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1巻
1-1
しおりを挟むプロローグ
成瀬真那、二十三歳、新婚。
夫、時生の姓を名乗るようになって、一週間ほどが経っただろうか。
今夜も、真那は贖罪のため、夫に抱かれていた。
かつて傷つけた男。自分を憎んでいるはずの人に。
時生はこの結婚について、真那を手に入れ、自分の地位が補強されて満足だとしか言わない。
――過去に縋っているのは、私だけ。愛しているのも、私だけ……
苦い切なさが胸の中で膨れ上がる。
だが、真那の身体は、淫らな従順さで時生を受け入れていた。
「んっ、んん……っ……」
声を上げないように気をつけても、抽送のたびに息が乱れた。
「っ、あ、あ」
耐えきれずに、固く閉じていた唇から喘ぎ声がこぼれる。
みっしりと中を満たす肉楔が引き抜かれ、また押し込まれるたびに、身体中にさざ波のような熱が広がってゆく。
昂る肉杭を根元まで呑み込まされ、真那は思わず腰を揺すった。
「いや、……ぁぁ」
繋がり合った場所から、甘い蜜が幾度となくしたたり落ちる。
「あんっ……あ……だめ、奥、そんなに……あ……っ……」
快楽のあまり、視界が歪んだ。
時生の手が、必死で背ける真那の顔を、強引に前に向かせる。
汗に濡れた唇を押し付けられ、舌先で歯列をなぞられて、真那は従順に不慣れな舌先で応えた。
「く、ふ……」
口づけの合間にも隘路を攻め立てられ、くちゅくちゅという淫猥な蜜音が響く。
愛おしくて、気持ちよくて、真那の身体中から力が抜けていく。
けれど、どうしても、彼の顔を見られない。こんな乱れた表情を見られるなんて、恥ずかしくて耐えがたいからだ。
「そんなに俺の顔を見たくありませんか」
真那を突き上げる動きを止め、『夫』の時生が問う。
時生は、笑っていた。まるで真那の拙い反抗がおかしくてたまらないとでも言うように。
うっすらと汗に濡れた彼の顔は、吸い込まれそうな妖艶さを湛えている。
「そんなこと……あ……」
真那は、焼けるような熱杭に貫かれたまま、甘い疼きに歯を食いしばる。
時生と目を合わせたくないのは、愛されていないという事実に心が負けそうだからだ。
身体はこの上なく慈しまれ、繰り返し絶頂を刻み込まれているのに、時生が真那に向けてくれる愛情は、三年前に消滅してしまったから。
引き締まった胸をかすかに上下させ、時生が薄い唇に笑みを浮かべる。
「俺の顔を見たくないなら、目隠しをしましょうか」
「……っ……え……?」
怯えた真那の顔に、アイマスクが掛けられた。
時生の匂いがする。彼が睡眠時に使用しているものなのだろう。
「な、なにを、時生」
視覚を奪われ、真那は戸惑った声を上げる。
「手も、俺に触らずに済むようにしますね」
時生の声音は、相変わらずなんの感情も感じさせない。
ずるりと音を立てて、中を穿っていた時生の肉杭が抜け出た。
「あ……」
みっしりと埋め尽くされていた淫洞が、物欲しげに蠢く。腿の辺りまで蜜に汚れたまま、真那は耳を澄まして様子をうかがう。
時生に満たされていた場所が、外気に触れて冷え始めた。
――なにを……しているの……?
