贖罪婚 それは、甘く歪んだ純愛

栢野すばる

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1巻

1-3

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 時生に抱かれた真那の目から、ぽとりと涙が落ちた。
 ――泣くな……人前で……
 必死に言い聞かせても止まらない。真那は、てのひらの皮が爪で破れるくらいに、強くこぶしを握った。

「俺とアメリカに行きましょう。お願いです、真那さん。いくら貴女がしっかり者でも、こんな状況の貴女を一人にできない。俺が絶対に色々なことから守ります、だから……」

 時生の心配は当然のことだ。
 真那はまだ二十歳。時生に心配されているとおり、お嬢様育ちで世間の恐ろしさを知らず、父母が授けてくれた知恵以外に身を守るすべを持ち合わせていない。
 真那はてのひらの痛みを確かめながら、乱れた息を整える。時生がそこまで思ってくれて、とても嬉しいし幸せだ。
 だから、その尊く誠実な愛情は、この先、別の人にささげてほしい。なにもできないお嬢様のために、権力者の怒りを買う必要はないのだ。

「あ、あの、わ、私……私……」

 つぶされていく心が小さな悲鳴を上げる。
 ――アメリカから駆けつけてくれてありがとう、時生と一緒に行きたい。
 湧き上がった本音を呑み込み、真那は力を込めて、ぐいと時生を押しのけた。

『今すぐに時生に軽蔑けいべつされ、嫌われろ』

 えそうな心をふるい立たせ、自分自身にそう命令する。
 時生を自分の人生から切り離すのだ。
 祖父に、彼の人生をつぶさせてはいけない。彼だけは、守らなくては……
 そう思いながら、真那は震える唇を開く。

「私、したくもない結婚をするなら、せめて葛城家と同じ階級の人がいいの。だから、その提案はお受けできないわ」

 腫れぼったい目や、涙の伝った頬を誤魔化ごまかす余裕はない。
 庭を満たす甘い花の香りを残酷に感じた。心は裂かれて血を流しているのに、この庭は夢のように美しくて優しい。まるで自分だけが天国から追い出されたようだ。
 凍りついた時生に、真那は矢継ぎ早にまくし立てる。

「どうして驚くの? 当たり前でしょう? 貴方と結婚するほど落ちぶれていないわ。同情してくれてありがとう」

 真那は濡れた顔で時生を見上げ、うわずった声で言った。

「だけど勘違いしないで。私、使用人の息子の妻なんて絶対にお断りよ」

 心が完全に折れる前に、時生と自分の人生を切り離さなくては。

「真那……さん……」
「遠路はるばる来てもらったのにごめんなさい。じゃあ、さようなら。康子さんによろしくね」

 真那は涙を隠すために、急いで時生に背を向ける。
 引き留める声はもう聞こえない。真那も、二度と背後を振り返らなかった。
 ――大丈夫、これでもう、時生は私を忘れる……
 一歩歩くごとに、心がきしんでバラバラになっていくようだ。
 心の中から、人間らしい感情が少しずつ腐ってがれ落ちていく。
 ――さようなら、本当にありがとう。どうか、幸せに……
 足早に歩み去る真那を、時生は追ってこなかった。



