海のこと

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02 ー he ー

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海は帰宅すると、班長に持たされた大きな手提げごと、ベッドにへたり込んだ。

小さなサイドテーブルには乗り切らない、その沢山の食糧を見つめてしばらくボーッとする。


今日、たった半日で色々な事があって、酷く疲れてしまった。


友人の家に呼ばれて出掛け、手料理を御馳走になった。
食べてと言って、沢山、お土産を貰った。

突き返す事は出来なかった。
その友人がずっと、食べるのを嬉しそうに見ていたから。


食べ…なければ。
せっかく、用意してくれた物。


こんな事をしてあの人に何のメリットがあるのか分からない。
メリットどころか、迷惑をかけてしまった。


本来、休みの日はいつも、一日中倒れている。

他人に慣れなくて、一人でいる方が休まること。誰ともいられない自分の事。

毎日の仕事場やバス、地下鉄。
閉じた場所、沢山の人の中にいるだけでも緊張するので、休みの日は誰にも会わずにただ一人、何も考えないで眠る。

いつもそうだった。そうしないと、翌週からの仕事ができなかった。


昨夜は、出掛けるかどうしようか、一晩中悩んだ。
断らなかったのは、自分。
断る事は可能だった。約束した時と、電話をもらった時、二度、機会はあった。

断っても、きっといいよと許してくれるのは分かってたのに。承諾してノコノコ出掛けて行ったのは自分なのに。

その結果、あの人の大事なものを壊してしまって、迷惑をかけてしまって、気にさせてしまって。


出掛けなければ何も無かったのに、今日みたいに、出掛けて、やっぱり迷惑をかけて、誰かを不快にしてしまうと、尚更自分などいない方がいいと思い知らされて、ここから消えてしまいたいほどだった。


弁償しなければ。
綺麗なカットグラス。
旅行のお土産だと言っていた。二つあった。
班長と、誰かのためのもの。それを、割ってしまった。

怒られなかった。けれど、怒られるよりも辛い事をさせてしまった。
あの人自身の手で。


もし、それが自分のものだったら、悲しくてきっと耐えられない。

大事な物を、思い出を、失ってしまったら。
取り戻せなくなってしまったら。



沈む思いに胸が痛くなる。
ガラス越しの美しい光と、割れてしまってもなおキラキラしていた破片を思い出し、涙が出そうになって、慌てて立ち上がる。


こういう時はいつも、シャワーブースに逃げ込む。
この部屋の中で、唯一、泣いても分からない場所。
雨の降る場所。


ざあ、と温かい雨が、背中を、髪を打つ。
タイルに置いた手にも、水滴が落ちる。
貼ってもらった絆創膏が濡れる。


怪我をした。
それは報いのようなものだろう。
俺の身体にも、いつのものか分からない傷が付いてる。たくさん。

こういうのは、残って、自分を罰し続けるもの。
たとえ覚えていなくても、身体中で、これはお前の罪だと言い続けるもの。

左手の甲の新しい怪我。これも、きっとそうだ。
割られたグラスが俺を罰したのだろう。
そこにあったはずの大切な思い出を壊されて、この罪を忘れるなと傷を付けて行った。

その手をゆっくり開いて、握る。何度も繰り返す。

引き攣れる感覚。傷が開く痛み。
これは罰なのだから、もっと痛くていいと思う。

何度も痛みを感じているうちに、絆創膏がじわりと紅くにじむ。
それでいい。
もっともっと痛くなって、血がなくなるまで流れていい。


友人なんて、寮でもいなかった。
拾われて、身元も分からず行き場もなく、保護局の専属病院から、障害のある人の部屋に入れられた。

最初の頃は、話も出来ず一日中ポカンとして、起きて寝るだけみたいな状態で、人を認識するようになってから、人見知りをするみたいに、他人を怖がるようになったと係官は言っていた。

今も、人が近づいて来るのと、人の感情を向けられるのは、恐ろしい。
他人が自分を認識すると、自分が自分を認識してしまう、そういうものも嫌だった。

こんな自分が存在する事が嫌で、透明に、見えなくなりたいと常に思っていた。
そんな状態で、友人など出来る訳もなかった。


それなのに、どうしてか、班長みたいな人が親切にあれこれ言って来て、そうして、友人…になって…

今日は、家に呼んで貰って、料理を作って貰って…、たぶん、初めて、あんな時間を過ごした。
明るくて、柔らかい、風の通る時間。


ぴったり貼ってもらった絆創膏はすっかり歪み、隙間が出来てしまって、湯を浴びて剥がれかけていた。
躊躇ためらいながら、けれど、べり、と乱暴に引き剥がして捨て、開きかけた傷口を洗い流す。

こんな傷、なんでもない。
太い血管は切れてないと言っていたけれど、切れてたって別に良かった。
太い血管が切れたって、全身から血が流れ続けて死んだっていいんだ。俺にはそれくらいしか出来ないのなら。


結局、迷惑をかけてしまったけれど、自分の事は一切分からないままだけど、
今なら、知ってる人がいて、親切にしてもらった思い出があって、その人に詫びながら、その人を思いながら死んで行ける。

誰かの友人の一人だった、という思い出がある。
それは、こんな人生の中で何よりもずっとましな事だった。


俺がいなくなったら、あの人は俺の事を、覚えているだろうか。すぐ忘れるだろうか。
……たまには、思い出すだろうか。

そんな風に考えながら終われるのは、とても幸せだろうな。
知ってる人。友人。親切にしてくれた人。


シャワーブースの雨の中でしゃがみ込み、まだ生々しい傷口を見つめてしばらく濡れ続けた。

ほんの少し自嘲する。

馬鹿みたいな事ばかり考える馬鹿な自分に呆れて、泣こうと思って入った場所のはずなのに、涙も出なかった。
 
 
 
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