視界を塞がれたままの真那の手首に、ぐるりとなにかが巻かれた。
「自転車に乗るとき、ズボンの裾を止めるマジックテープです。痛くはないはずですが」
真那の両手首をひとまとめにし、縛りながら時生が言う。
「え、い、嫌……」
視界はおろか、手の自由まで奪われてしまった。
全裸でなんという破廉恥な格好をさせられてしまったのか。
困惑する真那の両脚に手が掛かる。
脚を大きく開かれ、濡れそぼった秘部が晒された。
「ここ、ぴくぴくしていますね、まだ食べ足りないということでしょうか」
浅ましい姿を見られているのだ。
どこに視線が注がれているのかを悟り、真那の身体がぴくんと跳ねる。
「……っ……あ……あの……」
真那は両脚を掴まれたまま、身じろぎする。
身体中が熱くなってきた。時生に見られることにも、恥ずかしいことを言われるのにもこの一週間で慣れたはずなのに……
「ぐしょぐしょです、ほら」
言いながら時生が、先ほどまで肉杭を食んでいた秘裂に、ずぶりと指を沈めた。
「ン、あっ!」
両手を戒められたまま、真那は腰を浮かせる。視界を奪われているので、時生がなにをしようとしているのかわからなかった。
「あ……だ、駄目……汚れる、指……」
「これだけ濡れていれば、そうでしょうね」
一度指が抜かれ、二本に増える。真那のそこは、ぐちゅぐちゅと淫らな音を立てて、二本の指を呑み込んだ。
「い、いや……あぁ……っ」
時生の指が、熱く火照った淫壁を擦る。指との摩擦で、真那の下腹部がひくひくと波打った。
「あ、貴方、なにして……あ、あぁんっ」
擦られるたびに、とろりと熱いものが溢れてくる。
「ひ、ん、あぁんっ、駄目、駄目よ、指、ん、くっ」
胸の上で結束された両掌をぎゅっと握り、真那は身を縮める。
――だ、駄目……指になんか反応したら……あ……
真那は、甘い喘ぎ声を堪えて懸命に口をつぐむ。
身体は本能的に、体内に押し入ってくる指をぎゅうぎゅうと締め付けた。
抜き差しのたびに、耐えがたいほどに恥ずかしい音がする。
「ん、あぁぁぁっ、そこ、擦らないで、っ、あ!」
お腹の側の粘膜を、指で、ひときわ強く擦られた。
「ざらざらしてる……不思議な感触ですね。どこを触ってもびくびく震えて、本当に可愛らしい身体だ」
晒された乳房の頂点が、強い快感に収縮し、硬く勃ち上がる。
「あ、嫌……指で、あぅ」
手を胸の上で組まされて、胎児のように丸まったまま、真那はひたすら指の悪戯に耐えた。
吐き出す息が、火で炙られたように熱くなってきた。
「嫌……? そうかな。お身体とお口では意見の相違があるようですね」
合わさっていた時生の二本の指が、狭い蜜路をこじ開けるように開かれた。
「ん、うっ」
アイマスクに隠された目を、真那はぎゅっと閉じる。
腰をくねらせた反動で、蜜口から、どっと熱い雫が溢れ出した。
「指が食いちぎられそうです。葛城家のお嬢様だった貴女が、こんないやらしい身体をしていたなんて知りませんでした」
「い、いや、そんなこと言わないで……あ、あぁ!」
真那の抗議を封じるように、時生の親指が膨らんだ花芽をぎゅっと潰し、指がねっとりと前後に行き来する。
痺れに似た強すぎる疼きに、真那は足の指でシーツを掴んだ。
「ああぁっ、嫌、これ、い、い……や……」
指を咥え込んだ場所が、はくはくと開閉する。
心と裏腹に、身体は『もっと気持ちよくして』と素直にねだっているのだ。
――ゆ、指、指は嫌……
真那は自由を奪われた状態で、四肢を強ばらせた。
「ん、や、だめぇ……っ、あんっ、あ、っ」
「だめ……? 俺は続きもしたいんですけど。貴女は違うんですか?」
「あ、あ、違わな……っ、あ!」
真那の下腹が、刺激に耐えかねてひくんと波打つ。
目の前が赤くなってくる。真那の膣内が、ぎゅうぎゅうと収斂した。
花襞が多量の蜜をこぼして、呑み込んだ指に絡みつく。
「ひ、あ……あぁ……」
情けなくも、甘えたような声が漏れた。あまりの快感にのけぞると、口の端からひとしずくの涎が伝い落ちてゆく。
「あ……はぁ……っ……」
汗ばんだ肌を火照らせ、真那は身体中をぐにゃりと弛緩させた。
びくびくとのたうつ隘路から、時生の指が無情に引き抜かれる。
熱い液体が垂れて、幾筋もシーツに広がっていく。
「ずいぶん美味しそうに貪っていましたが……貴女は俺の指のほうが好きなのかな」
からかうような言葉に、真那は唇を噛む。
同時に時生の身体がのし掛かってきた。
――ああ……時生……
