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クロイティル編
ep.35 リンナの約束と、石碑の教え
「さて。まずは、お互いにエシャール様から何を告げられたのか、確認いたしましょう」
ロゼリア様の声が、静かな面談室に響いた。
壁際にはガイルが立ち、閉ざされた扉へ時折視線を向けている。
足元の敷物ではルクスが伏せていたが、その耳は廊下の気配を探るように立ったままだった。
私は隣に座る瑛太さんと顔を見合わせた。
エシャール様から与えられた役目を説明するには、私たちが別の世界から転生したことから話さなければならない。
コンラート大司教には知られたくないことだけれど、神託を受けて待っていたというロゼリア様には、隠さず伝えた方がよさそうだった。
「私たちは、地球という別の世界で夫婦として暮らしていました。二人とも寿命を迎えて亡くなった後、エシャール様のお力で、この世界へ転生したんです」
ロゼリア様の目が大きく見開かれる。
すぐに問い返されるかと思ったものの、彼女は胸元へ手を添え、続きを待つように姿勢を正した。
「エシャール様から頼まれたのは、私たちが知っている料理や調理法を伝えて、この世界の食文化を少しずつ豊かにすることです。それ以外の役目は、与えられていません」
錬金や調合、瑛太さんの生産も、すべて暮らしを整える中で自分たちが始めたことだった。
神から頼まれたから動いているのではなく、この世界でも二人で暮らしていくために必要なものを、一つずつ作ってきたにすぎない。
エシャール様から届いた手紙に、クロイティルの教会へ立ち寄るよう書かれていたことまで伝えると、ロゼリア様は考え込むように目を伏せた。
膝の上で重ねられた指先が、わずかに動く。
「……そうでしたのね。先日、わたくしが受けた神託とも一致しますわ」
ロゼリア様が授かったのは、銀青色と銀色の髪を持つエルフの夫婦が、赤髪の護衛と大きな従魔を連れて訪れるという神託だった。
その者たちを迎えるよう命じられたものの、名前も訪れる日も告げられず、何日も待ち続けていたらしい。
「エシャール様は、必要なことしかお教えくださいませんもの。礼拝堂でお二人を見た時も、すぐには確信を持てませんでしたわ」
ただ教会へ立ち寄るだけだと思っていたけれど、エシャール様は最初から、私たちとロゼリア様を引き合わせるつもりだったのだろう。
その理由までは分からない。
けれど、神託を受けて待っていた彼女なら、私たちがクロイティルで活動するうえで力を貸してくれるかもしれなかった。
「食材や、この街の料理について調べるために、少し協力してもらえませんか? 街や周辺のことを教えてもらったり、信頼できる方を紹介してもらったりできれば、それだけでも助かります」
私の頼みを聞くうちに、ロゼリア様の表情が曇っていく。
断りたいというより、どこまで引き受けられるのかを慎重に考えているように見えた。
「わたくし個人として協力することに異存はありませんわ。ただし、教会からの支援は期待なさらないでくださいませ」
ロゼリア様によればこの教会では、コンラート大司教が強い権限を握っている。
私たちが神託に関わる者だと知られれば、保護という名目で教会の管理下へ置かれる可能性もあるという。
「さっきの様子を見る限り、話を聞く相手ではないな」
壁際からガイルの低い声が届く。
礼拝堂での態度を思い返せば、私も否定できなかった。
エルフというだけであれほど執拗に絡んできたのだから、転生やエシャール様から与えられた役目まで知られれば、穏便には済まないだろう。
ロゼリア様は教会と切り離したうえで、街の情報や食材を扱う商人の紹介、教会に関わる問題が起きた時の相談なら引き受けると約束してくれた。
張り詰めていたものが少しだけ和らぎ、私は息をつく。
「ありがとうございます。それだけでも、とても助かります」
「ただし、わたくしからも条件がありますの」
急に改まった口調に、緩みかけた背筋を伸ばす。