 どうやら、ソファに腰掛けたままうたた寝していたようだ。静まりかえった部屋の中で、真那は目を覚ました。
 ――嫌な夢……見たな……
 頭が一瞬痛み、真那は顔をしかめる。
 何度、あの一瞬をやり直せたらと願っただろう。
『迷惑を掛けるけれど、時生と離れたくない』と素直に泣いて頼めばよかったのだろうか。
 けれど、若い二人で祖父から逃げて果たして上手くいったのか……
 一つわかるのは、今より世間知らずだった真那を抱え、時生は大変な苦労をしただろうな、ということだけだ。
 だが、あの日から状況は大きく変わった。
 三年前よりはるかに出世した時生は、弾正太一郎の孫娘であり、葛城本家の血を引く唯一の『令嬢』がほしいと言いだしたのだ。
 成り上がりの自分に必要だからだと。
 ――たしかに、私にはまだ、亡くなった両親のお友達や、社交界へのコネクションがある。お父様の母方の従兄いとこは、今、都銀の頭取とうどりをなさっているし、もう一人の従妹いとこは欧州の大使夫人で。その気になればいくらでも、時生と『上流階級』の人たちを繋ぐことができるわ。でも……
 真那は頭を押さえたまま、ゆっくりと立ち上がった。
 手足の先がひどく冷たいが、部屋の中は暖かい。横たわっているのは広いベッドだ。
 ホテルのエグゼクティブフロアだろうか。そこまで考えて、真那は我に返った。
 ここは時生の家だ。駅で車に乗せられ、ここに連れてこられた。
 真那はこれまでの経緯を思い出し、乱れた髪や着崩れた衣服を整える。
 コートは壁に掛かっている。周囲はとても静かだ。
 ――無駄にさからうより、体力を温存しようと思って休憩したんだっけ。なにもしないってわざわざ言うくらいだから、本当になにもしないのだろうし。……男の人相手にさからっても、力で勝ち目なんてないものね。
 真那はコートを着込み、床に置いてあったバッグを手に取る。財布はある。スマートフォンもいじられた様子はない。
 身支度を整え、真那は部屋を出た。廊下に人気ひとけはない。確か玄関は左手のほうだったと思ったとき、少し先の扉が開いて、時生が顔を出した。
 白いシャツ一枚の軽装だ。そういえば、この家の中は完璧に暖房が効いている。
 立ち尽くす真那に、時生が落ち着いた声で言った。

「疲れが取れましたか。では、こちらへ」
「なんのために私をここへ?」

 表情を変えることなく尋ねた真那に、時生が無表情に繰り返す。

「こちらへ来てください。話があるので」

 どうやら振り切るのは難しそうだ。真那は素直に彼の言葉に従った。
 通されたのは居間のようだ。ざっと目算して、四十畳ほどはある。
 かなりの広さだ。同時に、車で連れてこられたとき、最後に降りたインターチェンジが、都心の高級住宅街のそばだったことを思い出す。
 ――都心に、これだけの広さの家を構えているなんて。本当に成功しているのね。

「飲み物はコーヒーでいいですか?」

 時生の問いかけに、真那は無言で首を横に振る。なにも口にしたくない。

「コートを脱いで、ソファに腰掛けてください」

 淡々とした時生の声に、真那はあきらめてコートを脱ぎ、鞄を足下に置き、言われたとおりに腰掛けた。

「どうぞ」

 置かれたコーヒーからは、香ばしい香りがした。真那は手を付けずに、向かいの席に腰を下ろした時生に尋ねる。

「なぜ私をここに連れてきたの」
「申し上げたとおりですが」

 半眼はんがんになって押し黙る真那の前で、時生がかたわらに置いていたクリアファイルから、一枚の書類を取り出した。

「サインしてください」

 見慣れない書類だ。左上に大きな字で『婚姻届』とある。
 ――本気なの?
 真那は動揺したことを悟られないよう、冷め切った口調で言う。

「私に無理矢理署名させても、貴方に協力するとは限らないわ」
「ええ、積極的になにかをしてくれとまでは言いません。俺は貴女と結婚したいだけ。それと、子供を産んで頂ければ、なおいいですね」
「こど……も……?」

 真那は己の耳を疑う。

「はい。俺の地位を盤石ばんじゃくにするためにお願いします」

 戸惑う真那に、時生がいたぶるような声で尋ねる。

「昨日も伺いましたが、お祖父様の決めた御曹司と俺、どっちに犯されるのがいいですか?」
「な……っ……!」

 あまりの言葉に飛び上がりそうになる。
 こんなことを口にするような人ではなかったのに。
 真那の心臓がドクドクと嫌な音を立てる。背中に冷や汗が伝った。

「どちらも嫌なら、まだ我慢できるほうを選んではどうでしょう?」

 あざ笑うような冷ややかな笑みに、真那の足が震え出す。
 時生はもう、昔の時生ではない。改めてそれを思い知らされ、真那は強く首を横に振る。

「ど、どっちもいやよ……どうしてそんな……」
「まあ、そうかもしれませんが、どちらか選んで頂くしかないです。どっちにします? 俺にするか、顔も知らない男に犯されるか。さあ選んでください、今この場で」

