どうやら婚約者の隣は私のものではなくなってしまったようなので、その場所、全てお譲りします。

皇 翼

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24.

花びらがひらりと、私達三人の間に落ちた。
薄桃色のひとひらが、石畳の上で静かに静止する。その光景はとてもきれいなものだった。町全体が花で埋め尽くされいる。
レオンハルトは膝をついていた姿勢からゆっくりと立ち上がり、大きな掌を私に差し出した。

「立てるか?」

差し出されたその手を見つめる。
節くれだっていて、温かくて、ついさっきまで私を必死に追いかけてきた手。
今は私を捕らえるための「鎖」ではなく、この場所から引き上げるための「光」としてそこにある。私は迷いを捨て、その熱を掴んだ。

「……はい」

ぐい、と引き上げられる力強い感覚。それと同時に、胸の奥で固まっていた不安の結び目が、指先から伝わる体温で少しずつ解けていく。
行き止まりの袋小路から一歩踏み出すと、そこには再び、極彩色の光と喧騒が押し寄せてきた。

空は深い群青へと染まり始めている。だからこそ、軒先に吊るされた提灯の橙色が、夜の帳を弾くように鮮やかに映える。
屋台からは、肉の焼ける香ばしい匂いや、砂糖の焦げる甘い香りが風に乗って鼻腔をくすぐった。祭りを楽しむ子供たちの無邪気な笑い声が、空気を震わせて、祭りをより盛り上げる。
さっきまで、心臓を叩く音しか聞こえない孤独な逃走劇の中にいたのが嘘みたいに、世界は楽しげだった。

「……ここは、とても賑やかですね」
「祭りだからな。浮かれる者が多いのだろう」

レオンハルトは周囲に鋭い視線を配りながらも、さりげなく私の半歩前に立ち、人混みを分ける盾となった。逆にセルジュは、背後からの視線を遮り、いつでも攻撃に対応できるように私の斜め後ろに位置取っている。二人の騎士に守られているようなその配置に、私は密かな安堵を覚えた。

「少し歩きますか?どうせなら、この活気を少し楽しんでから宿を探しましょう。たまには戦いを忘れて祭りに興じるのも悪くないはずですよ」

セルジュが、こちらの緊張をほぐすような柔らかい声で提案した。

******

最初に足を止めたのは、香ばしいバターの匂いを漂わせる焼き菓子の屋台だった。

「甘い匂い……お腹空いたな」

つい独り言のように呟くと、レオンハルトが迷いなく懐から銀貨を取り出し、店主に差し出した。

「三つ」
「あ、僕はいらな――」
「三つだ。セルジュ、こんな日くらいは、体型維持だの節制だのと言わなくていいだろう」

意外な言葉に、セルジュが「やれやれ」といった様子で小さく肩をすくめる。
手渡された紙包みは、指先が火傷しそうなほど熱々だった。一口かじれば、サクリと小気味よい音が響く。中からは、とろりと濃厚な甘さのクリームが溢れ出した。

「おいしい……」

じんわりと、舌の上で甘みが広がる。
逃亡生活の中、少しの消費でも、それを削減するように節約を続けてきた私にとって、贅沢な甘味は何よりの良薬だった。追われる身で、こんな風に笑っていていいのだろうか。そんな罪悪感が一瞬だけ頭をよぎる。けれど、口いっぱいに広がる幸せには抗えなかった。

「なら良かった」

レオンハルトの横顔を見ると、彼はほんの少しだけ目を細めていた。いつもの険しさが消えた、凪のような優しい瞳。その奥に微かな喜びが見えるようで、私は「彼も甘いものが好きなのかもしれない」と、勝手な親近感を抱いてしまう。

「あーー、美味しい。またリバウンドしてしまう……明日は、明日からは、食べる量を絶対に減らします」

セルジュが天を仰ぎながら、楽園にいるような、あるいは地獄を覚悟したような複雑な表情で焼き菓子を頬張る。
レオンハルトの話によれば、セルジュは幼い頃、かなり「大きな」体型だったらしい。今のシュッとした姿からは想像もつかないが。
だからこそ彼は甘味に対して異常なまでの自制心と、人一倍の情熱を持っているのだという。
赤くなって昔話をかき消そうと大声を出するセルジュと、それを淡々と語るレオンハルト。二人の長い月日と信頼関係が垣間見えた。
私はまた一つ、彼らの新しい一面を知れたことが無性に嬉しかった。

射的にくじ引き、祭りの記念品を並べた露店。
私達はそぞろ歩きを楽しみ、私は二人の目が逸れた隙に、ひっそりと「鈴蘭のイヤーカフ」を三対買い求めた。銀細工の小さな鈴蘭が、灯りに照らされて可憐に光る。あとでこれに、お守りの魔法を仕込んで渡そう、そう考える。
そう決めるだけで、未来への楽しみが一つ増えた。

色とりどりの花冠、路上で喝采を浴びる大道芸。
私たちは束の間、自分たちの立場を忘れ、この国が誇る「花冠祭」の熱気に身を委ねたのだった。

******

しかし、祭りの魔法は永遠ではない。
夜は確実に深まり、現実という冷たい空気が肌を刺し始める。休息の場を確保しなければ、明日への活力と元気な身体も得られない。

「そろそろ、宿を押さえましょうか」

セルジュの現実的な一言で、夢心地だった私の意識は引き戻された。
だが――ここからが本当の試練だった。

一軒目。
「あぁ、悪いね。満室だよ!」

二軒目。
「おやおや、予約なし? 祭り期間中は三日前が常識でしてねぇ。お気の毒に」

三軒目。
「部屋? 天井裏なら空いてるかもしれないけど、人間用はないね!」

……まずい。非常にまずい。
このまま一晩中街を彷徨い、挙句の果てに野宿なんてことになったら、護衛の意味も隠密の目的も台なしだ。焦燥感に駆られ、さらに何軒も回るが、門前払いの連続。

そうして、半ば絶望しながら訪れた二十四軒目。
年季の入った看板を掲げる宿で、年配の女将が使い古された帳簿と私達三人を交互に見比べ、怪訝そうに首を傾げた。

「うーん……そうねぇ……」
「ありますか?」
「一室なら、あるにはあるけど」

その瞬間、三人の間に妙な沈黙が走った。

「……一室、ですか?」
「ええ。二階の角部屋。ついさっきキャンセルが出たところでね。三人で泊まるなら、まあ……寝られなくはない広さかねぇ」

『寝られなくはない』という、非常に含みのある言い回し。
レオンハルトが気まずそうに、コホンと一つ咳払いをした。

「……別の宿を探そう」
「レオン、もう全部回りましたよ。ここが最後の一軒です」

セルジュが死んだ魚のような目で淡々と告げる。

「空きはここだけ。贅沢を言える状況じゃありません。泊まりましょう、仕方がありません」
「でも、一室って……あの……」

予想だにしない「男女同室」という展開に、私の声は蚊の鳴くように小さくなる。
そんな初々しい私の反応を、女将は見逃さなかった。彼女は口角を吊り上げ、ニヤリと下世話な笑みを浮かべる。

「いいじゃないの、祭りだもの。若いんだから、細かいこと気にしなさんな。あんたたち、若いんだから二人くらい、どうってことないでしょ。おばちゃんだってねぇ、若い頃はよく、複数人でもやったもんよ。いい思い出になるわよぉ。弾けちゃいなさいよぉ」

なんてことを言うんだ、このババアは!
言葉の意味を理解した私の顔が、祭りの提灯よりも真っ赤に染まるまで、そう時間はかからなかった。

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