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第二章 襲い掛かる魔の手

第二十五話 不安の芽

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 不快指数が上昇する六月末頃。
 綾南高校は期末試験シーズンを間近に迎えていた。
 
 とっぷりと日も暮れた夜。
 茉莉は自室で教科書を構えている。
 その日は珍しく涼しい日だったので、窓を開けていた。
 
 (そろそろ窓を閉めなくては)
 
 窓を閉めようと椅子から立ち上がった。
 ふと気配を感じ、振り向くと、黒い外套が目に飛び込んで来た。
 
 黒装束に身を包んでいる。
 青白い額に溢れるプラチナブロンドの髪。
 長いまつ毛に彩られたブルーサファイアの瞳。
 氷のような冴え冴えとした美貌の男が目の前に佇んでいる。
 
「……あなた……誰?」
 
 訝しげに眺める茉莉。それに対し、その男は静かな低音の品位のある声で話しかけてきた。
 
「死神とでも言っておこうか」 
 
「……で、死神のあなたが私に何か用?」
 
「まずは先日の無礼に対する詫びを。私の配下の者が君に傷を負わせたそうだな。済まなかった」
 
 美しき不法侵入者に優美なお辞儀をされて、部屋の主は拍子抜けしそうになった。
 
 (最近何か宝石の瞳を持つ人形みたいなのばっかり見ている気がするんだけど、気のせいかしら? )
 
「……いえ。もう大丈夫。今は平気だから良いけど……」
 
「あとはもう一つ、少し君と話しをしに来た」
 
 (まだ用があるの……? さっさと済ませてよ……)
 
 茉莉は少しイラッときた。来週試験を控えている身としては、少しの時間さえも惜しい。だが、ここでぐっと堪えた。ある程度相手したら引いてくれそうな気がしたからだ。
 
「私、今暇じゃないんだけど、何故?」
 
「ルフスが気にかける人間がどんな人かを確かめたくてね」
 
 ぴくりと反応する。
 
 (ああ、やはり彼は吸血鬼の仲間か)
 
「あなた、ルフスの知り合い?」
 
「ああ。彼とは長い付き合いになる。訳あって彼は我々の目の前から一度姿を消した。だが久し振りに姿を現した彼は随分と変わったという話しを仲間から聞いた」
 
 (あの“ウィリディス”という色っぽいナイスバディな女も仲間な訳ね)
 
「だからなの。ふぅん」
 
 適度にやり過ごそうと努力する。だが相手は解放してくれる気配は一向に見えない。
 
「聞いた話しだと、どうやら彼は君に自分の傍に居るように仕向けているようだな」
 
「そうね。間違ってないわ」
 
「それが何故だか想像出来るか?」
 
 相手は更に踏み込んで来た。
 案外しぶとい。
 まるで獲物を逃さないようにするハイエナのようだ。
 茉莉は少し動揺したが、顔に出さないように耐えた。
 
「分からない。確かに彼には自分の近くにいるようにと言われているけど、理由は聞いてないし何も思い浮かばないわ」
 
 いい加減早く解放して欲しいが、この様子では簡単に逃してくれなさそうだ。
 
「ならば言い方を変えてみようか。君自身が無事でないと困る理由だ」
 
「困る? 私? 私が無事でなければ何故困るの?」
 
「君は、自分自身が彼の“目的そのもの”である可能性を考えたことはあるか?」
 
「私が……目的?」
 
「君を守るように見せかけて、その実、君を誰にも渡す気はない」
 
「……私が……彼の目的そのもの……!?」
 
 雷が落ちたかのように衝撃が身体中を駆け巡った。
 あまり考えたくないことだった。
 
「例えば、君自身が“芍薬姫”の化身か肉体としての新たな器だとしたら……!?」
 
 満ちて来る潮のような問いに、茉莉は腸が煮えくり返る思いがした。
 何だか心を土足で踏み込まれたような感じがする。
 
「何それあり得ない。 あり得ないわそんなの!! 私はただの人間よ。 その根拠は一体何よ!?」
 
 (こいつ一体何が言いたいの!? 何か、イライラする……! )
 
 いい加減自由にさせて欲しい茉莉。
 だが、相手は容赦なく語りかけてくる。
 
「君の住む街に現れて、君が通う学校に入り込んで、君が襲われた時に助けに現れて……偶然にしてはやけに出来過ぎとは思わないか?」
 
 畳み掛けてくるような声に、何か胸をちくちく刺される感じがした。
 
 (言いたいことは分からなくはないけど、だからって……)
 
「君の身体に流れる血を守る為なら彼は何でもやるだろうな」
 
「……!?」
 
 茉莉はそこでふと、息を呑んだ。
 
 (そんな……そんなことって……)
 
 全て仕組まれたことなのか?
 今までなかった違和感が茉莉の胸の奥から生まれてくる。
 
 確かに今まで起きてきたことを思い起こせば、どれもあまりにも出来過ぎていて、却って違和感を感じる。
 茉莉自身、吸血鬼事件が起こっても、ルフスの傍にいれば守ってもらえる為妙な安心感があった。だけどそれが意図的だとしたら……!?
 
