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02 ー he ー
50-3
しおりを挟む遠ざかる足音。
ずるずると、玄関に座り込んで頭を抱える。
————君が本当に一人なのを、僕だけが知ってる。だから、そうしたくない。————
そんな事、言わなくたっていいじゃないか。
話すのではなかった。馬鹿野郎。馬鹿野郎。
俺なんかにもう、構わないでくれ。
髪の毛をぐしゃぐしゃにして腕を下ろすと、紙袋に当たる。
中は、温められたチキンサンドが一つ。サラダと、さっきのシュークリームが二種類。チョコレートと、カスタード、とパッケージにある。
また、こんな。
こんなことして。
いつも。
いつもこうして、気を遣って、優しくしてくれる。
会った帰りにもいつも、熱が出て休んだ時にも、こうしてくれた。
雨の中、遅い時間に、わざわざ、うちまで来てくれた。
そのお礼を、ありがとうを、ずっと言おうと思っていたのに。
何をしてるんだ……
一人になって、涙が溢れる。
あんな風に言われなくても、一人なんだ。一人でいいんだ。
分からない事も、知らない事も、必要ない。
でも、本当は、こわい。
分からない事を、知らない事を、ほんとうの事を知るのが、怖い。
だからずっと、このままで、一人でいいんだと思っていた。
いつも、何もかも、
流れ星のように通り過ぎ、掴めない。
怖くて手が伸ばせず、掴み損ねたり、撥ねのけたりしてしまう。
今も。
あの人が自分を「好き」だと、「大事」だと言うたびに、それが何なのか、何故それを言うのか分からなくて怖かった。
あの人といると、優しいのに、いつも怖くて、気後れして、寂しくて、一緒にいられないぐらい、苦しくて。
けれど今、初めて気が付いた。本当に怖いのはあの人じゃなく。
恐怖の正体。
それは、自分だ。
何も無いこの自分。
あの人の優しさに、大事だという言葉に値しない自分である事を、自分が一番知っている。
そうしてきっといつかは、それが彼にも分かってしまう。
そうしたら、もう……。
怖さ。
あの人に、呆れられる事への怖さ。
嫌われる事への悲しさ。
無力で、空っぽで、無価値な自分であることを知られる恐ろしさ。
嫌いになられたくない。
それが、「好き」ということなのかどうか分からない。
けれど、あの人に嫌いになられるのは、きっと辛い。
考えただけでも、こんなに苦しい。
「好き」って、何だろう。
こんなに怖い、こんなに苦しいものなのだろうか。
震える手で顔を塞いで、また、意味のわからない涙が溢れて止まらない。
俺は、何も持ってない。
全部忘れて、何もなくて、何も分からなくて、だけどそんな事どうでもいいと思っていた。
生きていくのに必要がないから、何も持ってなくても、何も憶えてなくても、誰も居なくてもいいと思っていた。
でも。
あの人に居なくなられると、本当に一人になってしまう。
————君が本当に一人なのを、僕だけが知ってる……。
あの人は、分かっていた。自分だけが知らなかった。知らないふりをしていた。
一人の世界の中で、気付かないふりをしていただけだった。
俺は、本当の本当に一人だという事。
だから、そうしたくない、と言った。
一人で何度も、公園や、プラネタリウムや、高層ビルに足を運んだ。
何をしていたのか、何故だったのか、やっと分かった。
「忘れたくない」から。
何も憶えていない、後先も分からない、何も無くて、どうでもいい自分の世界で初めて、
「忘れたくない」と思ったものがあったから。
忘れたくないもの。
失くしたくないもの。
一人の世界の中で、出来たばかりの思い出。
誰かといた景色のこと。
公園や、プラネタリウムや、屋上だけじゃない。一緒にいた場所はもっとある。仕事場、倉庫、ロッカー室、休憩室、彼の部屋、電車やバスや車や、メトロの待ち合わせたベンチ、食事をした場所、歩いた道。
違う、場所の事じゃない。
いつもあれこれ心配して声を掛けてくれた。いつも、優しい顔してこっちを見て笑ってた。
全部が大切な思い出。あの人のこと。手。声。
注意、助言、親切、交流。
レモネード、マフラー、チョコレート。オレンジの飴玉。絆創膏。
何も無かった自分に起きた、沢山の、なにか。
————残しておけばいいよ、大事なら。
写真の時、あの人はそう言った。それでコピーを取った。
虹がいつでも見られるように、紫陽花の写真を撮った。
残しておけるものならいい。
でも、残しておけないものはどうしたらいい。
手放してはいけなかった。
失ってはいけなかった。
今やっとそんな事に気付く。馬鹿は自分だった。
優しくされるのが怖かったんじゃない。
本当に怖かったのは、それを失うこと。
持ってないから、知らなかった。失うということがこんなに怖いなんて。
だから、優しくされたくなんてなかった。
割れたグラスは元には戻らない。
あの人は思い出し方を知っていても、俺は知らない。
俺は、何も、知らない。
プラネタリウムの中で思い知った。苦しかった。見えないもの。触れられないもの。
全部ただ通り過ぎて、この手には何も残らない。この手には、何も。
泣いて、泣いていると、メールが来た。彼だ。
『さっきは酔っ払って色々ごめん。疲れていたようなので、ちゃんと食べて、眠ってください。
元気で。』
ぐっ、と、喉が詰まる。
別れの挨拶のメール。
……元気で、と……。
いつまでも、何度でも、こうして自分の事を心配してくれる。
胸がいっぱいになって、目が霞む。息が苦しくなる。
ごめんなんて、あんたに謝って貰う事なんて何もないのに。馬鹿だったのは自分なのに。
ごめんなさい、と、ボロボロ泣きながら入力して、返信した。
何十回書いても、きっと謝りきれない。馬鹿だった自分の事。優しくして貰った沢山のこと。いつもその手を跳ねのけてしまっていた事。
もう一度、ごめんなさい、と入力して送った。
どうしたの、何が、と返事が返って来るので、そのメールにも、ごめんなさい、と送った。
他に言うべき言葉が見つからない。
ちょっと待ってて、と返事がくる。また、猫か犬の画像でも送ってくるんだろうか。
ドアにもたれたままで泣きながら端末を握り締め、返信を待っていた。
涙だけがぼろぼろと溢れる。
幾らでも、出る。
手の上に、ボタボタと落ちる。
小さく跳ねる、熱い水滴。
ふと指先ですくう。
これは、何だろう。
考えて、気づく。
これは、悲しみの「形」だ。
目に見えて、さわれて、分かる、「心の形」だ。
見えないけれど、ある。
見えないのに、わかる。
さわれる。感じられる。溢れる。
自分の、誰かの心。
ちゃんと、在って、わかる。
心が、わかる。
どうして気付なかったんだろう。
いつも、優しく笑いかけてもらっていた事。
眩しくて熱いと感じていたもの。
与えられた沢山のもの。
手当て。
全部あの人は、見せて、触れさせてくれてた。
受け取れなかったのは、ただ怖がってただけの、跳ねのけていただけの、愚かな自分。
ただ通り過ぎて、何も残らないのは、自分のせいだった。
無駄な時間を過ごしていたのは……
遠くから、駆けて来る足音が聞こえる。
それから部屋の前で止まり、頭上で短くノックの音がした。
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