海のこと

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01 ー nothing ー

20-3

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海は、ボンヤリとそれを見上げた。
遠くで子供が泣いている声が聞こえる。
傘を傾け振り仰いだ黒い目に、空が映る。


あの風船は何処まで行くんだろう。
綺麗な色をして誰かの手に握られていたのに、
もうその手にも、誰の手にも届かない所へ行ってしまった。
ふわふわと…

記憶というのは、きっとあんなものだ。
ずっと握っていないと、手放してしまえば、もう届かなくなる。
自分のものだったはずなのに。
あったはずのものなのに。

あったはずのものなのに
探しても、ない。
この世界のどこにもない。
探せば、どこにもないことを思い知らされるだけ

行く所も、帰る所も無い。
自分を知っている人もいない。誰もいない。
探すための、呼ばれるべき名前すらない。

今何処にいるのかも
これから何処に行けばいいのかも わからない

何も覚えていないまま一人
ここに放り出され
何のために

何も無い
この世界に。


風船はもう点になって、空の残像のように紛れ見えなくなった。
あんな風に ここから消えればいい
そうしたらもう、きっと、
今がどうだってわからなくてもいい
あんな風に何処か遠い所に消えればいい
ここから



いつかの日のように空を見上げている、海の横顔をそっと伺う。
風船を透かして遠くを見る彼に、言いようもない憐れみを感じた。
ふわふわと、足場のない、行き場のない。
誰にも触れられない、何処にも繋がれない、君の世界。

そうじゃない。
君は違う。
ちゃんと存在している。確かに、ここにいる。

「…手、触って大丈夫ですか」

「手?」

とりあえず、手を。

何処にも繋がれない世界を、僕が。

「手を、出して」

「何…」

相手は迷いながら、疑いながら、右手を宙に浮かす。

こちらも右手を差し出して、

「改めて、名前、教えてくれてありがとう。よろしく、海」

渾名でもいい。君に、海、と呼びかけることができる。
呼ぶ名前があって、身体があって、ここに存在している。触れられる体温がある。

だからまず、握手。

指先が触れ、相手はビクリと静電気を食らった様に震えて、腕を引こうとする。
引かれる前に、掴むように、ひやりとした薄い手をぐっと固く繋ぐ。
君の、手。
 
 
「…あ…」

海は硬直してしまい、握らせるままに、握り返してはこない。
触れる皮膚の感触、伝わる相手の掌と指の体温に怯えるように、緊張感が芽生える。
傘の柄を硬く握り締める。

 
「…っ…」

彼は耐えきれずぱっと手を振り払って逃れる。指先が微かに震えている。

「あ、ごめん…」

「…帰ります…」

小さく目礼する。
 
「ああ、…じゃあ、また来週」

「ハイ…」

息を整え、ペコ、と会釈して、彼は公園の緑の中へ、ゆらりと歩いて行く。自分にもよく分からない勢いで手を掴んで、少しびっくりさせてしまった。

空は、機嫌がいいのか、悪いのか、少しだけ晴れながら、まだ少しだけ雨を降らせている。
ぱらぱらと、午後の天気雨。傘の水滴が踊るように跳ねて光る。

あ、と思い出して、後姿に呼びかける。

「海、あっちの方、太陽と逆側の空、見ていて。こういう時は、虹が出るかも知れない」

傘の動きが止まり、指差した方を振り返る、さっき風船を見ていた時のような、憂鬱そうな横顔。
そして空を見上げ、ふっとまた表情が変わる。

「ほんとだ…」

天気雨の中、駅の上辺りの空に、薄く、半円の美しい虹がうっすらとかかっていた。
黒い前髪の奥の黒い目が、明るく煌めいて、口元は再びかすかに微笑む。
明るい雨の中。
そのまま立ち尽くして、2人でしばらく虹を見ていた。

やがて虹は薄く消え、雲が集まって来て薄曇りになり、また元のように雨が降り出す。
海は我に返ったように傘を持ち直し、またペコリと頭を下げて、去って行った。


指先でいつの間にか煙草は灰になっていた。
気付いて携帯灰皿の中で火を消しながら、しばらくその場を離れられなかった。

雨は薄明かりの天気の中で空から溢れ、光る。
遠ざかる細い背中を見つめ、躊躇う手の冷たさ、その薄い感触をもう一度思い出すように握り締めた。
この手の中にある、君の存在。

笑った顔を見た。
取っ付きにくくて無表情な男の、周りの空気が、ふわりと色づく様に優しく変わった。
海。
痩せた、身寄りも記憶もない、何も持っていない、孤独で静かな男。
けれど今日は、雨の水滴も、衛星も、虹も、濡れた緑も、彼のものだった。
全部手に入れて、きらきらと優しく輝いて、世界を、彼を包んでくれればいい。

天気雨の、空から溢れる雨の雫で、世界中が光っていた。
また、自分の前であんな風にふと微笑んでほしい。
雨の公園に一瞬差し込んだ陽射しのように。

祈るように、ただそう思っていた。
 
 

 
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