かき乱された思考では、なにも考えられない。かつて愛した、そして今でも愛しい『夫』が、真那の濡れた唇にキスを落としてくる。
果てたばかりの下腹に、勢いを失わない熱楔が触れた。
その昂りの大きさに、真那は息を呑む。
「続きをしてもいいですか? 奥様」
真那は、操られてでもいるかのように頷く。
挿れてほしい。中に時生の熱を注いでほしい。
声に出せない欲望は、どうやら時生に伝わったようだ。
濡れそぼった秘所に、昂りの先端が押し付けられる。
「く……う……」
蕩けるほどにほぐされた場所は、はしたない蜜音を立てて時生自身を呑み込んだ。
「ああ、また締まりましたね。一度、指でイッたはずなのに。欲張りなお嬢様だ」
時生が、真那を焦らすように楔をゆっくりと前後させた。
「ああん、あ、はぁ……っ……」
指で強引に果てさせられたはずの身体に、ふたたび快楽の火が灯される。
抱きつきたいのに、縛られた手では叶わない。
「真那さんの中、すごく熱いな……」
時生の声も、いつになくうわずっていた。
「もっとゆっくり可愛がって差し上げたいんですが……駄目だ、動きたい、動きますね」
ゆるゆると前後していた肉杭が、不意にずぶりと沈んだ。
「っ、ひぁ、っ!」
最奥を激しく突き上げられ、真那は不自由な姿勢でのけぞった。喘ぐ身体が、時生に縋り付きたいと訴えてくる。けれど、自分では手をほどけない。
「あ、あ、時生……っ、あ……」
律動のたびに高まっていく官能を逃しきれない。
杭が行き来するごとに、貪欲に蜜が溢れて抑えられなかった。
時生が真那の痩せた腰に手を添え、獰猛な、打ち付けるような抽送を繰り返す。
「ん、ふ、あぅ……っ、あ、あぁんっ」
真那の中が、くちゅくちゅと激しい蜜音を立てる。激しい動きに、結合部からしたたり落ちた雫がシーツにしみを広げていく。
時生が大きく息をついて、真那の顔からアイマスクを剥ぎ取った。不意に視界が明るくなると同時に、胸の前で組まされていた手首の戒めも外された。
視界に映った時生の目は、真那しか見ていなかった。快楽に呑まれる寸前の艶めかしい表情に、真那の隘路がひときわ強く疼いた。
「真那さん」
時生が掠れた声で真那を呼び、汗ばんだ身体を強く抱きしめた。
その抱擁の意味もわからぬまま、真那は無我夢中で時生の背中にしがみつく。
時生を愛している。そして、身体だけは多分、時生に愛されている。
「あ、あぁ、っ、時生……っ」
めちゃくちゃな勢いで突き上げられ、揺すぶられながら、必死で手足を絡みつかせた。
強く抱き合っているせいで、乳房が胸板に潰されて苦しいくらいだ。
真那の目尻から、涙が伝い落ちる。快楽のあまりに流れた、生理的な涙のはず。そのはずだ。
力いっぱい真那をかき抱いていた時生が、小さな声を漏らす。
「……っ……は……っ」
なにも言わずに、時生が接合部を擦り合わせた。
時生の恥骨に潰された花芽から、快感が火花のように散り、身体中に広がる。
真那の隘路が、時生を搾り取るようにぎゅうぎゅうと収縮した。
「時、っ……あ、あぁぁ……っ」
身体中を震わせた真那の淫奥に、多量の熱液が吐き出される。真っ白な欲望に、真那のお腹の奥が染め上げられていく。
執拗に、刻み込むように、ドクドクと脈打つ楔が奥へ押し込まれる。
真那の小さなその場所では、注がれた多量の白濁を受け止めきれない。
震える足の間から、濁った欲液がとろりと溢れ出す。
――熱い……焼けそう、お腹の中が……
吐き出された熱に淫窟を焼かれながら、真那は目を閉じて必死で息を整えた。
ぐったりと真那にのし掛かった時生が、真那の頭に頬を擦りつける。
まるで愛しい妻にするかのような仕草だ。
しばらく真那に頬ずりしていた時生が、額に、頬に、繰り返しキスをしてくる。こんな風にされたら、愛されていると錯覚してしまうのに……
口づけの雨を降らせていた時生が、満足したようにもう一度、真那を抱きしめた。
「……寝ていいですよ、真那さん」
その声は、いつも通り冷たい。
真那の目尻から、また涙が伝い落ちる。
――時生を傷つけたのは、私だ。三年前の、私……
「どうしてあのとき、約束を破ったんですか」
「え……?」
唐突で不思議な質問に、真那は薄く目を開ける。だが、頭を時生の肩のところに抱え込まれていて、なにも見えない。
「時生、今、なんて」
「いいえ。お休みください。特に話すことはありません」
時生の汗を身体中で感じながら、真那は涙が滲んだ目を閉じる。
真那にできるのは、時生の怒りと復讐心を受け止めることだけだ。夜ごと抱かれて啼かされても、拒むつもりはない。