ところが、ロゼリア様の視線は私と瑛太さんの間を落ち着かない様子で行き来していた。
教会に関わる難しい要求をされる雰囲気ではない。
「いろいろな料理を作っていらっしゃるのでしょう? でしたら、わたくしにも何か作ってくださいませ。こちらもお力を貸すのですから、それくらいお願いしてもよいはずですわ」
思いがけない条件に、身体から力が抜けた。
無理な頼み事をされるより、ずっと応えやすい。
それに、私たちの料理へ興味を持ってもらえたことが嬉しかった。
好きな食材を尋ねると、ロゼリア様は誰かに聞かれることを気にするように声を落とした。
「……リンナが好きですわ」
少し恥ずかしそうに告げられた名前を聞き、地球で作っていた料理を思い返す。
甘く煮てもいいし、生地で包んで焼いてもおいしい。
箱庭で採れたリンナなら、以前タルトタタンに使っている。
味に問題はなかった。
確かめたいのは、この街で売られているリンナも同じ味なのかということだった。
まずは実物を手に入れて味を確かめ、それからロゼリア様に何を作るか考えればいい。
ただ、そのためには調理場所と届け方を決める必要がある。
今は屋敷を離れているため、自由に使える厨房がない。
泊まっている鳥の導き亭には食堂があるものの、宿泊客が厨房を借りられるのかは分からなかった。
そのことを伝えると、ロゼリア様は、手が空いている時間なら使用料を取って調理場を貸す宿も多いと教えてくれた。
鳥の導き亭でも、エドさんかクロエさんへ相談してみる価値はありそうだ。
「届けにいらっしゃる時の連絡には、こちらをお使いなさい」
ロゼリア様は席を立ち、壁際に置かれた小机の引き出しを開けた。
中から取り出したのは、乳白色の石がはめ込まれた二つの銀の腕輪だった。
そのうち一つを手元に残し、もう一つを私の前へ置く。
「対になった通信の魔道具ですわ。石へ魔力を流しながら話せば、もう片方へ声が届きますの。あまり遠く離れると使えませんけれど、クロイティルの中や周辺からなら問題ありませんわ」
腕輪を手に取ると、中央の石から微かな魔力を感じた。
これがあれば、正面から教会を訪ねなくても、事前にロゼリア様へ連絡できる。
「次にいらっしゃるまでに、事情を伏せたまま協力してくれる者を選んでおきます。その者に裏手の扉を開けさせ、わたくしのところまで手引きさせますわ」
「ありがとうございます。なくさないようにしまっておきますね」
腕輪をインベントリへ収める。
ただ、私たちは明日には一度クロイティルを出る予定だった。
今日中にリンナを探し、初めて借りる調理場で料理を完成させるのは難しい。
急いで間に合わせるより、次に訪れた時に、きちんと納得できるものを届けたかった。
「次にクロイティルへ来た時でもいいですか? その方が、リンナの味に合わせて考えたものを作れると思うんです」
ロゼリア様は残念そうに眉を下げたものの、すぐに澄ました表情へ戻った。
「仕方ありませんわね。そこまでおっしゃるのでしたら、待って差し上げます。忘れたとは言わせませんわよ」
「はい。必ず作ってきますね」
満足そうに頷く姿を見て、張り詰めていた部屋の空気がようやく和らいだ。
神託を受けた聖女へ料理を届けることになるとは思わなかったけれど、協力してもらうばかりではなく、私たちから返せるものもある。
そう考えると、先ほどまでより彼女との距離が近づいたように感じられた。
話がまとまったところで、もう一つ相談しておきたかったことを思い出す。
「ロゼリア様。回復魔法についても、教えてもらえませんか?」
私は回復魔法のスキルを習得している。
スペルジェムを使ってキュアを発動したことはあるものの、自分のスキルだけで使ったことは一度もなかった。
攻撃魔法なら、人のいない場所で標的へ向けて試すことができる。
けれど、回復魔法は扱い方も効果も分からないまま、怪我をしている人へ使う気にはなれない。
教会の治療院なら、安全に教えてもらえるのではないかと考えていた。
