家鴨の空【改訂版】

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5話_眠れない夜

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月曜日 AM7:00
今日は、祝日だ。
翌朝、空が目を覚ますと隣のベッドに蒼穹の姿はなかった。
代わりに台所の方から微かな物音が聞こえてくる。
空は階段を下り、リビングに入ると由美子が既に朝食の準備を始めていた。
匠はソファで新聞を広げていた。
蒼穹は、由美子を手伝っていた。
顔色は幾分マシになっているように見える。
空「おはようございます。」
空は、挨拶をした。
蒼穹「おはよ」
由美子「おはよう」
蒼穹「昨日は、心配かけてごめん。」
空「いいよ。」
蒼穹「今日、由美子さんと病院に行ってくるよ。」
空「うん。気をつけてな。」
由美子が焼きたてのパンを運んでくる。
由美子「蒼穹くんも食欲ある?」
蒼穹「全然、あります!」
蒼穹は、パンに手を伸ばした。
蒼穹「美味しい!」
由美子「ふふ。ありがとう。」
空は、ホットコーヒーを飲みながら、新聞を読む匠の向かいに座る。
空「おはようございます。」
匠「おはよう。」
空は、由美子と蒼穹が病院へ行くことを話した。
匠「二人を病院まで、俺が車で送ろう。」
蒼穹「いいんですか?」
匠「ああ。」
蒼穹「ありがとうございます!」
由美子「匠、助かります。」
空は、匠が蒼穹にかける優しさが嬉しかったと同時に羨ましいと思った。
匠「空君、病院帰り漁の後手伝って欲しいんだ時間はあるか? 少しばかり手伝いと話し相手が欲しいんだが」
匠が不意に口を開いた。
その言葉に、空の胸が小さく跳ねた。
空「僕でよければ……いつでも」
匠「助かる。終わったら迎えに行く」
匠は短く答え、コーヒーを一口啜る。
その横顔を見つめる空の胸には、温かいものが込み上げてくる一方で、同時にちくりと刺すような痛みも感じていた。
匠と過ごせる時間が増える喜びと、また蒼穹のように自分が特別ではないのだという諦観。
匠にとって自分は、たくさんの「困っている子どもたち」の一人に過ぎないのではないか。
そんな疑念が、日に日に濃くなっていた。
だが、それでも傍にいたいという欲求の方が強い。
矛盾する感情を抱えながら、空はぎこちなく微笑んだ。
昼前、由美子と蒼穹が病院へ出かけるのを見送った後、空は一人で庭に出た。
潮風が肌を撫で、遠くに漁船の白波が見える。
海の向こうには水平線しかない。
どこにも行けず、しかし誰からも逃げられないこの小さな世界。
空「……どこまで行っても同じか」
呟きは風にさらわれ、消えた。
考え込んでいると、玄関の扉が開く音がした。
匠だ。
空は慌てて振り返る。
匠は黒の作業着を身につけ、肩に道具箱を担いでいた。
匠「待たせたか? 行こう」
空「はい」
匠の後について歩き出す。
並ぶとやはり大きい背中だ。
この背中を追いかけるだけで、こんなにも満たされた気分になれるのはなぜだろう。
けれど、その大きな背中はいつも誰かのために向けられていて、決して自分一人のものではないことも、空はよく理解していた。
埠頭に到着すると、すでに数隻の漁船が停泊しており、他の漁師たちが網の修繕などを行っていた。
匠も慣れた手つきでロープを解き始め、空に簡単な指示を出す。
匠「これを向こう側に持ってってくれ。重いぞ」
言われるままに荷物を運び、指示に従う。
単純な力仕事だが、匠の動きを真似ることに集中することで、余計な思考が遮断されるのがありがたかった。
時折匠が「ナイスフォローだ」「助かる」と声をかけてくれるのが嬉しくて、自然と作業にも力が入る。
しかし、ひと段落ついたところで休憩に入った際、匠が近づいてきた別の若い漁師と親しげに話し始めたのを見ると、また胸がざわつくのを感じた。
楽しそうに冗談を言い合う二人の輪に入れず、少し離れた場所で腰を下ろす。
匠がこちらに気づき、「空君も来いよ」と呼んでくれたが、うまく笑えない自分に戸惑いながら、曖昧に頷いて輪に加わった。
陽が傾きかけた頃、すべての作業が終了した。
汗と潮でべたつく体を引きずるように家路につく途中、匠がぽつりと言った。
匠「やっぱり手伝いがいると違うな。空君のおかげで早く片付いた」
頭をポンポンと優しく撫でられた。
空「……僕なんかが役に立てるなら嬉しいです」
匠は足を止め、空の顔をじっと見て言った。
匠「謙遜するな。本当に助かってる。これからもたまに付き合ってくれるとありがたい」
そう言って屈託なく笑う匠に、空は何度目かわからない衝動に駆られる。
この人に必要とされているという実感。
それだけで全てが報われるような、それでいて酷く虚しいような。
複雑な感情が渦巻く。
空「はい……喜んで」
喉から搾り出した返事は、掠れていたかもしれない。
家に戻ると、ちょうど由美子と蒼穹も帰ってきていた。
蒼穹の顔色はすっかり元に戻っている。
蒼穹「ただいま戻りました。」
由美子「検査入院することになったのよ。念のためね」
匠「そうか。」
匠は安堵したように蒼穹の頭を軽く叩いた。
その何気ないスキンシップを目にするたび、空の中で何かが軋む音がする。
その晩、布団に入ってもなかなか寝付けなかった。
暗闇の中で天井を見つめながら、昼間の出来事を反芻する。
匠の手伝いをしたこと、褒められたこと、撫でられたこと……。
そして、それ以上を求めてしまう浅ましい自分自身のこと。
満たされそうで満たされない飢餓感のようなものに苛まれる。
そんな空の耳に、隣の蒼穹の静かな寝息が届く。
規則正しい呼吸音は、まるで彼だけが平穏な夢の世界にいるようで、それがまた疎外感を煽った。
空「……っ」
堪らず、拳を握り締めた。
その時、カタン、と窓辺から物音がした気がしてハッとする。
まさか、と思い窓の方に意識を向けるが、特に変わった様子はない。
風が強い気のせいだったのだろうか。
空は毛布を強く掴み、無理矢理瞼を閉じた。
眠れぬ夜は長く続きそうだった。
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