 戸惑いの中に包まれた、わずかな怒り。
 心の中に今までなかった感情が芽生えた。
 
 茉莉の表情が変わるのを見て、その男は薄い唇に薄っすらと笑みを浮かべた。真珠色の犬歯が艷やかに輝く。
 
「あくまでも憶測だ。実際に確かめた訳ではないが、理論立てて考えてみると、可能性がゼロとも言えぬだろう?」
 
「……」
 
 理論的に考えてもズレがない為、反論出来ない。
 そんな彼女にその男は音もなく細くて長い右手を伸ばし、顎を捕らえた。
 
「……何す……!」
 
 自分の顎にそっと手を添えられているだけなのに、身体が思うように動かない。その手は陶器のようななめらかさを持ち美しいのに、爬虫類の鱗のようにひんやりとしている。
 
「それにしても……君は綺麗な肌をしているな……」
 
 耳から注ぎ込まれる声は静かでどこか優しいのに、薄ら寒い感じがする。
 
「……やめ……」
 
 頬を撫でられる感触と首元にかかる吐息にぞくぞくして、全身の鳥肌が立った。
 
「……きめ細やかでシミひとつない……ルフスへやる前に我が物としたくなる……」
 
 耳から吹き込まれるその言葉は本気か嘘か真意は定かではない。
 背中に冷や汗が流れてきた。
 
 その男は唇が付くか付かないか、ぎりぎりの距離で真っ直ぐの視線を向けてきた。
 青い瞳の中で矢車菊が花弁を開いたかのように輝いた。
 
 (しまった! 瞳を見てしまった。 何か輝いたような……)
 
 茉莉は嫌な予感がしたが、身体は昆虫の標本のように身動きがとれない。目を背けたかったが、男から瞳を外すことさえ出来ない。
 
「本当に美しいな……艶々と輝いておる……」
 
 指一本動かせないのを良い事に茉莉の身体をゆっくりと壁に押し付けた。両手を頭上で押さえつけられている為、逃げたくても逃げられない。
 
「……冗談はさておき。例えば彼が君を吸血した場合、君がただの人間なら、彼は吸血鬼として完全体になる。君が芍薬姫の化身なら彼は人間に戻れる。それだけははっきりしている」
 
 舌舐めずりをする音が耳元で響き、茉莉は身を固くする。
 氷雪のような美貌に足の下から頭の先まで舐めるように見つめられ、氷漬けにされた心地がした。
 
「我々にとっては前者の方が望ましいがな。いずれにしても彼に血を吸いつくされたら君の生命はきっとないだろう。彼は血の一滴も無駄にしない主義だからな」
 
 男の左手が静かに腰から脇腹へとなで上げる動きをした。
 Tシャツの背中がぞくりとする。
 その手は茉莉の黒髪をゆっくりともて遊んだ。
 
「……嫌……! 離して……!!」
 
 身体を触られることに対し全身に嫌悪感が走る。
 我知らず瞳から涙が一粒零れ落ちた。
 
「君はあわれな人間だな。稀代の吸血鬼に目を付けられたばかりに……」
 
 もう少しで唇が接触するかと思ったその瞬間、急に明るい、刺すような光が飛び込んで来た。
 
「……?」
 
 眩しさのあまり目を閉じた。
 
 ※ ※ ※
 
「……!!」
 
 茉莉は何かに弾かれたように飛び起きた。
 まだ靄がかかっている。
 
「……?」
 
 視界がはっきりしてくると、いつも見慣れている机の上だった。ノートや教科書が開きっぱなしである。
 
 (……夢……!? )
 
 つい机の上でうたた寝してしまった。
 正確には寝落ちというべきか。
 
 自分の身体を確かめ、着ているものも昨夜のままで特に変わりないのを確認し、安堵の吐息をついた。
 
「はっくしょん!」
 
 盛大なくしゃみを一つする。
 
 (またやってしまった!)
 
 Tシャツの背中が嫌な汗でべっとりしているから、着替えは必要だ。ジーパンの裾から出ている太腿も汗でしっとりとしている。
 
 今日は確か日曜日。
 時計を見ると、朝八時を指していた。
 鞭で背中を引っ叩かれたような衝撃が走った。
 胸中はマグマが噴火しそうである。
 
「……あの男は一体何なの!? 人の夢に現れて好き放題言って! 夢の中なのに何か無性に腹立つ……!!」
 
 現実は非情だ。
 時計の針は待ってくれない。
 
「あああ……明日から期末試験なのに……!!」
 
 とんでもない邪魔が入ったものだ。
 イライラしても時間が無駄に過ぎるだけ。
 
 (焦ったら駄目よ。冷静になるのよ茉莉! )
 
 ただ、男に言われたことは悲しいことだが理論的にも外れてはいないことだった。冷静になればなるほど背筋が寒くなる。
 
「一度本人に直接聞いてみるしかないわね。勿論、試験が終わってから。まずは打倒試験! 何とかして赤点だけは避けねば!!」
 
 勉強が苦手な茉莉は体育以外はいつも赤点すれすれである。内申点は期待出来ないし、無論本人も期待していない。着替えついでにシャワーを浴び、朝食をとってから続きをすることに決めた。
 
 ※ ※ ※
 
 この時、茉莉は疲れのせいで変な夢を見ただけだろうと軽く考えていた。しかしそれが実は現実だったことに後々身を持って思い知らされることとなる。
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