「本来なら、治療院で指導を受けるのが最も安全ですわ。ただ、今はこちらを利用することはお勧めできません」
治療院を利用すれば、私が回復魔法を扱えることは必ずコンラート大司教の耳に入る。
これ以上目をつけられれば、ロゼリア様が庇い続けることも難しくなるらしい。
「まずは冒険者ギルドへ相談なさい。魔法を扱う冒険者もおりますし、必要なら指導できる者を紹介してもらえるはずですわ」
「冒険者ギルドでは、ロゼリア様から勧められたと伝えてもいいですか?」
「構いませんわ。ただし、教会から正式に頼まれたような言い方はなさらないでくださいませ」
「ロゼリア様……私が目をつけられないように、そこまで考えてくれたんですね」
「勘違いなさらないでくださいませ。何も知らずに教会で回復魔法を使われて、あの方に騒がれては、わたくしまで迷惑を被りますの」
「では、そういうことにしておきますね」
「どうして、そのような分かったような顔をなさいますの!」
ロゼリア様は頬を染め、私から顔を逸らした。
礼拝堂では気の強い聖女にしか見えなかったけれど、実際には私たちの立場を考え、危険を避ける方法まで探してくれている。
素直に親切だと認めることが、少し苦手なだけなのだろう。
面談を終えると、彼女は正面の礼拝堂ではなく、教会の裏手へ続く通路へ私たちを案内する。
石造りの廊下を抜けた先には、小さな中庭があった。
手入れされた草木に囲まれた中央に、私の背丈よりも高い古びた石碑が立っている。
ルクスも敷物から立ち上がり、私たちの後について中庭へ出てきた。
「これは何ですか?」
「エシャール様の教えが刻まれた石碑ですわ。教会を訪れた者なら、誰でも読むことができますの」
石碑の正面へ回り、刻まれた文字を上から目で追っていく。
生けるものよ、聞け。
生とは、安らぎのみで成るものではない。
人は飢えを知り、寒さを知り、病を知る。
喜びを知ると同じだけ悲しみを知り、
出会いを知ると同じだけ別れを知る。
生ある限り、死は常に傍らにある。
その理より逃れられる者はなく、
明日という日を約された者もいない。
辛苦は貴方の歩みを阻み、
災厄は幾度となく道を閉ざす。
努力が報われぬ日もあれば、
積み上げたものが、一夜にして失われる日もあるだろう。
されど、歩みを止める勿れ。
嘆きに心を委ねる勿れ。
死を恐れるあまり、生を見失う勿れ。
生は、一日にして成るものではない。
幾千もの選択を重ね、
幾千もの営みを重ね、
人は己の生を形作る。
日々を積み重ねよ。
小さき行いを疎かにするな。
積み重ねた時は、貴方の糧となり、
積み重ねた想いは、貴方の支えとなる。
死は命を終わらせる。
されど、生きた日々まで奪うことはできぬ。
貴方が重ねた歩みは、貴方という存在の中に刻まれ、
決して失われることはない。
ひとつひとつの営みは、
冷えた心へ、静かに火を灯すように――
貴方を、強く。
静かに、折れぬ者へと成してゆくだろう。
最後まで読み終え、隣に立つ瑛太さんを見上げた。
私たちは一度、地球での人生を終えている。
それでも、二人で料理をし、同じ食卓を囲み、思うようにいかない日には支え合ってきた記憶まで、失われたわけではない。
エシャール様から頼まれた役目も、きっと同じなのだろう。
一度の料理で、この世界の食文化すべてを変えられるわけではない。
目の前の食材を調べ、一つずつ料理を作り、それを誰かに食べてもらう。
そうして積み重ねたものが、いつか誰かの暮らしへ残っていく。
瑛太さんの手が伸び、私の左手を包んだ。
薬指にはめられた銀色の指輪へ目を落とし、私もその手を握り返す。
「今のお二人だからこそ、感じ取れるものもあるのでしょうね」
ロゼリア様はそれ以上の説明を加えず、静かに微笑んだ。
中庭を抜け、教会の裏手にある扉まで案内してもらう。
扉の先には建物の間を通る細い道が延び、その向こうから街の賑わいが聞こえていた。
「次にいらっしゃる時は、通信の魔道具でお知らせなさい。こちらに、手引きする者を向かわせますわ」