触れられたい相手は、この世で時生だけだからだ。ある種、病的な潔癖さを持つ真那は、他のどんな男に触られることには耐えられない。それに……
『恋しい相手にしか触れられたくない』
その思いは、真那の立場では、ただのわがままだった。
わがままの果てにすべてを駄目にして、時生まで傷つけてしまったのだ。
――時生、ごめんね……ごめんなさい……
愛しい夫の身体を力の入らない腕で抱きしめ、真那はそのまま眠りについた。
第一章
葛城真那、二十三歳。
家族はなく、一人暮らしだ。
夕方の空はもう暗く、吐く息が真っ白くなるほどの寒さで、今にも雪が降りそうである。
――寒いなあ……
帰っても、家は冷え切っている。迎えてくれる家族もいないが、自分を叱咤して足を動かし続ける。
真那は、大手メーカー『葛城工業』の創業者一族の長男と、旧財閥の当主一族の長女だった母の間に生まれた。
父系、母系、共に代を遡れば、国内の名家の多くと血縁がある。真那はその『葛城家』の一人娘だった。
両親は一人娘の真那を大切に育ててくれた。
有能で誠実な父と、淑やかで優しい母。
愛し合う両親に守られた、幸せな毎日。
薔薇色の人生だった。だが、両親の死で、真那の人生は変わった。
真那が高校一年生のとき、優しい両親は、車の事故で帰らぬ人となってしまったのだ。
亡き父のあとを継いで社長の座についたのは、父の弟である叔父だ。
だが彼は、重責に耐えられなかった。
叔父は、あっという間に精神のバランスを崩し、近づいてきたろくでなしたちに誘われるままに会社の金に手を出して、三年後に、特別背任罪で逮捕された。
会社が崩壊していく最中、真那の母方の祖父、弾正太一郎は『亡き娘の嫁ぎ先を救うために』と、孫娘の真那に何度もお見合いを強いた。
祖父は、弾正グループという金融系コングロマリットの総帥だ。
弾正家の傍流の出で、本家の跡取り娘だった祖母の婿として迎えられた。
婿となったあと、身を粉にして弾正家の発展に尽くし、弾正グループのドンとして君臨するようになった。現在は、日本経済界の支配者の一人と言われている。
超一流のビジネスマンである祖父には、充分に葛城工業を救える目算があったのだろう。そのために、孫娘を通じて、葛城家への干渉を強めようと画策していたようだった。
優秀な『操り人形』を真那の夫に据え、間接的に葛城工業の経営を建て直そうと……
だが、間に合わなかった。
男性に対して、過度に潔癖である真那には、『政略結婚』は無理だったのだ。
真那に触れることができるのは、父と、『初恋の人』だけだから……
葛城一族は太一郎の助力を拒み続け、新社長となった叔父の暴走を止めることもできないまま、会社をライバル企業に売却することになった。
先代社長の一人娘だった真那も、父母から受け継いだ葛城工業の株をすべて手放した。
その際に得たお金は、弁護士と会計士に相談の上、母が生前支援していたNGO団体に寄付を。
住み慣れた屋敷や別荘、先祖伝来の調度品、両親の所有していた美術品などもすべて処分し、そのお金も寄付に上乗せした。
財産を手放した理由は、安全のためだ。
政略結婚を拒み続けた以上、祖父の援助は受けられないし、父母の遺してくれた財産は、二十歳の女の子が所持するには危険すぎる大金だったから。
政略結婚を果たせず、葛城工業を救えなかった跡取り娘には、なにも望む資格はないとわかっている。これからは、誰の迷惑にもならないよう、一人で生きていく。
祖父母にはそう宣言し、今ではほぼ絶縁状態だ。
過去を思い出しながら冷え切った足で自宅マンションへ急いでいた真那は、不意に、腕を掴まれた。
突然乱暴に引き留められ、真那は、ぎくりとなって振り返る。
真那を引き留めたのは、背の高い男だった。
黒のコートに、アッシュグレイのマフラーを巻いている。夜を切り取ったような姿だ。
佇んでいるだけで様になる、均整の取れた体つき。
引き締まった美貌には、なんの感情も浮かんでいない。見覚えのある男の顔に、真那は絶句した。
「こんばんは、真那さん」
感情のない低い声が、真那の耳朶を打つ。身体中から血の気が引いてゆく。
真那は手首を掴まれたまま、背の高いその男を見上げた。
「時生、どうして」
漆黒の目で真那を見据える男の名前は、成瀬時生。真那の実家に勤めていた家政婦の息子。
幼なじみで、初恋の相手で……
そして、かつて真那が手ひどく突き放して、深く傷つけた人だった。
――どうして私に会いにきたの? アメリカにいるはずなのに……
