっかちにも既に歩き始めたルカの後に、付いて行った。
「一体なんです? 明日ではダメなのですか?」
ルカは横目でわたしをジロリと見て、ため息を吐いた。
「あなたは気の強い猫のようだな。見せたいものがあるだけだ」
特に会話があるはずもなく、並んで歩くと、外に出て、庭を抜ける。もう夜で、まだパーティを続けている人々の声が、聞こえて来ていた。
やがてある建物の前でルカは立ち止まった。こんな建物あったっけ? と考えている間にも、ルカは鍵穴に鍵を通して扉を開いた。中を見た途端、声が漏れた。
「まあ……!」
天井まで届きそうなほどの棚が何個も設置されていて、中には大量の本が入っている。壁にもずらりと、本が並んでいた。
それは図書室だ。
「すごい! 貴重なものまであるわ! どうやって集めたの?」
ルカの前だけど興奮を隠さなかった。本は好き。だから、嬉しかった。
「陛下があなたの誕生日に合わせて誂えた図書室だ。自由に使っていい。鍵はあなたと陛下が持つ」
そう言って、ルカはわたしに真鍮の鍵を手渡した。さすが皇帝家だわ、やることのスカールが大きい。
「だけど、ご自分でおっしゃってくださればいいのに」
初めてルカは口元を緩めた。冷血漢が浮かべるのは、意外にも優しい笑みのように思えた。
「陛下はあれで、あまり素直でないお方だ。あなたの反応が心配だったのだろう」
他人には冷たいルカだけど、オーランドの話をする時だけは、こんな表情になるのだ。
「ルカ様はオーランド様が本当に大切なのですね」
ルカはわたしの言葉には答えずに、別のことを言う。
「……そうして陛下は、あなたを大切に思っている。望めばなんでも手に入るあの方が、唯一手にできないものは、あなたの心くらいなものだろう。
私も、あなたの働きには本心から感謝している。陛下の孤独な心が、あなたによって癒やされていることも確かだ」
「それはどうかしら。わたしは憎まれ口ばかりきいていると思いますわ」
「……それでいいんだ。少なくとも、陛下にとっては。彼はそんなあなたを、心から必要としているのだから」
突然ルカは、わたしの胸元の、金の指輪に触れた。
驚いて身を引く。大切なわたしの指輪を、誰にも触られたくなかった。
一瞬の沈黙があった。
先に口を開いたのはルカだった。
「もう思い出は忘れなさい。あなたは小さな土地の領主の娘ではなく、帝国の聖女だ。いずれは皇妃になるのだから、どれほど望もうが、二度とそこには戻れない。母親を手元に残しただけでも、陛下に感謝するべきだ」
思い出を忘れるつもりはなかった。この男がディマを処刑しようとしたことも、忘れていない。
言いたいことは色々あった。だけど全てを飲み込み、曖昧な笑みを作ってみせる。
「もちろん、感謝しています。陛下にも、そうして、あなたにも」
大きな船の舵取りをしているのは誰? 甥? それとも伯父?
ルカは無表情のまま言った。
「あなたがこの贈り物を喜んでいたと、陛下に伝えよう」
「自分で伝えます。だって物言う口があるのですから」
部屋に戻ると、お母様が風呂を作ってくれていた。
湯船に浸かりながら、手鏡を見る。気弱そうな女の子が、不安げにわたしを見つめていた。心の中で、話しかける。
――大丈夫よイリス。あと数年の辛抱だわ。何もかも、元通りになるんだから。
壁のセオドアの絵は外し、当たり障りのない風景画に変えていた。今セオドアの絵は、物入れの中に布を被せてしまわれている。
数日後、部屋のテーブルの上に、上等な猫のぬいぐるみが置いてあった。ミーシャとは、似ても似つかない高級なぬいぐるみ。差出人はすぐに分かる。
「ちゃんと、伝えてくれればいいのに」
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