「ありがとうございます。約束したものも持ってきますね」
「リンナを使うことを、忘れてはなりませんわよ」
「もちろんです。楽しみにしていてください」
ロゼリア様に見送られ、私たちは教会を後にした。
エシャール様が私たちをこの教会へ導いた理由を、すべて理解できたわけではない。
それでも、ロゼリア様と出会い、あの石碑の言葉を読んだことには、きっと意味がある。
石碑に刻まれていた言葉を思い返しながら、隣を歩く瑛太さんの手を握る。
次にこの街を訪れる時には、ロゼリア様と約束したリンナの料理も忘れずに届けよう。
「それで、これからどうする?」
瑛太さんに尋ねられ、ロゼリア様から勧められた場所を思い浮かべる。
私たちは明日には一度街を出る予定だ。
なら、今日のうちに動いた方がいい。
「冒険者ギルドへ行ってみよう。登録もしないといけないし、回復魔法についても相談したいから」
「決まりだな。混む前に行くぞ」
ガイルに促され、私たちは人通りの多い大通りへ向かった。
ロゼリア様の名を出せば、本当に話を聞いてもらえるのだろうか。
そんなことを考えながら、私は冒険者ギルドを目指して歩き始めた。
ロゼリア様の声が、静かな面談室に響いた。
壁際にはガイルが立ち、閉ざされた扉へ時折視線を向けている。
足元の敷物ではルクスが伏せていたが、その耳は廊下の気配を探るように立ったままだった。
私は隣に座る瑛太さんと顔を見合わせた。
エシャール様から与えられた役目を説明するには、私たちが別の世界から転生したことから話さなければならない。
コンラート大司教には知られたくないことだけれど、神託を受けて待っていたというロゼリア様には、隠さず伝えた方がよさそうだった。
「私たちは、地球という別の世界で夫婦として暮らしていました。二人とも寿命を迎えて亡くなった後、エシャール様のお力で、この世界へ転生したんです」
ロゼリア様の目が大きく見開かれる。
すぐに問い返されるかと思ったものの、彼女は胸元へ手を添え、続きを待つように姿勢を正した。
「エシャール様から頼まれたのは、私たちが知っている料理や調理法を伝えて、この世界の食文化を少しずつ豊かにすることです。それ以外の役目は、与えられていません」
錬金や調合、瑛太さんの生産も、すべて暮らしを整える中で自分たちが始めたことだった。
神から頼まれたから動いているのではなく、この世界でも二人で暮らしていくために必要なものを、一つずつ作ってきたにすぎない。
エシャール様から届いた手紙に、クロイティルの教会へ立ち寄るよう書かれていたことまで伝えると、ロゼリア様は考え込むように目を伏せた。
膝の上で重ねられた指先が、わずかに動く。
「……そうでしたのね。先日、わたくしが受けた神託とも一致しますわ」
ロゼリア様が授かったのは、銀青色と銀色の髪を持つエルフの夫婦が、赤髪の護衛と大きな従魔を連れて訪れるという神託だった。
その者たちを迎えるよう命じられたものの、名前も訪れる日も告げられず、何日も待ち続けていたらしい。
「エシャール様は、必要なことしかお教えくださいませんもの。礼拝堂でお二人を見た時も、すぐには確信を持てませんでしたわ」
ただ教会へ立ち寄るだけだと思っていたけれど、エシャール様は最初から、私たちとロゼリア様を引き合わせるつもりだったのだろう。
その理由までは分からない。
けれど、神託を受けて待っていた彼女なら、私たちがクロイティルで活動するうえで力を貸してくれるかもしれなかった。
「食材や、この街の料理について調べるために、少し協力してもらえませんか? 街や周辺のことを教えてもらったり、信頼できる方を紹介してもらったりできれば、それだけでも助かります」
私の頼みを聞くうちに、ロゼリア様の表情が曇っていく。
断りたいというより、どこまで引き受けられるのかを慎重に考えているように見えた。
「わたくし個人として協力することに異存はありませんわ。ただし、教会からの支援は期待なさらないでくださいませ」
