創世の魔王は、永遠に彼女を離さない

栢野すばる

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 志恵は、自室のベッドの上で目覚めた。衣服も髪形も、見慣れた自分のものだ。
 ――帰ってきた?
 志恵は驚いて、階下に降りる。居間では、父はテレビを見ていて、母はコーヒーカップを洗っていた。
 平凡な、夜更けの光景だった。
「あら、志恵、明日バイトもあるなら早く寝なさいよ」
 母の言葉に、志恵は慌てて頷いた。
 ――帰って……来たんだ……。
 同時に、ひさしぶりの空腹を感じ、下腹部に手を当てる。
 身体は元に戻り、志恵がトラックに跳ねられて死んだ事実などなくなっているようだ。
 志恵は呆然としたまま部屋に戻り、もう一度ベッドに寝転んだ。
 ――あれは……夢……。
 蛍光灯で照らされた天井を見上げながら、志恵は呟いた。
「悪夢……だったんだよね……?」
 ともかく、あの異様な世界から解放されたのだ。あまりほっとしていない自分に違和感を覚えつつ、志恵は着替えるために起き上がる。
 ――そうだ、明日は授業とバイト……それから土曜日は友達と……。
 予定を頭に思い浮かべた瞬間、志恵は思った。
 どんな予定をこなしても、自我を失うほどの快楽はもう得られないのだ。そのことを物足りなく思う。
 ――な、何を考えてるの!
 志恵はあわてて、突然浮かんだ異常な考えを振り払った。
 きっと変な夢を見て疲れているのだ。そう思いながら、志恵はクロゼットの戸を開けた。
 
 
 異様な悪夢から覚めて一年。
 志恵は無事に進学も決まって、就職活動も始まった。
 そんな中、志恵の心に巣くっているのはただ一つの思いだった。
 何をしても、あんな快楽はもう手に入らない、という失望だ。
 恥ずべきことだと分かっていながらも、手に入る限りの玩具で自分を慰め、合法的な媚薬のようなモノも使ってみた。それから、行きずりの男と寝たりもした。
 しかし、全ての行為は快楽ではなく、ただ少し気持ちいいだけの刺激だった。
 このまま働き、特定の恋人が出来てセックスをしても、志恵が快感を得ることはないのだろう。
 だが、あの快感をもう一度味わいたくてたまらない。
 見えない触手に絡められ、触れるだけでよがり狂う媚薬にまみれて秘部を貫かれたい。男の獣欲に貫かれ、言葉も忘れるまであえぎ尽くしたいのだ。
 ――何を考えてるの。駄目……ちゃんと働いて、ちゃんと結婚して……ちゃんと……私……ちゃんとしなくちゃ。
 顔を洗っていた志恵は、顔を上げて鏡を見つめた。
 鏡を見るたびに、無数の空間で悶え乱れる自分の姿を思い出す。
 あれほどの快楽は、この世界のどこにもないのだ。
 何度も味わった失望が志恵の胸に広がる。
 これから将来を考え、就職活動を初めて、恋愛だってしたい。そう思うのに、どれにも楽しみを感じない。
 志恵は指先で鏡に触れ、じっと向こう側の自分を見つめた。
 ――もしかしたら私は、あの日ダンプにはねられて死んだのかもしれない。だから、私はもう、人間じゃないのかもしれない……。
 馬鹿げている、と思いながら、志恵は微笑んだ。
 そう、馬鹿げている。『あの世界』は色情狂の女が見た妄想だ。
 妄想だと納得できれば、諦めることも出来るはず。
 ――一度だけ、試してみよう。あれは妄想だと分かるから……。
 この世界に帰ってから、志恵は一度も男の名を呼んでいない。
 あれは自分の悪夢だと思いたかった。自分を、快感に溺れた、本能むき出しの雌だと思いたくなかったからだ。
 ――馬鹿みたい。
 志恵は躊躇った末に、あの不思議な音を唇に乗せた。
 つぶやき終えても、何も起きない。
 志恵は、鏡を見つめて落胆の笑みを浮かべた。
 ――やっぱり、あの世界は、私の妄想。
 深い諦めと共に、志恵は結論づける。
 あの淫夢の世界は、志恵の頭の中にしかないのだ。
 苦笑しながら、志恵はきびすを返して洗面所を出た。
 妙に家の中が暗い。
 不審に思ったとき、強いめまいが志恵を襲う。
 壁につこうとした手が、そのまま空をさまよい、身体がぐらりと傾いだ。
 転ぶ、と思った時、不意に誰かが現われる気配がした。
 母だろうか。
 『めまいがする』と言いかけた志恵の耳に、信じられない声が飛び込んでくる。
「お帰り」
 懐かしい男の声に、志恵は顔を上げた。
 気づけば志恵は、かつて囚われていた球形の空間にいた。
 あの、淫らで完璧な世界が、志恵を包み込んでいる。
「会いたかったよ、志恵」
 銀の絹糸が、志恵の視界に翻る。
 長くしなやかな腕が、ふらつく志恵の身体を抱き留めた。
「寂しかった。もしかして、もう戻らないのかと思っていた。僕はあんなに気持ちよかったのに、志恵はちがったのかと……」
 甘い声が毒のように志恵の耳に染みこむ。
 男の背中にそろそろと手を回し、志恵は小さな声で答えた。
「戻ってきたわ」
 ぞわり、と身体中の細胞が騒いだ。
 志恵の下腹に熱がこもり始める。
 狂うほどに求めた絶頂の予感に、志恵の身体はどうしようもなくうずき出した。
「ああ、志恵だ。志恵の匂いがする」
 男がうめくように呟いた。
 その声に、志恵は自分と同じ感情を嗅ぎ取った。
 彼も、あの快楽を失いたくなかったのだ。
 志恵とこの男は、同士なのだ……。
「僕のつがい、僕の志恵。君にまた最高の快楽をあげる。快楽以上の幸せなどこの世界にはない。お前にももう、充分に分かっただろう? 退屈も、寂寥も、慟哭も、絶望も、快楽の前には無力なのだから」
 男の言葉と同時に、志恵の足首に見えない触手が絡みつく。
 肌に染みこむ媚薬が、志恵の身体を燃え立たせる。
 ――ああ……私は、これを……。
 見えない触手が志恵のスカートをまくり上げ、下着の中に忍び込む。
 たちまち蜜を湛える秘所を、透明な切っ先が優しく舐め取る。
「あ……っ……」
 志恵の息が、熱く曇りはじめた。
 くちゅくちゅと音を立て、触手の先が、志恵の中に割り込もうとする。
 志恵は膝頭をすりあわせ、たまらずに男に縋り付いた。
「あぁん……っ……こんな……いきなり……っ」
 身をくねらせる志恵を抱いたまま、男が楽しそうに呟いた。
「やっぱり可愛い声だ。世界でたった一つの異物、愛しい、僕の志恵」
 焦がれ尽くした快感が、志恵の身体を駆け巡る。
 満たされた思いで、志恵は男の口づけを受け入れた。

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