百合色あやかし怪奇譚

まり雪

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第一幕 桔梗

送り犬

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 伊吹山は標高約1900メートル。角牛山、九狐山と共に「遠月三山とおづきさんざん」と呼ばれているらしい。

 全山が塩基性の岩でできているため、たくさんの高山植物が繁茂していることで有名。また、アカエゾマツが本州で唯一自生している山でもあるため国の天然記念物に指定されているそうだ。

 そして、その頂上には瀬織津姫之命せおりつひめのみことという神様を祀る伊吹神社の奥宮があり、東西南北の登山道の入り口、または中腹あたりにそれぞれ里宮を設けている。

 遠月市は伊吹山の南側に位置し、このロープウェイは南の里宮、通称、遠月神社に参拝するために作られたようだ。

 真っ赤な西日の差し込むロープウェイに揺られる間、特にやることもないので凛月は豊子に押し付けられた遠月市の観光案内に目を通していた。

「また平安時代から様々な妖の凄む山ともいわれ、付近の町には数々の怪奇譚が残されている……」

 最後に何とも不吉な一行を見つけ、凛月は思わずそれを口にしてしまう。

 そして次に出てきたのは、当然の疑問。

「どうしておばあちゃんはこんなところに……」

 一人っきりで、住んでいたのだろう。


 祖母が亡くなったという知らせが来たのは、2ヶ月ほど前のこと。

 祖母の友人と名乗る人物から凛月の住むアパートに手紙が届いたのだ。筆で書かれた、ちょっと時代錯誤な手紙だった。

 そこには母方の祖母である久遠月子という人がつい先日亡くなったということ、そして伊吹山の久遠屋敷に住みつつそこの管理をしてほしいという旨が書かれていた。

 当分一人で生きていくためのお金は持っていたが、それもいつか必ず底をつきる。生活費諸々は全て向こうが持つという条件は、家族もなく、他に信頼できる親戚もいない凛月には渡りに船だった。

 もちろん怪しまなかったわけではない。だが、どうせこのまま死人のように生きていても何の意味もないし、仮に自分が消えたところで悲しむような家族も友人もいない。騙されるなら、別にそれはそれでどうでもよかった。

 それよりも気になったのは、両親が久遠月子という祖母の生存を自分に隠していたということ。

 母からはとっくに亡くなったと聞かされていたのに。

 なぜ。
 どうして。

 そんな疑問が頭の中で渦巻いて。

「……どうでもいいか」

 そして、ぱっと消えた。

 いつもの呪文。おまじない。

 面倒なことは考えない。流れに任せる。

 それが、久遠凛月の生き方だった。


 * * *


「はぁ……はぁ……っ」

 すっかり日も暮れ、まばらに立った街灯だけが照らす山道を、凛月はほぼ走るような速度で進んでいた。

 さっきから、何かがつかず離れずの距離で凛月のあとをつけている。

 枯草を踏む足音は確実に背後から凛月の耳に届いているのだが、いざ振り向くと左右に広がる森林の暗闇に隠れてしまうせいで肝心の姿形がよく見えない。

 ただ一瞬だけ、真っ黒な動物の尻尾らしきものが見えた。

(もしかして送り犬……?)

 そんな不安が頭をよぎり、いやありえないと首を振る。

 豊子の話には素直に頷いていたけれど、正直なところ凛月はこれっぽちも妖怪なんてものを信じていなかった。

 なのに。

 あれは、絶対人間じゃない!

 その確信が、なぜか胸の内から冷たい湧き水のように全身にせり上がってくる。

 本能で、肌で、凛月は異質な何かを感じ取っていた。

「こ、ここだ……!」

 豊子に事前に教えてもらっていた道を必死に脳内で描きながら、辿りついたのは二股に分かれた分岐点。

 左はさっきまで歩いていたのと同様の舗装された車道。

『お地蔵さんが左右に立っているからね、それが目印』

 そして、その車道から少し右側に外れた所に突然ぽっかりと空いた暗闇。深い木々に覆われ先は全く見えない。
 
 そこに、すすけてボロボロの石地蔵が2つ、まるで侵入者を見張るように立ち尽くしていた。

「はぁ、はぁ……。とにかく、おばあちゃんの家に……」

 後ろからつけられている以上引き返すことは出来ず、先に進むしかない。行けるところは一つしかなかった。

 だというのに、この先に進んではいけないと全身が警告を発しているような気がする。

(それでも、あれに追いつかれるよりかは……!)

 明日取りにくればいいと、凛月はスーツケースと帽子を放って暗闇の中へと走り出す。

 今夜は新月なのだろうか。明かりに乏しい山中で月の光すらも差し込んでくる様子がない。

 木々の隙間から見える夜の空には、なぜだか星のひとかけらもなかった。


「はっ……はっ……」

 けもの道を、髪を振り乱しながらただひたすらに全力で走って走って走り続ける。

 木々の枝が足や腕に傷をつけるが、凛月は気にする様子もなく暗闇の中、一本道を駆け抜けていた。

 自分の心臓の音がうるさいせいで、あれとどのくらい距離があるのかが分からない。それがより恐怖を引き立てる。

 加えて、月も星も影を潜めているせいで足元が全くと言っていいほどに見えなかった。

 そんな中、慣れない山道を走れば当然。

「きゃっ……!」

 朽ちた枝に足を取られ、派手に転ぶ凛月。身体をうちつけた痛みよりも、突然の出来事に気が動転して一瞬思考が停止してしまう。

 パキ、パキ。

 そして。

 枯れ枝が、折れる音がする。

 ああ、近づいてくる。一歩、また一歩。

「はっ、はっ、はっ」

 いくら呼吸をしても脳に酸素が行かない。視界がチカチカと点滅して意識が引き千切られるように朦朧とする。

『もし何かの拍子に転んじまうと、たちまちに食い殺されちまう』

 ロープウェイ乗り場で聞いた豊子の言葉が、閃光のようにフラッシュバックする。

 ──ああ、私、死ぬのか。

 そう悟った瞬間、心の中でストン、と何かが落ちていく音がした。

「……どうでもいいか」

 そう、どうでもいい。これから先、何十年と生きていかねばならない気力とその意味を、どうせもう失っているのだから。
 
 ただ、死ぬ勇気がなかっただけ。

 そのきっかけが、たまたま今までやってこなかっただけ。

 ならば、もう──

「大丈夫ですか?」

 幻聴かと、最初はそう思った。

 でも、違う。

 明らかに、凛月のすぐ後ろから。

 それはどこか深みのある、真剣にこちらを案じる女性の声だった。

『でもねえ、もし転んじまったとしても、少し休憩をとっているふりをすれば見逃してくれるって、そういう妖怪さ』

「……はい。少しだけ、休憩を」

 自分でも気付かぬうちに、いつの間にか凛月はかすれた声でそう呟いていた。

 その瞬間、生ぬるくて気味の悪い風が凛月の後ろからごおっと吹いて、落ち葉を巻き上げ走り去っていく。

 あまりに恐ろしくて後ろを振り向くことはできなかったけれど、自分は助かったのだと、それだけは分かった。
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