ロゼリア様によればこの教会では、コンラート大司教が強い権限を握っている。
私たちが神託に関わる者だと知られれば、保護という名目で教会の管理下へ置かれる可能性もあるという。
「さっきの様子を見る限り、話を聞く相手ではないな」
壁際からガイルの低い声が届く。
礼拝堂での態度を思い返せば、私も否定できなかった。
エルフというだけであれほど執拗に絡んできたのだから、転生やエシャール様から与えられた役目まで知られれば、穏便には済まないだろう。
ロゼリア様は教会と切り離したうえで、街の情報や食材を扱う商人の紹介、教会に関わる問題が起きた時の相談なら引き受けると約束してくれた。
張り詰めていたものが少しだけ和らぎ、私は息をつく。
「ありがとうございます。それだけでも、とても助かります」
「ただし、わたくしからも条件がありますの」
急に改まった口調に、緩みかけた背筋を伸ばす。
ところが、ロゼリア様の視線は私と瑛太さんの間を落ち着かない様子で行き来していた。
教会に関わる難しい要求をされる雰囲気ではない。
「いろいろな料理を作っていらっしゃるのでしょう? でしたら、わたくしにも何か作ってくださいませ。こちらもお力を貸すのですから、それくらいお願いしてもよいはずですわ」
思いがけない条件に、身体から力が抜けた。
無理な頼み事をされるより、ずっと応えやすい。
それに、私たちの料理へ興味を持ってもらえたことが嬉しかった。
好きな食材を尋ねると、ロゼリア様は誰かに聞かれることを気にするように声を落とした。
「……リンナが好きですわ」
少し恥ずかしそうに告げられた名前を聞き、地球で作っていた料理を思い返す。
甘く煮てもいいし、生地で包んで焼いてもおいしい。
箱庭で採れたリンナなら、以前タルトタタンに使っている。
味に問題はなかった。
確かめたいのは、この街で売られているリンナも同じ味なのかということだった。
まずは実物を手に入れて味を確かめ、それからロゼリア様に何を作るか考えればいい。
ただ、そのためには調理場所と届け方を決める必要がある。
今は屋敷を離れているため、自由に使える厨房がない。
泊まっている鳥の導き亭には食堂があるものの、宿泊客が厨房を借りられるのかは分からなかった。
そのことを伝えると、ロゼリア様は、手が空いている時間なら使用料を取って調理場を貸す宿も多いと教えてくれた。
鳥の導き亭でも、エドさんかクロエさんへ相談してみる価値はありそうだ。
「届けにいらっしゃる時の連絡には、こちらをお使いなさい」
ロゼリア様は席を立ち、壁際に置かれた小机の引き出しを開けた。
中から取り出したのは、乳白色の石がはめ込まれた二つの銀の腕輪だった。
そのうち一つを手元に残し、もう一つを私の前へ置く。
「対になった通信の魔道具ですわ。石へ魔力を流しながら話せば、もう片方へ声が届きますの。あまり遠く離れると使えませんけれど、クロイティルの中や周辺からなら問題ありませんわ」
腕輪を手に取ると、中央の石から微かな魔力を感じた。
これがあれば、正面から教会を訪ねなくても、事前にロゼリア様へ連絡できる。
「次にいらっしゃるまでに、事情を伏せたまま協力してくれる者を選んでおきます。その者に裏手の扉を開けさせ、わたくしのところまで手引きさせますわ」
「ありがとうございます。なくさないようにしまっておきますね」
腕輪をインベントリへ収める。
ただ、私たちは明日には一度クロイティルを出る予定だった。
今日中にリンナを探し、初めて借りる調理場で料理を完成させるのは難しい。
急いで間に合わせるより、次に訪れた時に、きちんと納得できるものを届けたかった。
「次にクロイティルへ来た時でもいいですか? その方が、リンナの味に合わせて考えたものを作れると思うんです」
ロゼリア様は残念そうに眉を下げたものの、すぐに澄ました表情へ戻った。
「仕方ありませんわね。そこまでおっしゃるのでしたら、待って差し上げます。忘れたとは言わせませんわよ」
「はい。必ず作ってきますね」
