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第三章 妹

第20話

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 三日後、水曜日の朝。日課の早朝稽古を終えた冬鷹は、登校前に雪海の部屋を訪ねた。

「あのさ、雪海。明日の放課後空いてるか?」

〝あのこと〟があってから何となく接しづらくなっていた冬鷹は、恐る恐る話しかける。
 対して、雪海からは普段と変わらない様子で、「何?」と返えってきた。

「さっき先輩に頼んで明日の放課後オフをもらったんだ。だから約束してたアイス、食べに行かないかぁって思ったんだけど……?」
「……別にいいけど」

 そう答えた雪海はしかめっ面を浮かべていた。

「ごめん! やっぱり不味かった? 急過ぎたよな」
「別に。そんなんじゃないし……ただ、最近のお兄ちゃん……なんでもない!」

 プイッと顔を背けた雪海は、分身を作りだし、制服・鞄と装備させていった。

「もっ、もう、学校行くのか?」

「日直」と短い答えを置いて、分身は部屋を後にした。

 妹の本体はゆっくりと溶け、プールの水と混ざる。
 水化した本体は確かにそこにいるはずだ。
 だが、分身が外出する時は、そちらに意識を移している為、反応はない。
 実質、置いていかれたのと一緒だった。



「おや、冬鷹。今朝は早いのだな」

 軍本部に自室を持つ冬鷹は、同じく軍で寝食する佐也加と軍の裏玄関で会った。連日通り、今朝も早朝稽古を付けてもらっていたが、登校前の玄関で会うのは珍しい。

「表情が冴えぬ様だが、どうかしたのか? 先はそんな事はなかったと思うが」

 一緒に登校する事になった冬鷹は、つい先程の雪海とのやりとりを佐也加に話した。

「姉さんには雪海の気持ちがわかる?」
「無論、正確には判らん。だが冬鷹の話を聞いた限りでは、貴様の態度が問題だったのではないかと考えられるな」
「態度?」
「冬鷹、貴様は普段、雪海と諂うような態度で接しておらぬだろう? 仮に、貴様が私に対して任務中とそれ以外での態度を入れ替えたとしよう。任務中であれば、上官に対しての態度とは言えぬ故に処罰の対象であるし、それ以外の状況では他人行儀ゆえに不信感を抱く――ともすれば不快に思うかもしれん。つまりはそういう事だ」

「でも、それは」と冬鷹は〝あのこと〟について話した。
 佐也加はそれを「だからなんだというのだ」と一蹴する。

「たかが、妹の心が兄から少し離れた程度の事で、貴様は態度を変えたというのか?」
「『たかが』ってッ、俺にとっては大事件なんだよッ」

 思わず噛みつく。だが佐也加はいつも通り、いたって冷静だった。

「今の状況を考えろ。妹の少しの心離れを重く受け止めたせいで、貴様は態度を妙なものに変え、結果雪海を不快にさせた。そんな事は少し考えれば予測できたろうに、貴様は己が傷ついた事を優先するあまり状況を悪くしたのだ。冬鷹、貴様にとっては、雪海が不快な思いをする事に比べれば、雪海の心が離れる事は大した事ではないはずだ。私が『たかが』と言ったのはそういう事だ」

 全くの正論に、何も言い返せず、冬鷹は言葉を詰まらせた。

 佐也加は日頃から余計な言葉を一切発しない。そのせいか、二人は無言のまま学校へと歩みを進める。だが幸い、街の人が時折「佐也加様、おはようございます」などと声をかけてきたので、沈黙もあまり気にはならなかった。

 校門を潜り、昇降口が見えてくると佐也加は凛然と言葉を紡いだ。

「考えろ。好かれたい相手がいるのなら、好かれる努力をするのは当たり前の事だ」
「……もしかして姉さんにもそういう相手がいるの?」

 佐也加が確信的な事を言う時は、それが自分の経験を元にしたものである事が常だった。つまりは好かれたい相手が佐也加にもいる・もしくは「いた」という事になる。

 だが、冬鷹が素直に驚いていると、佐也加は鼻で笑った。

生憎あいにくだが恋慕れんぼを抱くような対象に出会った事はない。それに私のような『強い女』は世の需要とは合っていないようだしな。下らない邪推よりも、自分の課題について頭を使え」

 佐也加はそう言って悠然と二年生の下駄箱の方へ消えていった。

 別に恋愛とかに限った事じゃないんだけどな――。

 好かれたい相手がいる――街と市民を守る事に全てを捧げているような、完全無比の鋼鉄の戦姫然としている佐也加が、そんな事を思っているなんて考えた事もなかった。
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