 ――か、顔も知らない……
 ざあっと音を立てて血の気が引いた。耳にした言葉が脳に届いた刹那せつな、吐き気がして動くことすらできなくなる。青ざめて震える真那の肩に、時生が手を置いた。

「そう、よかった。俺のほうがましなんですね」

 笑いを含んだ声で問われ、ますます身体が震えた。
 ――どうして、そんなに嬉しそうなの、時生。
 まぎれもない喜びを宿した目が恐ろしい。血筋のいい女を利用できることは、そんなにも魅力的なのだろうか。
 つぐなうと約束したからには、なんでもするつもりだ。だが、真那の『協力』は時生を本当に幸せにするのだろうか。もう二度と、時生を傷つけたくないのに……

「……少し、考えさせて」
「なにを考えるんです? 他の男が駄目なんだから、俺にすればいい、そうでしょう?」

 反射的に頷きかけて、真那はぎゅっとこぶしを握った。時生の声が悪魔のささやきのように感じられた。

「ね、真那さん、俺でいいと言ってください」

 時生の声が低く甘く真那の肌に絡みつく。真那は吸い寄せられるように時生の顔を見上げた。

「俺はどんなに嫌がられても、貴女が必要だ。だから無理を通して迎えにきたんです。もし、どうしても嫌だというなら、閉じ込めてしまおうかな……ええ、それがいい。そうしましょうか」

 突然の言葉に、真那の身体がゾクッと震えた。

「どうしますか? 『俺は貴女がいい』、貴女は?」

 甘くあやしい声に、真那の身体が震えた。

『私も』

 飛び出しそうになった言葉を、真那は慌てて抑え込む。
 ――私、今……私も貴方がいいって、答えそうになった……



   ~時生 Ⅰ~


 時生が二十歳だった夏のある日。
 真那の両親が、屋敷の庭でガーデンパーティを開いた。
 海外からの賓客ひんきゃくや政治家も招かれた、目もくらむような豪華な場だ。
 葛城家の屋敷は、明治時代に迎賓館げいひんかんとして建てられたものである。庭の設計は、今は亡き高名なガーデンデザイナーの手によるもので、周囲をいろど薔薇ばらは葛城家の庭にしか咲いていない、特別な種類も多い。好事家こうずかが土下座して株分けをしてくれと頼むような名花ばかりだ。
 来客は美しい薔薇ばらを楽しみ、屋敷と庭の素晴らしさを褒めたたえながら、極上のシャンパンを片手に笑いさざめいている。
 時生は、そのきらびやかな会場の片隅で、黒子として控えていた。さっきから一つ気がかりなことがあるからだ。
 来客として招かれている名家のご子息の様子がおかしい。昔から時生は、真那に関するセンサーだけは異様に発達している。真那に近づく不届き者は絶対に許さないと心に決めている時生の目に、ご子息は『警戒対象』として映っていた。
 パーティが始まって二時間ほど経った頃、予想どおりの事態が起きた。
 ――嫌な予感があたったな……
 泣きながら逃げてきた真那を背中にかばい、時生は、その来客の息子と対峙たいじしていた。
 ――たしか、旦那様が、このご子息とのお見合いを断ったんだっけ。だとしたら、ずいぶん後先考えない振る舞いだな、こんなに泣いているホスト側の令嬢を追い回すなんて。
 時生は冷ややかな目で、その若者の姿を確かめる。
 同じ二十歳と聞いているが、高級ブランドの腕時計を身につけていて、金のかかった身なりだ。