満足そうに頷く姿を見て、張り詰めていた部屋の空気がようやく和らいだ。
神託を受けた聖女へ料理を届けることになるとは思わなかったけれど、協力してもらうばかりではなく、私たちから返せるものもある。
そう考えると、先ほどまでより彼女との距離が近づいたように感じられた。
話がまとまったところで、もう一つ相談しておきたかったことを思い出す。
「ロゼリア様。回復魔法についても、教えてもらえませんか?」
私は回復魔法のスキルを習得している。
スペルジェムを使ってキュアを発動したことはあるものの、自分のスキルだけで使ったことは一度もなかった。
攻撃魔法なら、人のいない場所で標的へ向けて試すことができる。
けれど、回復魔法は扱い方も効果も分からないまま、怪我をしている人へ使う気にはなれない。
教会の治療院なら、安全に教えてもらえるのではないかと考えていた。
「本来なら、治療院で指導を受けるのが最も安全ですわ。ただ、今はこちらを利用することはお勧めできません」
治療院を利用すれば、私が回復魔法を扱えることは必ずコンラート大司教の耳に入る。
これ以上目をつけられれば、ロゼリア様が庇い続けることも難しくなるらしい。
「まずは冒険者ギルドへ相談なさい。魔法を扱う冒険者もおりますし、必要なら指導できる者を紹介してもらえるはずですわ」
「冒険者ギルドでは、ロゼリア様から勧められたと伝えてもいいですか?」
「構いませんわ。ただし、教会から正式に頼まれたような言い方はなさらないでくださいませ」
「ロゼリア様……私が目をつけられないように、そこまで考えてくれたんですね」
「勘違いなさらないでくださいませ。何も知らずに教会で回復魔法を使われて、あの方に騒がれては、わたくしまで迷惑を被りますの」
「では、そういうことにしておきますね」
「どうして、そのような分かったような顔をなさいますの!」
ロゼリア様は頬を染め、私から顔を逸らした。
礼拝堂では気の強い聖女にしか見えなかったけれど、実際には私たちの立場を考え、危険を避ける方法まで探してくれている。
素直に親切だと認めることが、少し苦手なだけなのだろう。
面談を終えると、彼女は正面の礼拝堂ではなく、教会の裏手へ続く通路へ私たちを案内する。
石造りの廊下を抜けた先には、小さな中庭があった。
手入れされた草木に囲まれた中央に、私の背丈よりも高い古びた石碑が立っている。
ルクスも敷物から立ち上がり、私たちの後について中庭へ出てきた。
「これは何ですか?」
「エシャール様の教えが刻まれた石碑ですわ。教会を訪れた者なら、誰でも読むことができますの」
石碑の正面へ回り、刻まれた文字を上から目で追っていく。
生けるものよ、聞け。
生とは、安らぎのみで成るものではない。
人は飢えを知り、寒さを知り、病を知る。
喜びを知ると同じだけ悲しみを知り、
出会いを知ると同じだけ別れを知る。
生ある限り、死は常に傍らにある。
その理より逃れられる者はなく、
明日という日を約された者もいない。
辛苦は貴方の歩みを阻み、
災厄は幾度となく道を閉ざす。
努力が報われぬ日もあれば、
積み上げたものが、一夜にして失われる日もあるだろう。
されど、歩みを止める勿れ。
嘆きに心を委ねる勿れ。
死を恐れるあまり、生を見失う勿れ。
生は、一日にして成るものではない。
幾千もの選択を重ね、
幾千もの営みを重ね、
人は己の生を形作る。
日々を積み重ねよ。
小さき行いを疎かにするな。
積み重ねた時は、貴方の糧となり、
積み重ねた想いは、貴方の支えとなる。
死は命を終わらせる。
されど、生きた日々まで奪うことはできぬ。
貴方が重ねた歩みは、貴方という存在の中に刻まれ、
決して失われることはない。
ひとつひとつの営みは、
冷えた心へ、静かに火を灯すように――
貴方を、強く。
静かに、折れぬ者へと成してゆくだろう。
最後まで読み終え、隣に立つ瑛太さんを見上げた。
私たちは一度、地球での人生を終えている。