呆然とする真那に、時生がゆっくり歩み寄ってくる。
三年前よりも逞しさを増した姿に威圧され、真那は、じり、と後ずさった。
「お久しぶりです」
落ち着き払った口調に、真那は我に返る。
「え、ええ……久しぶり、いつ日本に?」
「三ヶ月ほど前に戻りました。真那さんはお仕事帰りですか?」
時生が薄い唇を開く。ひどく他人行儀な口調だった。
少なくとも、真那の記憶にある優しい声ではない。
放心状態で立ち尽くす真那に、時生が感情のない声音で続けた。
「ずいぶん、みすぼらしいお姿ですね」
時生の言うとおりだ。
かつての真那は、日本でも指折りの富豪の娘として、すべてにおいて満たされた暮らしをしていた。けれど、今は……
政略結婚を果たせず、祖父の期待を裏切った真那は、贅沢する資格はない。
だから、ただひたすら彷徨って、そのうちいつか、朝露のように消えられればいいと思っていた。
「なにをなさっているんですか。上流階級の男に嫁ぐ予定だったのでは?」
憎悪に満ちた時生の声に、真那は唇を噛んだ。
三年前の別れの日、真那がついた『嘘』は、いまだに時生の胸に残っているとわかったからだ。
……あのときの真那には、時生に嫌われる必要があった。幼い頃からずっと時生だけが好きで、その恋心を、後見人である祖父に知られてしまったからだ。
『成瀬め、使用人の息子の分際で、私の孫娘をたぶらかしおったな。真那、お前もお前だ! あんな生まれの悪い男に近づくのは金輪際許さんぞ』
祖父の厳しい声が真那の心に蘇る。
両親の死の直後、時生は、二人の中を誤解し、怒り狂った祖父の手によってひどい圧力を掛けられた。時生は、兄代わりとして真那を守ろうとしてくれただけ。ただ一方的に、真那が時生を慕っていただけなのに。
ちょうど大学を卒業する歳だった時生は、祖父の手回しで国内での新卒就職の道を閉ざされ、アメリカに発たざるを得なかったのだ。
だから、真那は、葛城家が崩壊したとき、居住中のアメリカから駆けつけ、助けの手を差し伸べてくれた時生を突き放した。
『もう助けにこないで、お祖父様が、また貴方にひどいことをするのが怖い』
真那はそう思い、時生を振り切ると決めたのだ。
時生のように誠実な人間と断絶するためには、その人間にふさわしくない『卑怯者』になり見切りを付けられるのが、一番効果的だ。
だから真那は、あのときわざと、取り返しが付かないくらいに時生を傷つけた。
「貴女は、使用人の息子風情が勘違いするなと俺に言いましたよね?」
凍てつくような時生の声に、真那は頷く。
「ええ、そう言ったわ」
真那は時生に悟られないよう歯を食いしばり、低い声で続けた。
「時生も知っての通り、私は世間知らずでしょう。お相手をえり好みしすぎて、結局縁談は決まらなかったの。その挙げ句に、お祖父様に反抗して、見捨てられて、この有様よ」
この言い訳で、賢い時生を誤魔化せるだろうか。
真那は懸命に無表情を保ったまま、時生に尋ねた。
「それで、どうしたの? 私を笑いにわざわざ来たの?」
「ええ、そうですよ。貴女が片田舎のウィークリーマンションで一人暮らししていると聞いて、俺を振ったお嬢様が今、どんな顔をなさっているのか見にきました」
時生の形のよい唇が歪んだ。
記憶の中の時生の声とまるで違う。氷のような声だ。ひと言ひと言が、いつの間にか降り始めた重い雪の礫と共に真那に打ち付けられる。
――動揺した顔を見せては駄目。
真那は湿った髪を、冷え切った手でかき上げた。
「明日も仕事だから帰るわ、ごきげんよう」
だが、振り切ろうとした真那の腕は、もう一度大きな腕に掴まれ、引き留められた。
「放して」
「いいえ」
時生の腕は緩まない。真那を見下ろす目は、叩きつけるぼた雪より冷たくて、反抗する言葉が喉の奥で溶けていく。
「真那さんは今、フリーの翻訳家として細々と収入を得つつ、財産を処分した際の残金を切り崩しながら生活しているんですよね?」
なぜ時生は、真那の今の仕事まで知っているのだろうか。
真那は素早く視線を走らせ、時生の服装を確認する。
上質な仕立てのコートだ。スラックスの生地も、雪に濡らすには惜しいような品に見える。
かつての真那が見慣れた『裕福な男性』の装いだった。
――多分、興信所を使ったのね。でも、なぜ今更、私のことを調べたんだろう。
湧き上がる疑問を一旦胸に納め、真那は冷え切った唇を開いた。
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