「どうして逃げるんですか? 僕の話を聞いてほしいと言っただけなのに」

 若者は、整った顔に薄笑いを浮かべながら、時生の背中に隠れた真那の顔をのぞき込もうとする。
 はかなげなおびえる美少女に向けて嗜虐心しぎゃくしんあらわだ。時生は強い嫌悪感を覚え、眉根を寄せた。
 ――やめてくれ。真那さんは本当に嫌がっているのに。
 使用人の立場で、来客と令嬢の会話に立ち入るわけにはいかない。
 だが、真那が泣きながら逃げてきたのは異常事態だ。
 真那は男性が極度に苦手だが、人前で感情を剥き出しにしたりしない。葛城家の後継者として、幼い頃から振る舞いをしつけられているからだ。

「か、髪に……触らないでください……」

 真那が震え声で、若者に抗議した。

「ごめんなさい、あまりに貴女が綺麗きれいだったものだから」

 若者の言葉に、時生の背後の真那がますます縮こまる気配がした。

「おい、君は席を外してくれ」

 若者が、不機嫌そうに時生に『命令』した。こんな風に見下されるのは慣れている。
 時生は使用人の息子だ。上流階級の人の中には、時生に人権があることすら想像できない人間が、たまにいる。
 ――席を外せ? できるわけがないだろうが。俺の最優先は真那さんを守ることなんだよ。
 心の中で冷ややかに言い返し、時生はそっと真那を振り返った。

「どうなさいました、真那さん? あちらでお休みになりますか」

 青ざめた真那が、細い肩を震わせこくりと頷く。

「おい、あっちに行ってくれと言ってるだろう」

 ――二十の男が、十四歳の中学生と二人きりでなにを話すんだか。
 心の中で下心丸出しの若者をせせら笑い、時生は薄い唇を開く。

「申し訳ありません、お嬢様はちょっとお疲れのようですので」

 冷淡さのにじむ、慇懃いんぎんな口調にカッとなったのか、若者が乱暴に時生の肩を押した。

「君は席を外してくれと言ったはずだ!」
「あ……っ……」

 華奢きゃしゃな腕を無理矢理引っ張られ、真那が大きな目にふたたび涙を浮かべる。

「い、いや、やめてください、引っ張らないで」

 震えながらも気丈に拒否した真那の肩に、若者がれしく手を回す。

「我が一族との縁談は、葛城さんにとっても悪いものではないはずです。まだ中学生の真那さんには、きちんと理解して頂けていないみたいですね。僕と仲良くなりませんか?」

 若者に無理矢理抱き寄せられた真那は、蒼白そうはくになって震えている。

「と……時生……助け……」

 涙目の真那が細い手を差し伸べ、蚊の鳴くような声で時生に訴えた。
 若者の両親は財界の大物だ。真那との縁談はなくなったものの、家同士の付き合いは継続したい、というのが双方の意向だったはずだ。
 おそらく『縁談を再開したい』というのは、この御曹司の一存だろう。
 理由は多分、真那が美しいから。彼女に個人的な執着をいだいているからに違いない。
 あまり大騒ぎにならなければいいが……と思いつつ、時生はわざと、生意気に聞こえる口調で、若者に告げた。

「すみませんが、お嬢様は嫌がってらっしゃいますので」

 言いながら、遠慮なく、真那の身体を若者の腕から奪い取る。
 これまでは一切本気は出さなかったが、真那のおびえようを見ていて限界が近いことを悟り、放っておけなくなった。
 予想外の力で押しのけられた若者が、怒りの声を上げる。

「なんなんだ、お前は……!」

 若者の罵声ばせいも、計算内だ。時生は、もっと大声を出させようと、あえて生意気な態度を取り続ける。

「大丈夫ですか、真那さん」

 若者に背を向け、少し乱れてしまった真那の髪の毛を直した。
 次に、若者を無視したまま、真那の冷や汗を自分のハンカチで拭う。真那はほっとしたように、ふたたび時生の陰に隠れた。