それでも、二人で料理をし、同じ食卓を囲み、思うようにいかない日には支え合ってきた記憶まで、失われたわけではない。
エシャール様から頼まれた役目も、きっと同じなのだろう。
一度の料理で、この世界の食文化すべてを変えられるわけではない。
目の前の食材を調べ、一つずつ料理を作り、それを誰かに食べてもらう。
そうして積み重ねたものが、いつか誰かの暮らしへ残っていく。
瑛太さんの手が伸び、私の左手を包んだ。
薬指にはめられた銀色の指輪へ目を落とし、私もその手を握り返す。
「今のお二人だからこそ、感じ取れるものもあるのでしょうね」
ロゼリア様はそれ以上の説明を加えず、静かに微笑んだ。
中庭を抜け、教会の裏手にある扉まで案内してもらう。
扉の先には建物の間を通る細い道が延び、その向こうから街の賑わいが聞こえていた。
「次にいらっしゃる時は、通信の魔道具でお知らせなさい。こちらに、手引きする者を向かわせますわ」
「ありがとうございます。約束したものも持ってきますね」
「リンナを使うことを、忘れてはなりませんわよ」
「もちろんです。楽しみにしていてください」
ロゼリア様に見送られ、私たちは教会を後にした。
エシャール様が私たちをこの教会へ導いた理由を、すべて理解できたわけではない。
それでも、ロゼリア様と出会い、あの石碑の言葉を読んだことには、きっと意味がある。
石碑に刻まれていた言葉を思い返しながら、隣を歩く瑛太さんの手を握る。
次にこの街を訪れる時には、ロゼリア様と約束したリンナの料理も忘れずに届けよう。
「それで、これからどうする?」
瑛太さんに尋ねられ、ロゼリア様から勧められた場所を思い浮かべる。
私たちは明日には一度街を出る予定だ。
なら、今日のうちに動いた方がいい。
「冒険者ギルドへ行ってみよう。登録もしないといけないし、回復魔法についても相談したいから」
「決まりだな。混む前に行くぞ」
ガイルに促され、私たちは人通りの多い大通りへ向かった。
ロゼリア様の名を出せば、本当に話を聞いてもらえるのだろうか。
そんなことを考えながら、私は冒険者ギルドを目指して歩き始めた。
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魔王軍の宮廷料理人として、魔王様の胃袋を支え続けていた男・アルト。彼はある日、無能な新幹部に「料理など誰でも作れる」と理不尽にクビを言い渡されてしまう。第二の人生を静かに暮らそうとアルトがやってきたのは、なんと敵対していた人間界の辺境の街。そこでアルトは、長年の夢だった小さな「パン屋」を開業する。魔界の秘境で採れる極上の食材や、独自の魔力発酵技術を使って焼き上げるアルトのパンは、一口食べれば誰もが笑顔になり、傷ついた体や魔力まで回復してしまう極上の逸品だった。最初は怪しんでいた街の人々も、アルトの焼くパンの美味しさに胃袋を掴まれ、お店はたちまち大繁盛。そんなある日、魔王軍に追われる傷だらけの聖騎士の少女が店に迷い込んできて――?元魔王軍の天才料理人が、美味しいパンと最高の仲間たちと共に、人間界で幸せを掴み取るハートフル異世界ベーカリーファンタジー、ここに開店!
異世界で開店した珈琲店、なぜか伝説の英雄たちが夜な夜な集まる癒やしの隠れ家になりました
ブラック企業で心身ともにすり減らし、孤独な最期を迎えた元サラリーマンのタカシ。目覚めるとそこは、剣と魔法が息づく異世界だった。神様から授かったのは、現代の喫茶店メニューを再現できる魔法のスキル。街の片隅でひっそりとオープンした「カフェ・アルボワ」だったが、持ち前の丁寧な接客と、この世界にはない芳醇な珈琲、そして懐かしい味わいのたまごサンドが、またたく間に口コミで広がっていく。気付けば、国を救った伝説の聖騎士、世界最強の魔導師、さらには人間に正体を隠した魔王までが、一時の癒やしを求めて夜な夜な集まる隠れ家になっていて――!?戦いに疲れた英雄たちと、彼らを美味しい料理で温かく迎える店主が織りなす、お腹も心も満たされる異世界ほっこり日常ファンタジー。