「まだ中学生ですよ。そんなにガッつかれたら怖がるに決まってる」

 時生の冷淡な言葉に、若者が大きな声で反論しようとした。

「な……ッ! 失礼な、誰が……!」

 そのとき、背後から足音が聞こえてきた。

「真那」

 男性の声に、時生の背後に隠れていた真那がはじかれたように声を上げる。

「お父様!」

 そこに立っていたのは、真那の父、真一しんいちだった。威厳ある長身の紳士の登場に、若者の表情におびえが走る。
 この場面を真一に見つかるのは計算外だったのだろう。

「裏庭でなにをしているんだ。お客様がいらっしゃるんだから、ちゃんと表にいなさい」

 言いながらも、娘の顔色に気付いたのだろう。真一は真那のひたいに触れ、眉をひそめた。

「どうした、具合が悪いのか? ……なにがあった?」

 娘を案じる真一の脇を、先ほど真那に絡んでいた若者が無言で通り抜ける。
 さっさと姿をくらました若者に、時生は苦笑した。
 ――さすがに、葛城家のご当主の怒りを買う度胸はないのか。
 無言で父娘の様子を見守っていると、真那の様子を確認し終えた真一が顔を上げた。

「時生君、騒ぎにならずに収めてくれてありがとう」

 真那の肩を抱いたまま、真一が優しく微笑む。

「今日のゲストには、彼のご両親の知り合いも多い。考えなしに真那を追い回されてどうしようかと思っていたが、まあ、私に一度見つかったからりるだろう。君がうまく真那をかばってくれて助かった」

 娘の長い髪をで、真一が優雅に語りかける。
 どうやら、真一は事態を把握はあくしていて、裏庭に連れ込まれた真那を心配していたようだ。
 真一がゲストとの会話を止めて突然駆けつけたら、皆心配して、あるいは好奇心で、自分のあとを追って押しかけると予想したのだろう。
 そうなれば、若者が真那にしつこくしている場面を多くの人が見ることになる。
 だからこの場を、常に真那の『番犬』を務めている時生に任せつつ、裏庭に来られるタイミングを狙っていたのだ。

「落ち着いたら表においで。もう少し我慢できるね、真那」

 父の言葉に、真那は素直に頷いた。

「では、私は先に戻っているからね、お茶でも飲んで休憩してきなさい」

 時生は一礼して、真一の広い背中を見送る。それから、真那を振り返った。
 小さな白い顔には血色が戻り、いつもの愛らしい桃色の頬を取り戻している。

「大丈夫ですか、真那さん」

 尋ねると、真那が頬をかすかに染め、頷いた。

「時生が助けてくれたから」

 じらうようにうつむくさまは、まるで咲きめたはる薔薇ばらのようだ。
 全幅ぜんぷくの信頼を込めた真那の笑みに、時生の心が深い満足を覚えた。
 昔から、この年下の女の子が喜んでくれればそれでよかった。
 妹のような存在だからなのか、頼られることで自尊心が満たされるからなのか、それは自分でも明確にはわからない。
 だが、真那が時生を信用してくれることが嬉しいのだ。
 それだけで、なんでもしてあげようと思える。
 ――当然です、真那さんは俺と母さんの恩人のお嬢様なんだから。
 時生は微笑んで真那を見つめた。
 卵形の綺麗きれい輪郭りんかくに、まっすぐなさらさらの黒い髪。
 そしてなにより目をくのが、まっすぐにりんと伸びた背中。年相応の愛らしさが、にじみ出る生来しょうらいの気品と相まって、真那を真珠しんじゅのように見せている。
 美貌びぼうで名高い母親似の真那は、道行く人が振り返るほどの美少女だ。
 葛城家の掌中しょうちゅうたまとして、誰からも大切にされている。
 もちろん時生にとっても、真那は主君の大切なお嬢様、だ。幼い頃は、やんちゃな真那に、ボール遊びに虫取り、おんぶに抱っこと、散々付き合わされた。
 妹のように大切な存在。それが、時生にとっての真那だ。
 葛城夫妻は心の広い人たちで、娘と使用人の子が遊んでいても嫌な顔一つしない。
 真那の父、真一は『真那は一人っ子だからね。兄のように真那を大事にしてくれる人がいるのは、親として嬉しいよ。男嫌いのあの子も、珍しく君には懐いているし』と言って、避暑の際など、時生を同行してくれることもある。
『身分違いの子供なのに優遇されすぎている』と陰口をたたかれているのは知っているが、仕方がない。実際に、身に余る厚遇なのだから。
 だが、なんと言われようと、時生は葛城家のお嬢様の『番犬』であることをやめない。
 時生の母、康子は、浮気性の夫に逃げられ、女手一つで苦労して幼い時生を育てていた。
 困窮こんきゅうし途方に暮れていたところに手を差し伸べてくれたのが、社会福祉やチャリティに強い関心を持つ葛城夫妻だった。
 寡婦かふの支援団体から母の状態を聞いた夫妻は、家で家政婦として働くよう申し出てくれた。
 それ以降、母は葛城夫妻に深く感謝し『もっともっと尽くして、ご恩を返さなくては』と、仕事に精を出している。

「ちょっとお茶を飲んでから戻ろうかな……」

 真那の言葉に、時生は頷いた。

「では、おれしますね。居間に参りましょうか」
「ありがとう」

 真那は時生の言葉に屈託なく笑って、目の前を歩き出す。
 ぴんと張り詰めたような美しい足取りだ。真那は幼い頃からバレエに日舞にちぶに、一通り習ってきている。滑るように優雅な歩き方は、一朝一夕いっちょういっせきに身につくものではない。
 大学にもバイト先にも、綺麗きれいな女の子はたくさんいる。
 だが、真那のような人間は見たことがない。
『姫君』という言葉がふさわしい少女は、時生の知る限り真那だけだ。

「あ、そうだ。時生に本を貸す約束をしてたわね」

 ふと真那が口にしたのは、最近日本でも翻訳され、大ブームを起こした、イギリスのファンタジー小説のタイトルだった。
 半月ほど前、イギリス出張していた真一が、愛娘の土産にと原書を買ってきたもののはず。
『俺も興味がある』と口にした時生に、真那が『読み終わったら貸してあげる』と約束してくれたのだ。律儀りちぎな彼女は絶対に約束を忘れない。
『約束を忘れるのは、相手をかろんじているのと同じだから気をつけなさい』と両親からしつけられているせいもあるのだろうが、根が生真面目なのだ。

「もう読み終わったんですか? 旦那様があの本をくださったのは、ついこの間では?」

 英語の小説は、実用書と違って読みにくい。
 造語や見慣れない名詞が頻繁ひんぱんに出てくるし、その国の故事を知らないと理解できない表現も多いからだ。

「読み終わったわ。日本語版と比べて、何ヶ所か、翻訳時に変えられていた設定があったけど。やっぱり小説は、文化的な素養がないと理解できない表現が多いわ。キリスト教の故事なんて、日本の義務教育じゃ、なかなか触れないものね。あとで時生も読んでみて」

 あっさりと言い切った真那に、時生は感嘆かんたんする。
 ――あの厚さの英語の本をもう読んだのか。勉強や習い事にも時間が取られるだろうに。さすが、真那さんだな……
 真那は父親の真一に似た、非常に聡明な少女だ。
 都内の難関私立高校に通い、成績はトップクラスをキープし、海外からの賓客ひんきゃくが葛城邸を訪れたときも、臆することなく英語でやり取りしている。
 真那と接した誰もが、さすがは名家のご令嬢と感嘆かんたんする。
 だが、素顔の真那は普通の素直で明るい少女だ。時生や母の康子に対しても、高圧的な態度だったことなど一度もない。いつも品がよく穏やかで、思いやりにあふれている。
 まさに本物の『姫君』だ。きっと将来は、淑女のお手本のような女性になるだろう。
 ――男性が苦手なのも、年頃になれば治るだろうしな。
 二十歳になった真那は、どれほど美しいのだろう。社交界の男たちは、こぞって葛城家の美貌びぼうの姫君……真那に求婚するに違いない。
 どんなによい縁談であっても、真那が怖がるような相手は論外だ。状況の許す限り、時生が真那を守らなければ。
 だが、もし、真那が笑顔を向ける男性が現れたら、その時は……そこまで考え、胸がかすかに痛んだ。
 わかっている。身のほどはわきまえているつもりだ。真那にふさわしい相手が現れれば、そのとき、番犬はお役御免ごめんになると。


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